憲法

2016年8月 6日 (土)

ヘイト本と出版の自由-出版労連シンポジウム

 さる7月30日に、出版労連が主催したヘイト本を考えるシンポジウムにパネラーとして参加しました。

http://www.labornetjp.org/news/2016/1469979721323left

ヘイトスピーチ出版、いわゆる「ヘイト本」(例えば「そうだ難民しよう! 」はすみとしこ著・青林堂)について出版人の良心を問うという企画でした。

私は法律家として、コメントするという立場で参加。

あらためてヘイトスピーチの国際人権法について諸岡康子弁護士の「ヘイトスピートとは何か」(岩波新書)を読みなおしました。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1312/sin_k743.html

■ヘイトスピーチ解消推進法の成立

 正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」と言います。具体的な規制は盛り込まていない「理念法」ですが、外国人に
対する不当な差別的言動の定義を次のように定めます。

「①差別的意識を助長し又は誘発する目的で、②外国の出身であることを理由として、③公然と、④生命などに危害を加える旨を告知し又は著しく侮蔑するなど、地域社会か
ら排除することを扇動するもの」

 問題を抱える法律とはいえ、ヘイトスピーチ解消推進法が成立したことは最初の大きな一歩前進です。

 この法律も次の国際条約をもとにしたものです。

●国際自由権規約第20条2項
 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」
この国際自由権規約を日本は、1979年に日本は批准してます。

●人種差別撤廃条約
第1条1項
 
 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをい
う。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。


  (a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪
であることを宣言すること。

  (b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

  (c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 この人種差別撤廃条約については、日本は、1995年に第4条(a) (b)を留保した上で批准しています。留保とは、上記(a)(b)処罰規定については排除又は変更するという留保条項です。

■人種差別条約ではなく、人種「的/等」差別条約

 人種差別撤廃条約の第1条の定義だと、「人種」だけでなく、世系、民族的、種族的出身も含まれるので、本来は人種的ないし人種等差別条約と訳したほうが良いです。日本人と韓国・朝鮮人は人種は一種ですが、民族的には異なるので、同条約が適用されます。

■ヘイトスピーチの定義が不明確かつ広範囲

 人種差別は、けっして許されないが、すべて処罰することは表現の自由を侵害するのではないか。これが問題です。「ヘイトスピーチ」、「人種差別的表現」、「人種的憎悪をあおる宣伝」、「民衆扇動をして人間の尊厳を侵害する表現」とか言っても、あやふやな定義でしかありません。

 中国や北朝鮮の軍事的膨張主義、あるは米国の帝国主義的軍事介入主義を批判することが、人種的差別表現として規制されるかもしれません。

 笑い事ではなく、諸岡康子弁護士の岩波新書では、このような濫用的事例が報告されてます。


■ドイツの濫用事例



 ドイツでは、ドイツ刑法130条1項にて「公共の平穏を乱す態様で憎悪をかき立てるなど他人の人間の尊厳を攻撃する行為」を禁止してます(民集煽動罪)。
 1991年、ドイツの平和運動家が、湾岸戦争へのドイツ軍派兵反対運動として、「兵士は人殺しだ」というステッカーを貼った行為が、民集煽動罪で起訴されたという。

 1994年、ドイツ連邦通常裁判所で被告人は無罪となった。ただ、ドイツの裁判所の判断は「ドイツ連邦軍兵士は人殺しだとの表現は130条1項該当するが、兵士は人殺しとの
表現は該当しない。」とうものであった。


■トルコの濫用事例


 クルド人女性弁護士が軍によるクルド人女性へのトルコの蹂躙を批判したところ、その発言が「人種的憎悪の扇動を禁止する法律」違反するとして有罪とされた。

■ヘイトスピーチは表現の自由か

 そもそもヘイトスピーチは表現の自由に含まれないという立論をする人がいます。しかし、あまりに単細胞の発想です。ドイツやトルコの濫用事例を見れば一目瞭然でしょう。日本でも、共産党が自衛隊予算を「人殺し予算」と発言しました。ドイツでは、この発言が民集煽動罪で有罪になりかねないということになります。日本で、この規定があれば、自民党政府はよろんごで共産党の発言者を刑事訴追したことでしょう。

 ですから、ヘイトスピーチに対する規制は必要ですが、その規制方法と程度は慎重に検討しなければなりません。
 
■法律家としては

 立憲主義を尊重する法律家としては、ヘイトスピーチ規制の目的は」正当であり、今や日本ではその必要があると考えますが、その規制手段と規制の程度は慎重に検討しな
ければならないと思います

 国連の人種差別撤廃委員会も、すべてのヘイトスピーチに処罰規定を設けろと言ってるのではなく、次の三段階に分けています。
 最悪レベルは「犯罪として処罰」(刑事規制)、悪質レベルは、「民事・行政的規制」、法違反ではないが「憂慮すべき表現」として社会的に非難するレベルです(ヘイト スピーチに関する一般的勧告35・2013年、ラバト行動計画・2013年 上記諸岡康子著書)。
 出版については、外国人などに暴力によって危害を加えるよう扇動する以外には、どんな内容でも法的な出版禁止などは設けるべきではないでしょう。やhり言論には言論にて対抗するのが原則です。


 こういうと、「お前は被害者の心の傷をわからないのか」とか「ヘイトの被害者には表現の自由がない」とか「いまだにヘイトスピーチを表現の自由に含まれるというお前はレベルが低い」とかのお叱りを受けます。


http://www.magazine9.jp/article/biboroku/29674/

 弁護士は、刑事事件の被告人を弁護するときには、「被害者の人権を否定するのか」とか、「被害者の気持ちを考えろ」とか非難されます。でも、法律家としては、加害者がどんなにひどい悪辣非道な犯罪者であっても、適正手続や表現の自由を保障する「法の支配」を否定することはできません。バランスが必要です。

■ヘイト規制を声高に言う人は政治権力を信頼しているのか

 ヘイトを刑事規制をしろと声高に言う人はおそらく政治権力や司法や捜査機関を信頼しているのでしょう。

 しかし、私は、日本の政治権力や捜査機関を、長年の弁護士経験からして、まったく信用していません。唯一信用できるのは、司法手続が公開されて世論の批判をうけるシステムがあることだけです。裁判官を信用してるわけではありませんが、司法手続と判決や決定が公開されていることは、表現の自由が保障されている限りまだ信用できると思います。
 
 何よりも日本は、戦前支配層の流れをくむ保守政治が長く続いてきています。

 中には未だに、「国民主権、基本的人権保障、平和主義を捨てなければ日本は独立国家になれない」とか「日本は天皇を中心とした神の国だ」とかを唱える自民党政治家や日本会議のトップの元最高裁長官がいます。彼ら彼女らが、これを本当に信じているなら、まさに民族主義の狂信主義といってもよいでしょう。欧米的な基準からすれば、小池百合子氏も、稲田朋美氏もネオナチばりの歴史修正主義者であり、右翼民族主義者にほかなりません。しかも核武装論者です。


 そんな日本に、ヘイトスピーチの刑事処罰法を導入すれば、捜査機関を使って政府の気にくわない言論をヘイトスピーチとして弾圧を加えるあらたな方策を政治権力に与えるだけです。

 なぜ、リベラルと言われる人たちがヘイトスピーチ刑事処罰法を導入しよとしているのか、私は理解に苦しみます。

 これからの将来、共産党独裁の中国の台頭や混乱、日本の経済的地位低下を考えれば、日本人が右傾化していくのは不可避で、それは歴史的必然でしょう(古今東西の歴史が人間とはそういう傾向があることを証明している)。このような情勢の中で、リベラル派がヘイトスピーチ刑事規制を求めることは、敵に塩を送り、自らの首をしめるようなものでしょう。

■ではどうするか

 私は、政府や行政から独立した「人種的差別撤廃委員会」を設置して、行政的規制(ヘイトスピーチへの警告、勧告、違反者への公表。例えば、大阪市条例のような法律)、そして、被害者に代わって裁判所に事前差し止めや損害賠償を訴える権限を付与するようにしたらよいと思います。労働委員会のような委員会ですね。

 どうしても、刑事規制をするとしたら、公務員(議員、候補者、自治体首長を含む)の不当な人種差別的言動を処罰する犯罪類型を設けること、また、人種的差別を目的とする傷害、殺人、威力業務妨害について刑罰加重規定を設けることは検討にすべきだと思います。


参照:日弁連の人種差別撤廃に向けた取り組みの意見書
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150507_2.pdf

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2015年9月14日 (月)

野党「安保法案をあらゆる手段をもって成立を阻止する」-「民主主義の本質と価値」

■多数決支配が民主主義?


野党の国会での強行採決反対や議事妨害に対して、「安保法案は与党が多数議席を維持している以上、議会で採決するのは当然で民主主義の帰結である」という批判があります。

はたしてそうでしょうか。

■民主主義の本質と価値

つい最近、ハンス・ケルゼンの1929年の著作「民主主義の本質と価値」(長尾龍一・上田俊太郎共訳・岩波文庫)の新訳を読みました。学生時代に読んだ旧訳の表題は「デモクラシーの本質と価値」(西島芳二訳)。ハンス・ケルゼンは、ドイツのワイマール時代、マルクス主義やナチズムと対抗し活躍したリベラル派憲法学者です。

ケルゼンは、アウトクラシー(独裁主義)=(「プロレタリア独裁」と「ナチス独裁」)に対抗して、リベラルなデモクラシー(議会制民主主義)を擁護する論陣をはりました。曰く「デモクラシーの本質は、多数決主義ではなく、個人の権利と自由の尊重である」と。ファシズムはもちろん、マルクス主義的民主主義論を完全に論破しました。

今、この情勢の中で、この新訳を読んで学生のときにはあまり意識しなかった次の議会制度の論述が印象に残りました。今の日本の議会・政治状況に示唆を与えると思いました。

「議会制手続というものは、主張と反主張、議論と反論の弁証法的・対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことを目標としているからである。ここにこそ、現実の民主主義の本来の意義がある。」

「議会制における多数決原理が政治的対立の妥協の原理であることは、議会慣行を一瞥するのみでも明らかである。対立する利害の中間線を引くこと、対立方向に向かっている社会力の合成力を作り出すこと、これこそが議会手続の全体が目指していることである。」

「こうして我々が議会手続を支配する多数決原理の本来の意味(「妥協の原理」の意味、引用者注)が理解するならば、議会主義においても最も困難で危険な問題の一つ、すなわぎ議事妨害の問題をも正しく判断することができる。議会手続を規律する諸規則、特に少数派に認められた権利は、少数派が議会の仕組みを議会の仕組みを一時的に麻痺されることにより、その意に沿わない決定がなされることを困難にし、さらに不可能とする可能性をもっている。… しかし議事妨害を多数決原理に反するものとして絶対的に否定することは、多数決原理を多数派支配と同一視しない限り不可能であり、その同一視は正当でない。

「民主主義の特徴である多数者の支配の他の支配形態との相違は、それが反対者、すなわち少数者を概念上前提とするばかりでなく、反対者を政治的にも承認し、基本権・自由権・比例原則によって保護するところにある」


今週、展開されるであろう参議院での攻防は、議事妨害を含めた攻防になるでしょう。しかし、議会少数派の議事妨害を含む反対は、安部内閣の議会多数派支配の非妥協的な国会運営への批判であり正当なものでしょう。

■白鳥の歌

ケルゼンは、結局は、ナチスに追われて米国に亡命します。岩波文庫に1932年に書かれた「民主主義の擁護」が載っています。その最後の文章は次のようなもの。ワイマール憲法体制が終焉を迎える直前の「白鳥の歌」です。

民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。

1932年から84年後の今、われわれは1946年日本国憲法体制の終焉の始まりを目にしているのかもしれません。

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2015年6月10日 (水)

「ある憲法学者のおつむの変遷」  驚愕の長尾一紘教授の集団的自衛権合憲説 

中央大学の長尾一紘教授が安保関連法案を合憲と明言していると知ってびっくり。私は中央大学出身で長尾教授の講義も聞いたし、同教授の教科書も読んだ。当時とまったく正反対のことを言っているのに驚愕しています。長尾教授の条文解釈や判例整理は、きわめて論理的で切れ味よく、私には非常に勉強になったし司法試験にも役だった。

東京新聞の6月11日朝刊によると長尾教授は次のようにコメントしています。

どの独立国も個別的自衛権と集団的自衛権の両方をもつ。国連憲章にも明記されている。日本国憲法は他国と対等な立場を宣言している以上、自衛権を半分放棄するという解釈が出る余地はない。法案を違憲という学者の意識は、日本の安全保障に危機感を抱く国民の意識とずれている。


私が大学時代読んだ長尾教授の「日本国憲法」(世界思想社)を昨晩読み直しました。初版1978年発行、第2版1979年発行。私が持っているのは1979年第2版。その第一部、第三章に「戦争の放棄」が論じられています。同じ長尾教授の言葉です。

■国家の自衛権について
 「国家は、当然に自衛権をもつと同時に、自衛手段をみずから予め定めることができる」として、「軍隊を備え、場合によっては戦争に訴えることが自衛のための有効な方法であると考えてきたが、日本国憲法は、これらをいっさい禁止し恒久の平和の理念をみずから率先して実践することこそが、国民の安全と国家の主権を維持するうえでのもっとも有効な保障であることを明示したのである」(同60頁)。
■自衛隊と憲法9条について  
憲法9条の解釈論を教科書的に説明した上で、「合憲説は文理上不可能といわざるをえないのである」とし、さらに「以上のように、さまざまな観点から自衛隊の合憲説が主張されているが、いずれも法解釈上きわめて無理があり、合憲説の実質が政治的主張にあたることを示している」(同書63頁)
■ 「憲法変遷」論

私が中央大学に入学したころ、憲法学の著名な教授であった橋本公亘教授が従来の自衛隊違憲論を合憲論に説を変更したことが法学部生の間で大きな話題になっていた。学説変更の論理は、「憲法の変遷」が生じたということだった。これに対して、橋本教授の弟子であった長尾教授は講義で痛烈に批判していた。教科書にも次のように書いている。  
憲法変遷が生じるとしても、「国民の規範的意識に明白な変化が生ずること(学説・判例に重要な争いがないことも含まれる)が必要とされるが、「私見としては、とくに憲法の文言に正面から矛盾することがない場合に限定すべきように思われる。これらの要件が充足がなければ、いかに合憲的な外観を保持するものであっても、それはたんなる違憲の国家行為の集積にすぎず、憲法の変遷が生ずることはないのである」(同298頁))
■第9条と安保条約  
安保条約に基づく外国軍隊の駐留については、9条2項にいわゆる「戦力」に該当し違憲とする。第一説が正当である。その理由は、次に示す「砂川判決」第一審判決に明らかである」(65頁)
■憲法学者の解釈の変遷


長尾教授は、自衛隊を合憲とすることは、「憲法9条の文理上不可能である」と言い切っています。文理上不可能っていうのは相当な踏み込み方です。それをあとから変更するというのは、法律家のイロハである「文理解釈」ができない者であることを自ら認めることで相当に恥ずかしいことです。 


私の周りの弁護士には、「政策として集団的自衛権には賛成だと思うが、それを法制化するには憲法改正が必要だ」という人が多くいます。政策判断(政治判断)と法律解釈は別というのは、法律家なら当然わきまえなければならない矜持です。これができないと法律家でなく、法律屋(中央省庁の官僚たち)です。

ですから、憲法改正論者であっても、自衛隊や安保関連法制を違憲とするのは何ら矛盾はしない。かえって、政治論と法律論を峻別できる法律家として評価されます(小林節教授のように)。


しかし、長尾教授は、1978年頃は典型的な憲法9条論を唱えながら、いまはどうして学説を変えたのでしょうか。

先にふれた橋本公亘教授は、合憲説変更の理由として「憲法変遷論」をあげて学会で論争していた。これに、樋口陽一教授が、「確かに、憲法現象として「憲法の変遷」は存在する。しかし、それはあくまで「事実認識」の問題である。憲法変遷論を、憲法解釈変更の正当化する規範論としてはありえない」と批判していた。これも長尾教授の講義で聴いたと思う。


西修教授や百地教授は、もともと、そういう学者だから驚くに値しない。


学者として、学説変更の理由を述べるべきでしょう。
自らの学説の変遷を何もいわないでいけしゃあしゃあと合憲論ぶつのは私には理解できない。
少なくとも過去に自衛隊違憲論を大学の講義で述べて、それを学んだ元学生に対しては学者としての説明責任があろう。
上記東京新聞への長尾教授のコメントは、まさに自ら過去に批判していたとおりの「政治的主張」にほかならず、これでは憲法学者としては「お終い」ではないか。

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2014年9月25日 (木)

「リベラル側の一致点はどこか」-ヘイトスピーチ禁止法についての補足

■ヘイトスピーチ禁止法の補足

ヘイトスピーチについての私のブログに対する批判的コメントの多くが、私の意図した趣旨を誤解しているように感じました。

私がいつものように「あーだ、こーだ」と書いて、何を言いたいのか判りにくい文章のせいなのでしょう。でも、この問題は、単純な二元論で結論を出すべきではないという気持ちもあります。

ヘイトスピーチに関しての私の意見(ブログ)の骨子は以下のとおり。

①「ヘイトスピーチ」とは、人種・民族差別による暴力・差別・蔑視を扇動する表現を意味する。人種差別的ではない批判・非難などは、これに含まれない。(* 「国連自由権規約20条2項」や「人種差別撤廃国際条約1条1項、4条」)

②日本は、人種差別的ヘイトスピーチの規制を求める「国連自由権規約」や「人種差別撤廃国際条約」を批准しているから、政府は、これへの対策をすべき条約上の義務を負っている。(*日本政府は「表現の自由を尊重する」という留保条件をつけているが、対策をせず放置することは許されない)。

③人種差別的ヘイトスピーチを禁止・処罰する法律は、適切な立法であれば、理論的には合憲となる。

④しかし、安倍政権の下では、適切な立法がなされない危険性が高く、広く「表現の自由」を侵害する弾圧立法となる公算が強い。

⑤したがって、現時点でのヘイトスピーチ処罰法には消極・反対する。

⑥刑罰規制ではなく、ヘイトスピーチに対する行政救済制度を設けることを提案する。具体的には、法務省の部局に、差別者に対して警告を行う措置や、裁判所に対して差別行為の差止め等を訴訟を提起する権限を認める。

⑦また、捜査当局は、現行法の威力業務妨害罪などを活用して人種差別的ヘイトスピーチを厳格に取り締まるべき。

多くの「右の方」のコメントは、①や⑤をほぼ無視して、主に②、③、⑥について批判する。

もっと判りやすく乱暴に要約すると私の趣旨は次のとおり。

(1)ヘイトスピーチ処罰立法には反対する。

(2)ただし、ヘイトスピーチを規制する必要はあるので、人種差別的ヘイトスピーチ是正の新たな行政救済制度を設ける。この行政救済機関(人権擁護局とか、人種差別撤廃委員会とか)は、差罰者に対して差別行為であることを警告・差止めを求めることができる。これに従わない場合には、この機関に差別者に対する差し止め訴訟を提訴する権限を付与する。最終的には、裁判所が、司法の場で差別行為の有無や差し止めの可否を判断する。

(2)を書いたのは、ヘイトスピーチに対するリベラル派の意見が分裂しているように感じたからです。

■リベラル側の一致点はどこか

リベラルな陣営が、ヘイトスピーチ禁止・処罰法について賛否が分裂していることが気になります。

○反対派:ヘイトスピーチとはいえ、表現の内容的規制は一切反対すべきだ。

○賛成派:ヘイトスピーチを禁止し、処罰する法律を整備すべきだ。

反対派については、ヘイトスピーチ規制そのものに反対するというだけでは現情勢では国民の共感を得ないのではないか。それでは、これを機会に表現の自由規制立法をつくろうとする安倍内閣や治安機関の思惑には対抗できないように思います。しかも、在特会など人種差別主義者グループは、これに反対するでしょうから、「反対」という結論が同じになってしまい政治的な対立構図として判りにくくなる。

賛成派については、この規制が新たな治安立法や弾圧立法になる危険性に、余りに無頓着ではないか。

そこで、リベラル陣営が広く一致する「政策」をつくることが求められているように思います。私のような「行政救済機関(人種差別撤廃委員会)の設置」とか、「ヘイトスピーチ禁止基本法」の制定とか、いろいろ検討して、一致した政策を模索すべきだと思います。

誰か、そのような政策をつくって欲しいと思います。こういうのをつくれるのは、センスある学者でしょうね。

弁護士会とか弁護士団体とかは、なかなか意見がまとまらず、無理でしょう。私のような(2)の意見を言うような弁護士は、仲間からも多くの批判を受けることになりがちです。

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2014年6月28日 (土)

「集団的自衛権」解釈改憲の現実的な訴訟リスク

■集団的自衛権の閣議決定案

内閣の憲法解釈変更の最終閣議決定案が報道されています。それによれば集団的自衛権は次の要件が備われば憲法上許容されるとしています。

①わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生、
②これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合、
③これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき、必要最小限度の実力を行使すること

 憲法解釈としては余りに稚拙であり、合憲であることを何ら論証できていないと思います。それはともかく、今後、閣議決定に添って、自衛隊法、周辺事態法、国際平和協力法などが改正されることになります。

■自衛隊法はどう改正されるか

 
自衛隊法を考えてましょう。現在の自衛隊法は、防衛出動を次のように定めています。

(防衛出動)
第76条1項
 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という。)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律 (平成十五年法律第七十九号)第九条 の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。

これは「わが国に対する外部からの武力攻撃」があった場合の個別的自衛権のことしか定めていません。集団的自衛権を認める閣議決定にそって、今後、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した場合にも、防衛出動を命じることができると改正されることになります。

■「防衛出動」には自衛官は拒否できない(刑罰)

そうなると集団的自衛権行使による自衛隊の出動命令も、「防衛出動」ということになります。自衛官は、防衛出動を拒否することはできません。この防衛出動を拒否した場合には、次のとおり自衛隊法123条で7年以下の懲役又は禁固で罰せられます。

第123条  第76条第1項の規定による防衛出動命令を受けた者で、次の各号の一に該当するものは、七年以下の懲役又は禁こに処する

一   (略)
二  正当な理由がなくて職務の場所を離れ三日を過ぎた者又は職務の場所につくように命ぜられた日から正当な理由がなくて三日を過ぎてなお職務の場所につかない者
三  上官の職務上の命令に反抗し、又はこれに服従しない者

四、五 (略)

 ちなみに、国際平和協力法の活動を拒否した自衛官を罰する規定は見当たりません。公務員としての人事上の懲戒処分を受けるだけのようです。

■自衛官は、韓国や台湾、米国の防衛のために戦闘するか

 集団的自衛権行使として、将来可能性がある事態としては、①第2次朝鮮戦争勃発した場合に自衛隊を機雷除去などで朝鮮半島に派兵する、②中国の台湾への武力侵攻に際して米軍とともに台湾を防衛するために台湾に派兵する、③中東での戦争に際して石油輸入を確保するために自衛隊を中東地域に派兵することなどが考えられます。

 こいう場合にも、内閣総理大臣が自衛隊法76条1項に基づいて、「防衛出動」を命じることになります。日本の防衛、尖閣諸島防衛のためには、自衛官は、当然、防衛出動するでしょう。そのつもりで、自衛隊に入隊し、専守防衛を誓ってるはずですから。

 でも、まさか他国防衛のため、例えば、「韓国」防衛のため、「台湾」防衛のため、「米国」防衛のために、海外に派兵されして戦闘するとは考えていなかったでしょう。もちろん、戦闘が大好きで勇んで出動する自衛官もいるでしょう。

■これを拒否した自衛官は起訴され刑事裁判となる

 しかし、「話しが違う」と考える自衛隊員もいると思います。自衛官が、「じゃあ自衛官を辞める」なんてことはできません。処罰の対象です。

 そうなれば、「集団的自衛権を規定した自衛隊法や内閣総理大臣の防衛出動命令は、憲法9条に反し違憲違法である」として、命令を拒否する人もでるでしょう。

 そうなれば、必然的に自衛隊法違反被告事件として、逮捕、起訴されます。そして、「集団的自衛権は憲法9条違反だから違憲無効だから、自分は無罪である」との自衛官の主張に対して、裁判所は憲法判断をすることになります。

■裁判所の憲法判断が出ることは不可避

 
 内閣法制局の皆さま、この裁判で「集団的自衛権行使は合憲だとして勝訴できる」と思いますか。前内閣法制局長官から最高裁判事になった方が、就任の際に、憲法改正が必要だとコメントしていましたよね。

 解釈改憲ですすめれば、大きな訴訟リスクを内閣も自衛隊も負うことになるわけです。

 イラク自衛隊派遣の差止訴訟のような違憲訴訟が提起されるよりも、こちらのほうが内閣にとっては脅威のはずです。前者のような訴訟類型は、裁判所が出す可能性もなく(変わった裁判官しか出さないでしょう)、また違憲判断も理由中の判断にすぎず、法的効果がありません。政府とすれば無視すればすみます。しかし、刑事裁判となればそうはなりません。違憲なら、無罪ですから。そうなれば、多数の自衛官が集団的自衛権への参加を拒否することになる可能性があります。

 下級審では一定の違憲判決が出される可能性が高いと思います。

 ただし、日本の最高裁判所は、「高度な政治的判断が必要だ」として、統治行為論によって、憲法判断を回避する公算は高いと思われます。 そのため、自民党政府は、今後、このような考え方の最高裁判事をたくさん任命していくことでしょう。裁判官に対する締め付けも、再び厳しくなるのではないでしょうか。

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2014年5月 6日 (火)

憲法9条の成立過程について

古関彰一教授は、著書の「新憲法の誕生」(中央公論社・1989年)と「『平和国家』日本の再検討」(岩波書店・2002年)の中で、日本国憲法制定過程を実証的に記述されています。特に、憲法9条の成立過程は公開記録等に基づき極めて実証的で説得的です。これに基づいて憲法9条制定過程をまとめてみました。
なお、「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫・2009年、「新憲法の誕生」改訂版)が必読です。

■日本国憲法制定のスタート

1945年(昭和20)年10月にマッカーサーが近衛文麿に自由主義的な憲法改正を示唆し、当時の幣原首相は、近衛に先行されないように、10月25日に憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)を設置しました。ここから日本国憲法制定がスタートです(後記年表)。

早くも、12月28日に、民間研究者(高野岩三郎、鈴木安蔵等)による「憲法研究会」が民主的・自由主義的な「憲法草案要綱」を発表しました。GHQは同月30日には、この憲法草案要綱の英訳を作成しています。この憲法研究会の草案が後のGHQ憲法案に大きな影響を与えます。

■憲法9条の発案者

1946年1月24日、幣原首相がマッカーサー(M)と面談しました。そのとき、幣原が、戦争の放棄が理想であると語ると、Mがこれに強く賛意を示しました。 そして、Mは、次のように述べます。

極東委員会(FEC)では天皇にとって不利な情勢がある。しかし、日本が戦争放棄を世界に宣言すれば天皇制は存続できるであろう。

幣原首相が、友人である枢密院顧問官大平駒槌に語った内容を、大平の娘である羽室三千子が、上記の内容を記録しています(羽室メモ)。


■憲法問題調査委員会の松本私案がスクープされる

2月1日、秘密裏に検討されていた内閣の憲法問題調査委員会の「憲法改正試案」(「松本案」)が毎日新聞にスクープされた。この松本案は、大日本国憲法(明治憲法)に少し手を加えたものにすぎませんでした。憲法研究会の憲法草案とは大違いです。

■マッカーサー三原則

2月3日、Mは、憲法改正の次の3原則をGHQ民政局長ホイットニーに指示しました。

①天皇制の維持。天皇は職務及び権能は憲法に基づき行使される。

②国権の発動たる戦争は廃止する。

③日本の封建制度は廃止される。皇族を除いて貴族・華族は廃止。

2月4日、ホイットニーは、GHQ民政局行政部に憲法改正案を1週間で策定することを指示します。

これほどGHQが急いだのは、2月26日には極東委員会(FEA)が発足して、この極東委員会が動き始めれば、ソ連・中国・オランダ・オーストリアらの強硬派(天皇制廃止・天皇戦犯訴追)の圧力が強まる。そこで、それ以前にGHQの下で天皇制を維持する方向の憲法をつくっておきたかったのです。

■GHQの戦争放棄条項案

当初、GHQ民政局は、戦争の放棄を憲法前文に書くつもりであったが、途中でMの指示で本文に記載することになりました。

GHQ案
第1条(後に第8条となる)
 国権の発動たる戦争は、廃止する。
 いかなる国であれ他の国との紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
 陸軍、海軍、空軍その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。

■GHQ案の受け入れの閣議決定

日本政府は、2月8日、内閣の憲法問題調査委員会の「憲法改正要綱」(松本案)をGHQに提出しました。しかし、GHQは、これを無視して、2月13日、日本政府にGHQ案を手渡します。

2月21日、Mは、幣原首相と面談します。そして、Mは、戦争の放棄に不安を示す幣原首相を励まします。さらに、Mは、極東委員会は日本にとって極めて不快な問題を論じている。戦争放棄と象徴天皇制が要点である旨を述べます。

幣原首相は、翌22日、上記会談内容を報告して、GHQ案の受け入れを閣議決定しました。

要するに、天皇制を維持するためには、戦争放棄を呑むしかないとの判断です。この機会を逃すと、極東委員会が活動を開始して、天皇制廃止や天皇訴追に至りかねないと考えたからでしょう。この経過については、芦田均厚相(当時)のメモが残されています。

■日本案の作成

2月27日からGHQ案を日本側が日本語化する作業を開始しました。その日本語化作業は、憲法1条や憲法24条等々について、GHQと日本側との間で、色々なドラマというか、騙し合いというか、法戦というか、興味深いものがあります。9条についても紆余曲折をたどります。

■戦争放棄条項の紆余曲折

GHQの原案は次のとおりです。

GHQ案8条
 国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
 陸軍、海軍、空軍その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。

これの日本案は次のとおりです。

日本案第9条
 戦争を国権の発動と認め武力の威嚇又は行使を他国との間の争議の解決の具とすることは永久に之を廃止す。
 陸海空軍その他の戦力の保持及び国の交戦権を之を認めず。

日本語案は3月2日に完成し、3月6日に幣原内閣が「憲法改正草案要綱」として発表しました。そして、4月10日に総選挙を経て、帝国議会での憲法改正を審議することになります。

■憲法制定議会の要求や総選挙の延期要求

3月14日、社会党や共産党、知識人が憲法制定には憲法制定議会を設けるべきとの声明を出していました。

他方、3月20日には、極東委員会(FEC)は、Mに対して、余りに早い憲法改正手続を憂慮して、総選挙を延期して憲法問題については慎重にすすめるようにと文書で要求しています。

ところが、Mは、極東委員会の総選挙延期要求を断固拒否すると回答しました。(もし、M のごり押しがなかったら、極東委員会が活発化して、天皇訴追、憲法制定議会の招集、天皇制廃止もあり得たかもしれません。)

■日本国憲法草案の発表

4月10日に総選挙の結果、幣原内閣は退陣して、吉田茂内閣に交代します。総選挙の後になって、日本国憲法草案が初めて全文が発表されました。

■帝国議会での「自衛権」論争

憲法9条について帝国議会での論争がなされました。次のような有名な自衛権論争があります。

●共産党の野坂参三衆議院議員
第9条は、我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする。侵略戦争のみを放棄する規定にすべきである。

吉田茂首相の答弁
第9条2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来近年の戦争は多く自衛権の何において戦われたものであります。満州事変然り、大東亜戦争又然りあります。

現在はまったく真逆になっているのが皮肉です。

その後、9条はまさに内閣や内閣法制局によって「解釈改憲」されたのです。ちなみに、吉田首相の「完全非武装主義」の解釈は、一年前には鬼畜米英と言っていた保守派議員から理想的だとか素晴らしいとかで圧倒的賛成を得ているのも皮肉です。吉田首相の自衛権放棄論を聞いたうえで憲法に賛成しているのです。しかし、私個人としては野坂参三議員の意見が真っ当であると思います。

■芦田修正問題

帝国議会では、6月28日に憲法改正特別委員会(芦田均委員長)が設置されて、条文の審議が行われます。その結果、政府案は次の委員会案のように修正されます。

政府案
 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

委員会案
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「芦田修正」とは、委員会案の2項の「前項の目的を達するため」という条項を追加したことです。この修正の意図を、芦田氏は「国際紛争を解決する手段として」の場合にのみ戦力・交戦権を放棄したことを明示し、自衛のための戦争は放棄していないというのです。

■実は、芦田修正ではなく、「金森修正」という古関教授の指摘

しかし、古関教授は、この「芦田」修正は歴史的真実ではないと資料を駆使して論証されます。他方、この「修正」は「金森国務大臣」の意向だとされます。

特別委員会の憲法9条を審議する小委員会で、芦田の当初の「修正案」は次のようなものであったのです。

(芦田修正案)
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際紛争を誠実に希求し、陸海空軍その他の他の戦力はこれを保持せず、国の交戦権は、これを否認することを宣言する。
② 前項の目的を達するため、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

この芦田の修正案は現在の9条の1項、2項を入れ替えたものです。これだと、第1項で一切の限定なく戦力不保持、交戦権を否認しており、絶対非武装を定めることになります。2項の「前項の目的を達するため」も国際紛争を解決する手段に限定するものにはなっていません。

これに異を唱えたのは、金森国務大臣だというのです。小委員会議事録には掲載されていないが、入江法制局長官の記録では金森は次のように述べたとされています。

将来国際連合との関係において第2項の戦力を保持しないということについてはいろいろ考え得べき点が残っているのではないか。

結局、芦田は金森の提案を受け入れました。芦田自身は、「前項の目的」とは、「国際平和を希求」ということを指すものでどちらでも構わないと述べたそうです。

そしえ、前記のとおり委員会案が決まり、GHQ案と異なり、9条第2項に「前項の目的を達するため」が挿入されました。

当時、この修正の重大さに気がついていたのは、佐藤達夫法制局次長でした。修正後、GHQにこの案を示したら反対されはしないかと一抹の懸念を抱いたというのです。これは同氏の「日本国憲法誕生記」(中公文庫137頁)でも書かれている。

司令部(GHQ)は、こういう条文があると、前項の目的云々を手がかりとして、自衛のための再軍備をするとの魂胆があっての修正ではないかと誤解しやしませんか、ということを芦田先生に耳打ちした

■GHQも極東委員会(FEC)も修正の意味は気がついていた

このことに気がついたのは、内閣法制局の官僚だけではなかったのです。GHQのケーディス(民政局)は、占領終了後にインタビューを受けて次のように答えている。

修正によって、自衛権が認められることを知っていた。日本は、国連の平和維持軍の参加を将来考えているのだろうと推測した。

さらに極東委員会(FEC)の中華民国代表S・H・タンは次のように指摘していた。

この修正によって、9条1項で特定された目的以外の目的で陸海空軍の保持を実質的に許すという解釈を認めていることを指摘したい。・・・日本が、自衛という口実で軍隊を持つ可能性がある。

■「文民条項」を復活させた極東委員会

オーストラリア代表のプリムソルは、「文民条項」(大臣は軍人であってはならないと禁止する条項)の必要性を次のように強く訴えました。

将来必ず日本は軍隊を保持する。その際、日本の伝統で現役武官が陸海軍大臣に就くことになる。その際の歯止めとして文民条項は必ず定めるべき。

その結果、極東委員会がGHQに文民条項(現憲法66条2項)がの勧告によって挿入されたのです。いったん削除されていた文民条項が、極東委員会の勧告で復活したことになります。日本に被害をあった中国やオーストラリアは、日本を信用していなかったために、この条項を用いて、必ず日本が自衛のための軍隊を設けることを正しく見通していたわけです。

■憲法9条の意義

上記のとおり、憲法9条の制定過程を見ると、現憲法下でも、自衛のための戦力を保有すること自体は論理解釈としては成り立ちます。

もちろん、吉田首相が帝国議会で述べたとおり、完全非武装で、自衛戦争も放棄したと解釈することも論理的に可能です。

しかし、自衛のための戦力さえ完全に放棄する「非武装主義」は非現実的でしょう。野坂参三議員が指摘するとおり民族の独立を危うくするものだと思います。

そして、現時点においては、結局、国民の多くは、「専守防衛」という範囲で自衛隊を容認しているということでしょう。この法意識を無視することはできない。

ただし、現実の「自衛隊」が「専守防衛」の範囲内にあるかどうかは別問題です。
おまけに、「集団的自衛権」容認に踏み出すとなると、もはや「自衛権」の範疇を超えてしまいます。「集団的自衛権」は、他国の「防衛」のために戦力を行使する概念ですから。この点は、長くなったので踏み込まないようにします。

■「押しつけ憲法」論

上記の経過を見れば、圧倒的に占領軍(GHQ)の圧倒的影響下で、日本国憲法が制定されたのは事実です。そこで、「押しつけ憲法」という非難の声があがります。でも、現憲法には憲法研究会の民間憲法草案やワイマール憲法なども大きな影響を与えています。

他方、大日本帝国憲法は、伊藤博文が「ドイツ帝国憲法」を「猿まね」して、ごく一部の政治家・官僚が秘密裏に作成して、国民(=臣民)に押しつけた欽定憲法です。

当時、自由民権運動の中、民主的・自由主義的な「私擬憲法」がたくさんありました。有名なのは五日市憲法です。これらは一切、参考とされませんでした。

その意味では、国民にとって、迷惑な「押し付け憲法」は大日本帝国憲法の方でしょう。
今や押しつけかどうかが問題ではなく、その憲法の内容が妥当かどうかこそが問題なのだと思います。
戦後70年近く国民に支持されてきた現憲法に、今さら「押しつけ」との非難はもはや意味を持たないでしょう。

続きを読む "憲法9条の成立過程について"

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2013年7月11日 (木)

非嫡出子相続分差別 最高裁大法廷判決へ

昨日7月10日、非嫡出子の相続分が嫡出子の2分の1とする民法の規定について、最高裁大法廷で弁論を開いて、9月にも大法廷判決が予定されている。非嫡出子の相続分2分の1規定が不合理な差別で憲法違反となる可能性が極めて高い。

法律婚の保護といっても、何らの責任のない非嫡出子が差別されることは、不合理な差別にほかならないと思う。最高裁は合憲が多数であったが、常に反対意見が続いてきた。遅きに失したが、やっと是正される見通しになった。


15年ほど前に、家庭裁判所での嫡出子と非嫡出子間の遺産分割調停(被相続人父親)に、嫡出子の代理人として関わった。財産も相当あり、嫡出子間でも特別受益などの争いがあり、調停成立まで長期となった事件だった。非嫡出子(女性)は本人のみで、代理人はついていなかった。


長女は「母は父が家庭外に子供をつくったことに、とても苦しんでいた。私は、母親の姿を見てきたので複雑だ。でも、苦しんだのは、あなた(非嫡出子)も同じね。」と述懐した。

長男も「悪いのは親父だった。みんな平等で遺産分割をしよう。」と同意して、嫡出子、非嫡出子が平等な遺産分割が成立した。

最後は、非嫡出子(女性)も泣いていた。

とても気持ちの良い調停だった。最後まで争う人もいれば、このように平等に分ける人もいる。


大法廷弁論のニュースを聞いて、あの事件を思い出した。

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2013年5月 5日 (日)

「民族憎悪の扇動の罪」

「民族憎悪の扇動の罪」という刑罰がイタリアにはあるんですね。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130503-OYT1T00471.htm

<○○人や○○民族を殺せ!><出て行け!>などと叫んでデモする人と組織は、イタリアでは「民族憎悪の扇動」罪違反として処罰されることになります。

もっとも、日本でも西大久保などの韓国・朝鮮人が経営する店舗が多いところで、多衆の人間が声をそろえて、韓国人や朝鮮人などの生命・身体・財産を危害を加えるような大音量の発言(シュプレヒコールとか)やプラカードを掲げた場合には、刑法の脅迫罪や威力業務妨害罪が成立するようにと思えますが。

このような言動を「民族憎悪の扇動の罪」という犯罪類型を日本で立法化することが、憲法上許されるかは賛否両論のあるところです。私は消極派です。

憲法論としては、現実に生命・身体・財産への危害を加えることを扇動するような言動(現在かつ明白な危険テストを経て)は、刑法により厳正に処罰する。ただし、それに至らない人種偏見・民族差別などの言動は、良識による批判と言動によって淘汰するべし。これが正論でしょう。

ということで、人種や民族への憎悪を煽るデモが表現の自由で保障される以上、それを批判するデモも批判的言論も表現の自由で許容されます。

ちなみに、「在特会」が、レイシストとして決めつけられて人権を侵害されたとして、日弁連に人権救済申立をしたようです。

http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY201304260220.html

ひょっとしたら、在特会の方々は、自ら人権救済申立をする以上、基本的人権保障の重要さに気がつき、今後は、相手の在日外国人の人権をも尊重するようになるのかもしれません。


日弁連人権擁護委員会には、速やかに格調の高い、毅然とした判断を示して欲しいものです。

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2011年6月 6日 (月)

2011年6月6日 国歌起立斉唱命令最高裁判決 少数意見付き 

■6月6日に最高裁第一小法廷判決

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110606165018.pdf

5月30日の最高裁第二小法廷判決(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110530164923.pdf)に続いて、私たちが担当していた13名の嘱託採用拒否事件の最高裁判決第一小法廷で6月6日に言い渡されました。

多数意見(法廷意見)は、両者とも基本的には一緒です。細かな用語や言い回しまで一緒ですので、両小法廷で意見のすりあわせがあったことは間違いないでしょう。担当の最高裁調査官が同一人物なのです。

滝井元最高裁判事の本(「最高裁は変わったか」)によれば、最高裁の評議事件では担当調査官が合議に出席して最高裁判事たちの議論を聞いて、調査官が起案するのだそうです。

第三小法廷が、6月14日に八王子の中学校の起立斉唱命令に関する判決を言い渡します。これも弁論を開かないので、高裁敗訴が確定です。続いて第三小法廷は6月21日に広島の高校の懲戒処分事件の判決を言い渡します。

第一、第二、第三の各小法廷でつぎつぎと判決が言い渡されていますが、これは最高裁が全体として、この問題を決着させると意図的に、この時期に一斉に判決を言い渡していると思われます。最高裁の強い意志を感じます。大阪の君が代条例も影響しているのでしょうか。

■法廷意見

5月30日と6月6日判決の大筋は次のとおりです。

卒業式等における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであるかり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって、…起立斉唱行為は、その性質から見て、上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。

また、上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、その外部からの認識という点から見ても、特定の思想又はこれに反対する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり、職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には、上記のように評価することは一層困難である。

そうすると、本件各職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものとは認めることはできない

以上は、ピアノ伴奏命令拒否事件最高裁判決のとおりです。次からは違います。

もっとも、上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると、自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することは応じ難いと考える者が、これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは、その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為うそのものではないとはいえ、個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて、その者の思想及び良心の自由にういて間接的な制約となる面は否定しがたい。

このような間接的な制約が許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容並びにこれによってもたらされる上記の制約の態様等を総合的に衡量して、当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

本件職務命令は、高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義、在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿って、地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえ、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものということができる。

以上の諸事情を踏まえると、本件各職務命令については、上告人らの思想及び良心の自由について間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びにこれによってもたらされる上記の制約の態様等を総合的に衡量すれば、上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる

■宮川光治最高裁判事の反対意見

救いは、宮川最高裁判事の反対意見です。格調が高いものです。

国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は、私のその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に、自発的に行う行為であり、式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は、「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り、人格的アイデンティティをも形成し、思想及び良心として昇華されている。少数であっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的な問いを社会に投げかけているとみることができる。

(国旗国歌法は)強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら、本件通達は、校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして、都立高等学校の教職員に対し、式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており、その意図するところは、前記の歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることになるとみることができる。本件各職務命令は、こうした本件通達に基づいている。

そして、上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図をもってなされたものでない限りは、その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は、原判決を破棄して差し戻すことを相当とする。

宮川反対意見は、厳格な基準により判断すべきだとして次のように言います。

具体的に、目的・手段・目的と手段の関係をそれぞれ審査することになる。目的は真にやむを得ない利益であるか、手段は必要最小限度の制限せあるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくことになる。 … より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等、会場外における役割を与え、不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することになろう。

■上告理由の第二点の憲法26条、23条に基づく教育の自由違反は無視

これについては、法廷意見は、単なる法令違反の主張であるとして適法な上告理由でないとしました。しかし、宮川最高裁判事は、この点については、通達の趣旨目的を的確に把握しており、われわれの主張を受け止めてくれています。

■生徒の思想良心の自由をまもる

法廷意見は、間接的であっても、思想良心の自由の制約を認めたことから、生徒に対して起立斉唱を命じて強制することは許されないことになります。

特に金築誠志最高裁判事の補足意見は

私が、念のために強調しておきたいのは、上告人らは、教職員であって、法令やそれに基づく職務命令に従って学校行事を含む教育活動に従事する義務を負っているという点である。この点で、児童・生徒に対し、不利益処分の制裁をもって起立斉唱行為を強制する場合とは、憲法上の評価において、基本的に異なると考えられる

つまり、児童・生徒に対して起立斉唱行為を強制することは19条違反になることを指摘しています。

■最後に

私としては、間接的であっても思想良心の自由の制約を認めた以上、猿払事件最高裁大法廷判決の審査基準(合理的でやむを得ない制限、目的の正当性、目的と手段の合理的関連性、利益の均衡)が適用されることになる。そうなれば、合理性と必要性という緩やかな基準ではないです。少なく猿払事件基準を適用すれば論理的には、宮川最高裁判事と同様の結論になるはずだと思います。しかし、最高裁多数意見はそうとりませんでした。

その実質的な判断が何によるのか。

第二小法廷の須藤最高裁判事は、あけすけに言っています。「教師が率先垂範すべきだ」と。しかし、それは生徒に事実上、起立斉唱を強制するものではないでしょうかね。

本件上告人らが訴えたかったことは、反「日の丸」でも反「君が代」でも、反「天皇」ではありません。学校において、生徒に対して一律に国歌斉唱時に起立斉唱行為を強制することはおかしいという点なのです。それは個人の歴史観ないし世界観に基づくだけでなく、教師として生徒の思想良心の自由を尊重すべきという信念にほかなりません。

「強制された愛国心や忠誠心は偽物である」と述べたアメリカ合衆国の連邦裁判所判決が、このことを一言で表していると思います。

まだまだ、この点にはこだわっていきたいと思います。

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2010年3月 7日 (日)

相次ぐ東京高裁判決-日の丸・君が代の起立斉唱命令の合憲性・合法性

■相次ぐ東京高裁判決
2003年10月23日、石原都知事の下、東京都教育委員会が、都立学校の卒業式等で国旗(日の丸)に向かって起立し、国歌(君が代)を斉唱するよう命じる通達を発令しました。これに従わなかった都立高校の教職員が懲戒処分を受け、それまでは希望者の99%が合格していた再雇用職員制度の採用・更新について、全員が合格取消あるいは不合格とされています。東京高裁は相次いで、合憲・合法という判決を言い渡しています。

①東京高裁第8民事部 平成21年10月15日 Sさん再雇用職員不合格事件
②東京高裁第4民事部 平成22年1月29日 再雇用職員不合格事件
③東京高裁第16民事部 平成22年2月23日 再雇用職員合格取消事件

上記三つの東京高裁の判決の特徴(②と③の事件は私も代理人として担当しています)は、「国旗国歌の起立斉唱を命じる行為は、外部的行為を命じるものである。だが、起立斉唱という外部行為を命じることは、そもそも教職員の思想良心の自由を制約するものではない」という構成をとっている点です。つまり、東京高裁は、最高裁がピアノ伴奏拒否事件で、音楽教師に君が代の伴奏をするよう命じても、音楽教師の思想良心を制約することにあたらないとした結論を、起立斉唱命令にそのまま当てはめています。

「起立斉唱というものは、教職員として高等学校学習指導要領に基づき行う儀式的行事における学校職員という社会的な立場における行動にすぎず、一般的に一審原告らの個人の内心における国旗及び国歌に対する特定の思想や信条と不可分的に結びつけられたものと認められる類型の外部的な行為ではない」(上記②高裁判決)

■起立斉唱の強制は、思想良心を制約するか否か
上記三つの高裁判決の一審(東京地裁)も結論を合憲としています。しかし、一審判決は、「起立斉唱を命じることは教職員の思想良心を直接否定するものではないが、その精神活動に影響を与えることになること否定できない」としていました。ただ、「その制約は、憲法上、許容される」と結論づけていたのです。ところが、東京高裁は、上記のとおり、そもそも起立斉唱の外部行為を強制しても当人らの思想良心を何ら制約するものではないとしたのです。

■東京高裁判決の論理の危険性
東京高裁のように、そもそも起立斉唱を命じることが「思想良心の自由を制約しない」という論理にたつと、「生徒」に起立斉唱を命じることも、生徒の思想良心の自由を制約するものではないという論理になる危険があります。現に、上記③高裁判決は次のように判示しています。

「前述のとおり、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することは、特定の思想及び良心を外部に表明する行為とは評価することができないのであるから、本件職務命令が生徒の思想及び良心の自由を侵害ないし制約する余地はないというべきであり、したがって、憲法19条に反するものとは解することができない」

しかし、常識的に見て、日の丸・君が代を起立して斉唱する行為は、それに否定的な思想や世界観を持っている人間に対しては、思想良心に反する外部行為を強制するもので、その精神活動に苦痛などの負担を与え、結果的には、思想良心の自由を制限するものにほかならないと思います。

■実質的・本質的な問題は何か
問題はその先であって、「教職員だから制約(苦痛等)を受忍すべき」、「その程度の制約は正当化できる」のか否かという点で意見が分かれるのではないでしょうか。東京高裁のように、「そもそも思想良心に制約を与えるものではない」と切り捨てるのは、あまりに形式的な処理であって、実質的で本質的な問題に正面から答えていないと思います。

起立斉唱を命じることが思想良心に対する制約があることを認めた上で、教職員に一律に起立斉唱を命じ、これに従わない者を懲戒処分等の不利益に課すことに、合理性や必要性が認められるかという問題を、広い視野から議論することが本来裁判所に求められていることではないでしょうか。

■教師とはいえ、自己の信念や信仰を制約されることはある
私も、教師だから、公務員だから、当人の思想良心の自由が一定制約されても憲法上正当化されることはあると思います。

例えば、ある教師が進化論は間違っているという信仰を持っていても、進化論を生徒に教えるという義務あり、信仰の自由を理由にして拒否すること許されないと思います。これを拒否する場合には、校長が職務命令を出すことも、最終的にはこれを拒否した者に懲戒処分を課すことも憲法上、許されると思います。

進化論を教えるようにとの職務命令は、この教師の信仰の自由を制約すると思います。しかし、その制約は「子どもの学習権」を保障する観点から正当化されます。進化論を教えないことは「子どもの学習権」を充足するものではないからです。

では、「日の丸・君が代」の起立斉唱命令は、進化論を教えろという命令と同様でしょうか。私は両者は異なると思います。日本国憲法の下では、国旗や国歌という国家的、政治的シンボルについては、何よりも多様性や多元的価値観が尊重されなければなりません。特に、教育の場においては、価値観の多様性が重んじられなければなりません。個人の尊重を基本とする日本国憲法と「子どもの学習権」が要請するところだと思います。

東京高裁の一連の判決は、「外部的行為の強制がどのような場合に思想良心を制約するか」という狭い「入り口」論での議論に終始していることが最大の誤りだと思います。実質的かつ本質的な問題を、憲法論としても、教育論としても慎重に議論されるべきでしょう。

■最高裁へ
今、上記②③の担当事件について上告理由書を作成しているところです。

最高裁には、福岡の北九州市の事件が係属しています(第一小法廷)。S氏の再雇用採用拒否事件は最高裁第二小法廷です。私たちが担当している二つの事件も上告します。その後にも、神奈川こころ訴訟も3月17日に東京高裁判決が予定されているそうです。

今年は、最高裁の各小法廷に、日の丸・君が代関連訴訟が4件を超えて係属することになります。大法廷でなくても、最高裁の15名の裁判官全員がこの問題に関与する可能性が高いと思います。最高裁には、思想良心の自由と教育の自由にかかわる重い問題として広い視野から検討することを求めていきたいと思います。

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