憲法

2018年4月29日 (日)

憲法記念日前の「憲法世論調査」の分析-自衛隊憲法明記に3分2が賛成

■憲法改正の世論調査

 共同通信が4月25日に実施した憲法に関する世論調査が、同月26日に発表され、東京新聞は「自民改憲案に否定多数」と一面トップの見出しで報道しています。
 その根拠は、【問22】「安倍首相の下での憲法改正に賛成ですか?」という質問に、賛成が38%、反対が61%であることを根拠にしています。
 しかし、自民改憲案の「肝」は、憲法9条改正の内容ですので、これを中心に世論調査を仔細に見ると、印象が異なります。


■無意味な「一般的な憲法改正質問」

 「あなたは憲法改正する必要があると思いますか?」という【問2】があります(「必要」が58%、「不要」が39%。どちらかと言えば派も含む)。しかし、憲法の何(どの条文)を変えるのかを特定しないでする質問は、まったく無意味です。

 これは、死刑廃止に賛成ですか?という質問は意味があるが、刑法改正に賛成ですか?という質問が無意味であることと同じです(「憲法と世論」境家史郎著)。
 少し意味のある具体的な質問として、【問6】「憲法9条を改正する必要がありますか?」があります。その回答は次のとおりで、要否が拮抗しています。

 9条改憲必要  44%
 9条改憲不要  46%



■9条改憲派内部の二つの立場

 この世論調査では、上の9条改正を必要とした44%の人々(9条改憲派)に対して、「9条を改正する必要があると思う理由は何か?」と選択肢を示して質問しています。選択された選択肢を多い順に三つ並べると次のとおりです。


9条改正が必要な理由

北朝鮮中国の軍拡による安全保障環境の変化61%
自衛隊違憲論があるから                      22%
自衛隊の活動範囲を専守防衛に制約するため10%


 意外なことに、3番目の「自衛隊に専守防衛の制約を憲法に規定する」という人々が9条改憲派のうち1割(全体の4.4%)を占めています。この人たちは、いわゆる「護憲的9条改憲派」(正しくは「立憲的9条改憲派」)といえます。

 また、9条改憲派に「9条改正する場合には何を重視すべきか?」と質問に対する回答も多い順に並べると次のようになっています。


9条改正する場合に重視すべきこと

現在の自衛隊の存在を明記する   47%
自衛隊の海外活動に歯止めを設ける 24%
自衛隊を軍として明記する」     14%
自衛隊の国際貢献の規定を設ける 12%

 上の二つ目の選択肢の全文は「自衛隊の海外での活動が際限なく拡大しないよう歯止めを設ける」というものです。これを選択する9条改憲派が24%(全体の10.6%)も占めており、けっこう有力意見です。これも9条改憲派でありながらの立憲(護憲)的9条改憲派といえるでしょう。
 つまり、立憲(護憲)的9条改憲派は、この世論調査でいうと4%~10%程度存在しているようです。


■自民9条改憲案の賛否結果

 具体的に自民党の9条改憲案の賛否を問う質問と回答は次のとおりです。


 【問9】「憲法9条は第2項で陸海空軍その他の戦力の不保持と交戦権の否認を定めています。安倍首相はこの規定を維持しつつ、9条に自衛隊の存在を書き加えることを提案しています。あなたはどう思いますか」


9条2項維持自衛隊明記 40%
9条2項削除自衛隊の目的性格を明確28%
自衛隊の明記必要なし   29%

 9条2項維持・自衛隊明記派が40%を占めています。また、9条2項削除派も次善の策としては、9条2項を維持しても自衛隊明記に賛成するでしょうから、自衛隊明記容認は68%と3分の2を超えていると言えます。
 こうなると東京新聞の見出しとは異なり、共同通信の世論調査の結果は、「自衛隊憲法明記への賛成は3分の2を超える」となるべきでしょう。


■9条改憲不要が46%なのに、なぜ自衛隊明記賛成が68%になるのか


 しかし、ここで私が解せない点は、【問6】の憲法9条改正の要否を問う質問では、改正不要派が46%も存在することです。
 【問6】で9条改憲を不要と回答した46%のうち17%が、【問9】では、自衛隊明記容認(おそらく9条2項維持・自衛隊明記派)に意見を変えています。
 その理由は、問6の質問が、「あなたは『戦争放棄』や『戦力の不保持』を定めた憲法9条を改正する必要がありますか」という質問だからです。
 つまり、【問6】では戦争放棄や戦力不保持がなくなるのは反対だということで、9条改正不要と回答した。しかし、【問9】では、9条1項と2項を維持(つまり「戦争放棄」と「戦力の不保持」という条文は変えない)する前提で、自衛隊のみを明記することには賛成という結果になります。


■安倍首相の下での改憲反対61%は、なぜなのか

 もう一つ解せないのは【問22】で安倍首相の下での憲法改正に反対が61%もいるにも関わらず、自衛隊明記容認に68%も賛成している点です。

 これは憲法9条の改正を論理的に考えた結果ではなく、安倍首相が信用できないという気分・感情の反映のようです。

 しかし、人間の気分・感情はうつろいやすいものです。特に国民投票にあたっては、国民全体の気分・感情が大きく影響するといわれています。最近では、イギリスのEU離脱国民投票を見ればわかります。
 その意味では安倍首相にとっては、この国民の気分・感情の雰囲気は重大な関心事でしょう。9条改憲を実現するためには、この雰囲気を変えるための起死回生の策が無い限り、国会発議もできないのではないでしょうか。

 国会で9条改憲を発議しても、国民投票で否決されたら安倍首相退陣どころか、今後9条改憲は、よほどのこと(戦争とか)が無い限り、二度と政治課題として提起することは不可能になるからです。しかし、気分・感情はうつろいやすいものですから、今後、何かがあって劇的に変わることもありえます。
 例えば、安倍首相が北朝鮮拉致問題を解決すれば、がらっと雰囲気は変わることでしょう。(米朝韓中が「非核化」で和解し、日本が北朝鮮に数兆円の多額戦争賠償=経済協力を提供することになれば、北朝鮮が拉致問題を解決しようとするかもしれません)。そうなったときが9条改憲ゴーサインでしょう。


■改憲派、護憲派内部の潮流の違いが見える

 世論調査結果を見ると9条改憲派(A)の中にも二つの潮流があるようです。
 一つは安倍首相と同様の意見で、北朝鮮や中国との軍事的脅威に対抗して、自衛隊と日米軍事同盟の強化の道であり、これが9条改憲派の多数派(A1)です。他方、自衛隊の存在を憲法上明記するが、その活動に歯止めをかけるという立憲(護憲)的改憲派(A2)が存在してます(このA2は、9条改憲派の中では10~20%程度で、全体ではおよそ5~10%程度か)。

 9条護憲派(B)の中でも二つの潮流があります。自衛隊は存在自体が違憲であり、非武装であるべきであるとの伝統的護憲派(B1)です(これは少数派)。他方、自衛隊は専守防衛のかぎり合憲であるとする自衛隊容認護憲派(B2)で、こちらが護憲派の多数です。

 現状の国会では、自民党や維新などが3分の2を超えていますから、立憲的改憲派(A2)が求める自衛隊の活動を制約するという9条改憲案が発議される可能性はないでしょう。現状の自民9条改憲案が発議されるでしょう。

 しかし、自民9条改憲案(9条2項維持・自衛隊明記)であっても、「戦力不保持」という憲法上の制約を削除する結果になります(以前、これを私も解釈してみました)。


 そこで、自衛隊の活動について「憲法上の制約」を維持するには、A2(立憲的9条改憲派)とB(護憲派、B1とB2)が連携する道しか残されていないと思います。この場合、伝統的護憲派(B1)が、大人の対応ができるか、建前と原理原則を振り回すだけの子供ような振る舞いをするか、その度量が問われることになるでしょう。

 安倍政権はもう長く続かないでしょうが、その後継が誰になろうと自民党政権が続くことは不可避なのですから(いや、野党が政権をとっても)、この憲法9条改正問題と論争はまだまだ続くことになるのでしょう。

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2018年4月18日 (水)

驚愕の幹部自衛官ー統合幕僚監部の三佐が国会議員に「国民の敵だ」と罵倒

自衛隊の幕僚監部の三等空佐が、民進党の小西参議院議員に対して、国会近くの路上で夜9時に偶然にあった際に、「国民の敵だ」「気持ち悪い」などと罵倒し、警備の警官が集まってきても罵倒をやめなかったという。

財務省の事務次官のセクハラ問題の影に隠れていますが、この事件を軽視すべきではありません。

「自衛隊員にも政治的意見を言う自由がある」などと三佐を擁護する声も見受けられますが、そのような意見は、自衛隊が実力組織(もっと、ありていに言えば軍事組織)であることを忘れた謬見だと思います。

「三等空佐」とは航空自衛隊の三佐であり、旧軍で言えば「少佐」にあたる将校です。幕僚監部は、旧帝国陸軍では参謀本部、旧帝国海軍では軍令部にあたり、統合幕僚監部(統幕)は、陸上、海上、航空の幕僚監部を統合する自衛隊の中枢機関です。

その「統幕」の「三佐」(少佐)が、国会議員に対して、勤務時間外だとしても、国会周辺の公道上で「お前は国民の敵だ」と罵倒したわけです、しかも、警官が集まってきても、現職の自衛官となのって罵倒をやめなかったという。


自衛隊法61条や自衛隊法施行令では、自衛隊員の政治的行為を禁止しています(刑罰規定あり)。つまり、自衛隊員は、政治的中立性を守らなければなりません。

また、自衛官の服務等訓令では、「何人に対しても冷静で忍耐強く、正しい判断をし、野卑で粗暴な言語又は態度を慎まなければならない」と定めれれています。そして、「隊員たるにふさわしくなく行為があったとき」には懲戒処分をうけます(自衛隊法46条)。


自衛隊は軍事組織にほかなりませんから、一般の国家公務員以上に、政治敵中立性を厳格に遵守しなければなりません。わが国には戦前の軍部テロ(5.15事件や2.26事件)の歴史がありましたから。

ところが、統幕の三等空佐という幹部自衛官(昔で言えば「参謀本部少佐」というエリート軍人)が、特定の政党や国会議員の政策や方針について反対する意図をもって、公道にて周りの警察官が制止するのも無視して、自衛官であることを名乗った上で、「お前は国民の敵だ」と発言をしたわけです。


統幕の佐官クラスが、このような政治的意図をもって、自己抑制もできずに、国会議員を罵倒することは由々しき事態であり、驚愕します。タガがはずれいていると思います。

罵倒された国会議員が民進党議員であるか、自民党議員であるか、公明党議員であるかは本質的問題ではありません。この自衛隊員の意見にあわない場合に、議員を「国民の敵だ」と決めつけて罵倒することが問題なのです。


だからといって、すぐに戦前の軍部テロの時代が再来するとは思いませんが、統幕の佐官クラスの言動であることから見て、自衛隊の内部(統幕内部)に、自衛隊に批判的な政党や政治家に対して、「国民の敵」とか「反日分子」として攻撃すべき「敵」であるとの政治思想やイデオロギーが蔓延し、あるいは浸透していることが伺われます。あるいは、そのような政治思想グループがすでに形成されているのかもしれません。そうだとすると怖いですね。


軍事組織である自衛隊の一部でも暴走しはじめたら、誰にも止められません。自衛隊では監察本部がその役目を担うのでしょうが、これも防衛省の内部組織ですから身内です。警察(公安部)も監視していると思います(戦前の5.15事件では、犬養首相警護の巡査らが軍に殺害されているので、警察は伝統的に「軍」を警戒していると何かの本で読んだことがあります)。


この三佐を厳しく処分することは当然として、自衛隊内には自衛隊に批判的な政党や国会議員を敵視する政治思想グループが形成されていないか、徹底的に調査し、もし形成されいればその影響力を除去する措置がとられるべきです。将来の禍根を残さないように国会がきちんと対処すべきです。

毎日新聞

議員罵倒

「国民の敵」発言は3佐 防衛相「適正に対処」

参院外交防衛委員会で質問する民進・小西洋之氏=国会内で2018年4月17日午前10時45分、川田雅浩撮影

 防衛省は17日、統合幕僚監部指揮通信システム部の30代の3等空佐が、民進党の小西洋之参院議員と16日夜に国会近くの路上で偶然遭遇した際に、「不適切な発言」を繰り返したと認めた。小西氏によると3佐は「お前は国民の敵だ」と繰り返し罵倒した。河野克俊統合幕僚長が17日、議員会館の小西氏の部屋を訪れて謝罪。小野寺五典防衛相は「適正に対処する」と話し、統幕が処分も検討する。野党は「実力組織の統制に大きな疑問を持たざるを得ない」(希望の党の玉木雄一郎代表)と反発している。

 小西氏が17日の参院外交防衛委員会で明らかにした。小西氏と防衛省によると、3佐は16日午後9時前、帰宅後のランニング中に小西氏と出会った。3佐は「小西だな」と言った後、現職自衛官だと自分から明かして繰り返し罵倒。警備中の複数の警察官が集まった後も「気持ちが悪い」などとののしり続けた。小西氏が「服務規定に反し、処分の対象になる」と撤回を求めたが撤回しないため、同省の人事担当に電話するなどした。3佐は最終的に態度を改め、発言を撤回したという。

 自衛隊法は、隊員に選挙権の行使を除く政治的行為を原則として禁じ、品位を保つ義務も課している。河野氏は記者団に「自衛官が国民の代表である国会議員に暴言と受け取られるような発言をしたのは大問題。極めて遺憾だ」と話した。

 小西氏は国会で自衛隊イラク日報問題などを取り上げ、小野寺氏の管理責任などを追及している。玉木氏は17日の記者会見で、1938年に佐藤賢了陸軍中佐が当時の帝国議会で議員のヤジに「黙れ」と発言したことに触れ、「由々しき問題だ。80年たって非常に嫌な雰囲気が漂ってきた気がする」と指摘。社民党の又市征治党首も会見で「批判的なことを言ったら『非国民』というのと同じだ」と強調した。

 小西氏は記者団に「かつて青年将校が『国民の敵だ』『天誅(てんちゅう)だ』と叫んで政治家を暗殺した。現職の自衛隊幹部が国会議員を国民の敵だと何度も言い放った暴挙は、民主主義において許してはいけない」と語った。【前谷宏、立野将弘】

https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/010/095000c

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2018年3月26日 (月)

自民党「改憲案 9条の2」を解釈する

■自民党 憲法9条改正案 9条の2

自民党憲法改正推進本部は、現行憲法9条1項と2項を変更せずに、新たに「9条の2」を加える改憲案で行くという。

この憲法9条改正する趣旨を、安部首相は、「自衛隊の違憲論の余地をなくすため」と名言しています。言い換えれば「自衛隊と憲法9条との矛盾を解消する」ことです。
この「9条の2」を挿入すると、日本国憲法「第二 の戦争の放棄」は次のようになります。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。


第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。


■事実論 自衛隊の現実

法律解釈を離れて、自衛隊の「現実」を見てみましょう。
わが国の自衛隊は、2015年の「世界軍事力ランキング」(アメリカのグローバルファイヤーパワーという軍事力評価機関)では日本の軍事力(自衛隊)は世界第7位です。
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ちなみに、韓国は12位で、北朝鮮は23位だそうです。

自衛隊の保有する銃弾、砲弾、ミサイルは他の国と当然に同じものですから、この世界第7位の自衛隊が憲法9条2項が禁止する「陸海空軍のその他の戦力」にあたらないことはありえません。この「現実」を誰も否定できないでしょう。

歴代政府は「自衛権を保持する以上、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは許容される」と解釈してきましたが、現実を踏まえるかぎり、説得力がありません。世界第7位にランクされる日本の自衛隊を「必要最小限度の実力」の範囲内と解釈するのは無理があります。

また、長谷部恭男教授や木村草太教授のような「自衛隊合憲論」の立場にたつ護憲派(現状維持的護憲派)の解釈も御都合主義であり、自衛隊の「現実」を前にしては何ら説得力はありません。この護憲派が言うような、「現行憲法でも自衛隊は合憲だ」との解釈は、憲法規範を軽視するものであり、立憲主義の観点から大いに疑問です。

憲法9条に矛盾する疑いのある軍事力(軍隊)を憲法で明記しないで放置し、「砂上の楼閣のような解釈」でごまかす「現状維持的な護憲派」の立場は、立憲主義の見地からは許容できないと思います。


■事実を踏まえる立憲主義の観点から

そうすると、「政治権力を縛る憲法規範」を重視する「立憲主義」の観点からは、憲法9条と自衛隊との関係について、論理的には次のどちらかの立場をとるしかないと思います。


A【自衛隊縮小ないし廃止】
 現行憲法9条の規範力を尊重して「自衛隊を廃止する又は戦力でないレベルまで自衛隊を縮小する」という方向


B【憲法改正して自衛隊を憲法に定める】
 憲法を改正して自衛隊の保有を明記する。

しかし、Aの自衛隊廃止は非現実的です(自衛隊を廃止する現実的条件や実現可能性が存在しません。)

この点では、安部首相が自衛隊と憲法との関係を憲法上明確にしようというのは一理あると思います。
では、自民党案の9条の2を加えることが適切でしょうか。
ここswは法律論として、自民党の提案する「9条の2」を解釈してみます。

■法律論として「9条の2」を考える

条文に即して文理解釈して、この憲法9条改正案を検討してみます。
まず、前提として、 9条と自衛隊との関係についての政府解釈を見ておきましょう。2014年7月の閣議決定の憲法解釈変更により、「限定的な集団的自衛権」を容認しました。これに基づく安保法制の改正により、憲法9条の下で許容される自衛措置行使の要件は次のように決められています(防衛省のウェブサイトの引用)。

【憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件】
◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと


この政府解釈は、憲法9条2項の戦力禁止を考慮しての解釈です。

ところで、新たな「9条の2」は「必要な自衛の措置」とのみ定めています

この条文には、現在の政府解釈の「わが国の存立を脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求権が根底から覆される明白の危険」や「必要最小限度の実力行使」という縛りは記載されていません。

そこで、現行憲法9条2項の「戦力の禁止」規定が「9条の2」にも及ぶか(言い換えれば、9条の2が定める「必要な自衛の措置」も9条2項の「戦力」であってはならないと解釈されるのか)否かが問題となります。
文理解釈上は、肯定説と否定説が成り立つでしょう。


《否定説》
 9条の2の「必要な自衛の措置」は、9条2項の「戦力」禁止の例外として、戦力に該当しても許容されるとする見解。
 否定説の理由は、9条の2が改正で加えられる以上「後法優先の原則」から、9条2項の「戦力禁止」条項は、9条の2の「必要な自衛の措置」に及ばない。さらに、集団的自衛権は「国際法上の自衛権に含まれる」と現在の政府は解釈していますから、「わが国と密接な関係のある国への攻撃により、わが国の存立を危ぶむ場合」という限定もなくなり、法文上は、フルスペックの集団的自衛権の行使も許容できることなります。


《肯定説》
 9条の2の「必要な自衛の措置」にも9条2項の戦力禁止条項が及ぶのであり、「必要な自衛の措置」も「陸海空軍のその他の戦力」であってはならない(9条2項)とする見解。
 肯定説の理由は、そうでなければ9条2項は死文化することになってしまい、9条2項を廃止すると同然の結果となり、9条1項、2項を存続させた意味がなくなるからです。


肯定説だと、今後も「9条の2」を根拠に定められた自衛隊の自衛の措置も、「戦力」に該当しないかどうかが常に検討されることになり、結局、自衛隊ないし自衛権行使の範囲について、違憲論は引き続き憲法論争として続く
ことになり、安部首相の言う「自衛隊の違憲論の余地をなくす」という改正の趣旨は達成されません。


そうなると、自民党の石破氏が言う通り、「じゃあ、何のために改憲するのか」ということになってしまいます。
そこで、仮に9条の2が国民投票の結果で承認されたとしたら、この9条の2追加の趣旨・目的が「自衛隊の違憲論の払拭」である以上、《否定説》を国民が承認したことになります(少なくとも、政府はそう解釈でするのは間違いない)。

そうなれば、9条の2が加えられた場合には、9条2項の「戦力禁止」条項は死文化してしまいます。法律で「必要な自衛の措置」の範囲を決めさえすれば、憲法9条2項の戦力禁止規定の効力は及ばないことになり、自衛の措置が必要最小限度であるか否かも、憲法上の要請ではなくなることになります。

これでは究極の権力の行使である「自衛の措置」(戦争を含む)を憲法でチェックできなくなり、立憲主義の観点からは賛成することはできません。


■国際情勢から見て


また、現在の国際情勢の中で、日本が憲法9条を自民党案のように9条の2を追加改正し、上記《否定説》のように「必要な自衛の措置」を法律によって決定できるということになると、現在の国際情勢からみてどのような反応が生じるでしょうか。

安部首相は「抑止力が強まり、日本の安全は高まる」と言うでしょう。しかし、外から見れば、日本は従来以上の軍事力を装備するために憲法改正をしたということになるでしょう。

中国と米国が、「世界の覇権」を争うことは避けられない事態でしょう。そして、日本は米国の従属国家ですから、中国は日本に対抗する軍事力を強化するでしょう。
ロシアも、欧米に対する対決姿勢を強く打ち出しており、日本の軍事力への対抗手段を強化するでしょう。現実に日本がアメリカから購入するミサイルシステムに対して、ロシアは強い不信の声をあげており、北方四島に軍事基地を設置する動きをしています。

そして、アメリカは目下の軍事同盟国である日本に、より多くの軍事的貢献や兵器の購入を迫ってくるでしょう。日本は従来のように憲法9条があるからと消極的な態度をとることができなくなります。


結局、日本は、米中露の間で、相互の不信感増幅と抑止力の名の下で「軍事力の拡大」に陥るでしょう。そうなれば、日本の安全は高まりません。結局、米国と北朝鮮の軍事衝突や、米国と中国との軍事衝突にまきこまれる危険が高まります。
自民党の「9条の2」の追加の改憲案は日本の安全保障を損なうことになると思います。


■将来の憲法9条


私自身は「非武装主義者」ではなく、日本も自衛のための戦力(自衛隊)を保持するしかないと思います。将来的には憲法9条改正して自衛隊の設置と自衛権行使の限界を憲法で定める必要があると思っています。いわゆる「護憲的(正しくは、立憲的)改憲派」の立場です。

なぜなら、戦争は、政治的・社会的・歴史的・経済的な社会構造の結果として発生する現象であり、軍隊も同様です。仮に、憲法に繰り返し「非武装」や「戦争放棄」と書いたとしても、戦争や軍隊を生み出す社会構造や政治的条件が変わらないかぎり、軍隊や戦争をなくすことができるわけがありません。現に、日本は憲法9条を持ちながら、世界有数の軍事力を誇る自衛隊を保持し、多数派の国民がそれを支持しています。

現状の世界が戦争や軍備を放棄をする社会的・歴史的・政治的な条件を満たしていないことは明白です。遠い将来に「軍隊・戦争の放棄」が可能だとしても、それは数百年後、幾度かの大戦争と大災厄、なんらかの革命の後に、戦争の社会的原因が除去されないかぎり実現されないでしょう。
将来的には、日本に人権や平和、民主主義、立憲主義を真に尊重する国民意識が確立し、それを守る政府が成立した段階で初めて、憲法9条を改正して、専守防衛を理念とする自衛隊を設置し、必要最小限度の自衛力行使、自衛隊の海外派兵禁止、核兵器不保有、外国軍隊の駐留禁止、国際連合の集団的安全保障体制への平和的貢献などを定める憲法改正(立憲的改憲)をすることが望ましいと思います。

しかし、現状の自民党安部内閣の下での上記9条の2追加の憲法改正は、極めて危険であり、憲法9条維持の非武装主義の護憲派の皆さんとともに反対します。

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2016年8月 6日 (土)

ヘイト本と出版の自由-出版労連シンポジウム

 さる7月30日に、出版労連が主催したヘイト本を考えるシンポジウムにパネラーとして参加しました。

http://www.labornetjp.org/news/2016/1469979721323left

ヘイトスピーチ出版、いわゆる「ヘイト本」(例えば「そうだ難民しよう! 」はすみとしこ著・青林堂)について出版人の良心を問うという企画でした。

私は法律家として、コメントするという立場で参加。

あらためてヘイトスピーチの国際人権法について諸岡康子弁護士の「ヘイトスピートとは何か」(岩波新書)を読みなおしました。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1312/sin_k743.html

■ヘイトスピーチ解消推進法の成立

 正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」と言います。具体的な規制は盛り込まていない「理念法」ですが、外国人に
対する不当な差別的言動の定義を次のように定めます。

「①差別的意識を助長し又は誘発する目的で、②外国の出身であることを理由として、③公然と、④生命などに危害を加える旨を告知し又は著しく侮蔑するなど、地域社会か
ら排除することを扇動するもの」

 問題を抱える法律とはいえ、ヘイトスピーチ解消推進法が成立したことは最初の大きな一歩前進です。

 この法律も次の国際条約をもとにしたものです。

●国際自由権規約第20条2項
 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」
この国際自由権規約を日本は、1979年に日本は批准してます。

●人種差別撤廃条約
第1条1項
 
 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをい
う。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。


  (a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪
であることを宣言すること。

  (b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

  (c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 この人種差別撤廃条約については、日本は、1995年に第4条(a) (b)を留保した上で批准しています。留保とは、上記(a)(b)処罰規定については排除又は変更するという留保条項です。

■人種差別条約ではなく、人種「的/等」差別条約

 人種差別撤廃条約の第1条の定義だと、「人種」だけでなく、世系、民族的、種族的出身も含まれるので、本来は人種的ないし人種等差別条約と訳したほうが良いです。日本人と韓国・朝鮮人は人種は一種ですが、民族的には異なるので、同条約が適用されます。

■ヘイトスピーチの定義が不明確かつ広範囲

 人種差別は、けっして許されないが、すべて処罰することは表現の自由を侵害するのではないか。これが問題です。「ヘイトスピーチ」、「人種差別的表現」、「人種的憎悪をあおる宣伝」、「民衆扇動をして人間の尊厳を侵害する表現」とか言っても、あやふやな定義でしかありません。

 中国や北朝鮮の軍事的膨張主義、あるは米国の帝国主義的軍事介入主義を批判することが、人種的差別表現として規制されるかもしれません。

 笑い事ではなく、諸岡康子弁護士の岩波新書では、このような濫用的事例が報告されてます。


■ドイツの濫用事例



 ドイツでは、ドイツ刑法130条1項にて「公共の平穏を乱す態様で憎悪をかき立てるなど他人の人間の尊厳を攻撃する行為」を禁止してます(民集煽動罪)。
 1991年、ドイツの平和運動家が、湾岸戦争へのドイツ軍派兵反対運動として、「兵士は人殺しだ」というステッカーを貼った行為が、民集煽動罪で起訴されたという。

 1994年、ドイツ連邦通常裁判所で被告人は無罪となった。ただ、ドイツの裁判所の判断は「ドイツ連邦軍兵士は人殺しだとの表現は130条1項該当するが、兵士は人殺しとの
表現は該当しない。」とうものであった。


■トルコの濫用事例


 クルド人女性弁護士が軍によるクルド人女性へのトルコの蹂躙を批判したところ、その発言が「人種的憎悪の扇動を禁止する法律」違反するとして有罪とされた。

■ヘイトスピーチは表現の自由か

 そもそもヘイトスピーチは表現の自由に含まれないという立論をする人がいます。しかし、あまりに単細胞の発想です。ドイツやトルコの濫用事例を見れば一目瞭然でしょう。日本でも、共産党が自衛隊予算を「人殺し予算」と発言しました。ドイツでは、この発言が民集煽動罪で有罪になりかねないということになります。日本で、この規定があれば、自民党政府はよろんごで共産党の発言者を刑事訴追したことでしょう。

 ですから、ヘイトスピーチに対する規制は必要ですが、その規制方法と程度は慎重に検討しなければなりません。
 
■法律家としては

 立憲主義を尊重する法律家としては、ヘイトスピーチ規制の目的は」正当であり、今や日本ではその必要があると考えますが、その規制手段と規制の程度は慎重に検討しな
ければならないと思います

 国連の人種差別撤廃委員会も、すべてのヘイトスピーチに処罰規定を設けろと言ってるのではなく、次の三段階に分けています。
 最悪レベルは「犯罪として処罰」(刑事規制)、悪質レベルは、「民事・行政的規制」、法違反ではないが「憂慮すべき表現」として社会的に非難するレベルです(ヘイト スピーチに関する一般的勧告35・2013年、ラバト行動計画・2013年 上記諸岡康子著書)。
 出版については、外国人などに暴力によって危害を加えるよう扇動する以外には、どんな内容でも法的な出版禁止などは設けるべきではないでしょう。やhり言論には言論にて対抗するのが原則です。


 こういうと、「お前は被害者の心の傷をわからないのか」とか「ヘイトの被害者には表現の自由がない」とか「いまだにヘイトスピーチを表現の自由に含まれるというお前はレベルが低い」とかのお叱りを受けます。


http://www.magazine9.jp/article/biboroku/29674/

 弁護士は、刑事事件の被告人を弁護するときには、「被害者の人権を否定するのか」とか、「被害者の気持ちを考えろ」とか非難されます。でも、法律家としては、加害者がどんなにひどい悪辣非道な犯罪者であっても、適正手続や表現の自由を保障する「法の支配」を否定することはできません。バランスが必要です。

■ヘイト規制を声高に言う人は政治権力を信頼しているのか

 ヘイトを刑事規制をしろと声高に言う人はおそらく政治権力や司法や捜査機関を信頼しているのでしょう。

 しかし、私は、日本の政治権力や捜査機関を、長年の弁護士経験からして、まったく信用していません。唯一信用できるのは、司法手続が公開されて世論の批判をうけるシステムがあることだけです。裁判官を信用してるわけではありませんが、司法手続と判決や決定が公開されていることは、表現の自由が保障されている限りまだ信用できると思います。
 
 何よりも日本は、戦前支配層の流れをくむ保守政治が長く続いてきています。

 中には未だに、「国民主権、基本的人権保障、平和主義を捨てなければ日本は独立国家になれない」とか「日本は天皇を中心とした神の国だ」とかを唱える自民党政治家や日本会議のトップの元最高裁長官がいます。彼ら彼女らが、これを本当に信じているなら、まさに民族主義の狂信主義といってもよいでしょう。欧米的な基準からすれば、小池百合子氏も、稲田朋美氏もネオナチばりの歴史修正主義者であり、右翼民族主義者にほかなりません。しかも核武装論者です。


 そんな日本に、ヘイトスピーチの刑事処罰法を導入すれば、捜査機関を使って政府の気にくわない言論をヘイトスピーチとして弾圧を加えるあらたな方策を政治権力に与えるだけです。

 なぜ、リベラルと言われる人たちがヘイトスピーチ刑事処罰法を導入しよとしているのか、私は理解に苦しみます。

 これからの将来、共産党独裁の中国の台頭や混乱、日本の経済的地位低下を考えれば、日本人が右傾化していくのは不可避で、それは歴史的必然でしょう(古今東西の歴史が人間とはそういう傾向があることを証明している)。このような情勢の中で、リベラル派がヘイトスピーチ刑事規制を求めることは、敵に塩を送り、自らの首をしめるようなものでしょう。

■ではどうするか

 私は、政府や行政から独立した「人種的差別撤廃委員会」を設置して、行政的規制(ヘイトスピーチへの警告、勧告、違反者への公表。例えば、大阪市条例のような法律)、そして、被害者に代わって裁判所に事前差し止めや損害賠償を訴える権限を付与するようにしたらよいと思います。労働委員会のような委員会ですね。

 どうしても、刑事規制をするとしたら、公務員(議員、候補者、自治体首長を含む)の不当な人種差別的言動を処罰する犯罪類型を設けること、また、人種的差別を目的とする傷害、殺人、威力業務妨害について刑罰加重規定を設けることは検討にすべきだと思います。


参照:日弁連の人種差別撤廃に向けた取り組みの意見書
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150507_2.pdf

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2015年9月14日 (月)

野党「安保法案をあらゆる手段をもって成立を阻止する」-「民主主義の本質と価値」

■多数決支配が民主主義?


野党の国会での強行採決反対や議事妨害に対して、「安保法案は与党が多数議席を維持している以上、議会で採決するのは当然で民主主義の帰結である」という批判があります。

はたしてそうでしょうか。

■民主主義の本質と価値

つい最近、ハンス・ケルゼンの1929年の著作「民主主義の本質と価値」(長尾龍一・上田俊太郎共訳・岩波文庫)の新訳を読みました。学生時代に読んだ旧訳の表題は「デモクラシーの本質と価値」(西島芳二訳)。ハンス・ケルゼンは、ドイツのワイマール時代、マルクス主義やナチズムと対抗し活躍したリベラル派憲法学者です。

ケルゼンは、アウトクラシー(独裁主義)=(「プロレタリア独裁」と「ナチス独裁」)に対抗して、リベラルなデモクラシー(議会制民主主義)を擁護する論陣をはりました。曰く「デモクラシーの本質は、多数決主義ではなく、個人の権利と自由の尊重である」と。ファシズムはもちろん、マルクス主義的民主主義論を完全に論破しました。

今、この情勢の中で、この新訳を読んで学生のときにはあまり意識しなかった次の議会制度の論述が印象に残りました。今の日本の議会・政治状況に示唆を与えると思いました。

「議会制手続というものは、主張と反主張、議論と反論の弁証法的・対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことを目標としているからである。ここにこそ、現実の民主主義の本来の意義がある。」

「議会制における多数決原理が政治的対立の妥協の原理であることは、議会慣行を一瞥するのみでも明らかである。対立する利害の中間線を引くこと、対立方向に向かっている社会力の合成力を作り出すこと、これこそが議会手続の全体が目指していることである。」

「こうして我々が議会手続を支配する多数決原理の本来の意味(「妥協の原理」の意味、引用者注)が理解するならば、議会主義においても最も困難で危険な問題の一つ、すなわぎ議事妨害の問題をも正しく判断することができる。議会手続を規律する諸規則、特に少数派に認められた権利は、少数派が議会の仕組みを議会の仕組みを一時的に麻痺されることにより、その意に沿わない決定がなされることを困難にし、さらに不可能とする可能性をもっている。… しかし議事妨害を多数決原理に反するものとして絶対的に否定することは、多数決原理を多数派支配と同一視しない限り不可能であり、その同一視は正当でない。

「民主主義の特徴である多数者の支配の他の支配形態との相違は、それが反対者、すなわち少数者を概念上前提とするばかりでなく、反対者を政治的にも承認し、基本権・自由権・比例原則によって保護するところにある」


今週、展開されるであろう参議院での攻防は、議事妨害を含めた攻防になるでしょう。しかし、議会少数派の議事妨害を含む反対は、安部内閣の議会多数派支配の非妥協的な国会運営への批判であり正当なものでしょう。

■白鳥の歌

ケルゼンは、結局は、ナチスに追われて米国に亡命します。岩波文庫に1932年に書かれた「民主主義の擁護」が載っています。その最後の文章は次のようなもの。ワイマール憲法体制が終焉を迎える直前の「白鳥の歌」です。

民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。

1932年から84年後の今、われわれは1946年日本国憲法体制の終焉の始まりを目にしているのかもしれません。

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2015年6月10日 (水)

「ある憲法学者のおつむの変遷」  驚愕の長尾一紘教授の集団的自衛権合憲説 

中央大学の長尾一紘教授が安保関連法案を合憲と明言していると知ってびっくり。私は中央大学出身で長尾教授の講義も聞いたし、同教授の教科書も読んだ。当時とまったく正反対のことを言っているのに驚愕しています。長尾教授の条文解釈や判例整理は、きわめて論理的で切れ味よく、私には非常に勉強になったし司法試験にも役だった。

東京新聞の6月11日朝刊によると長尾教授は次のようにコメントしています。

どの独立国も個別的自衛権と集団的自衛権の両方をもつ。国連憲章にも明記されている。日本国憲法は他国と対等な立場を宣言している以上、自衛権を半分放棄するという解釈が出る余地はない。法案を違憲という学者の意識は、日本の安全保障に危機感を抱く国民の意識とずれている。


私が大学時代読んだ長尾教授の「日本国憲法」(世界思想社)を昨晩読み直しました。初版1978年発行、第2版1979年発行。私が持っているのは1979年第2版。その第一部、第三章に「戦争の放棄」が論じられています。同じ長尾教授の言葉です。

■国家の自衛権について
 「国家は、当然に自衛権をもつと同時に、自衛手段をみずから予め定めることができる」として、「軍隊を備え、場合によっては戦争に訴えることが自衛のための有効な方法であると考えてきたが、日本国憲法は、これらをいっさい禁止し恒久の平和の理念をみずから率先して実践することこそが、国民の安全と国家の主権を維持するうえでのもっとも有効な保障であることを明示したのである」(同60頁)。
■自衛隊と憲法9条について  
憲法9条の解釈論を教科書的に説明した上で、「合憲説は文理上不可能といわざるをえないのである」とし、さらに「以上のように、さまざまな観点から自衛隊の合憲説が主張されているが、いずれも法解釈上きわめて無理があり、合憲説の実質が政治的主張にあたることを示している」(同書63頁)
■ 「憲法変遷」論

私が中央大学に入学したころ、憲法学の著名な教授であった橋本公亘教授が従来の自衛隊違憲論を合憲論に説を変更したことが法学部生の間で大きな話題になっていた。学説変更の論理は、「憲法の変遷」が生じたということだった。これに対して、橋本教授の弟子であった長尾教授は講義で痛烈に批判していた。教科書にも次のように書いている。  
憲法変遷が生じるとしても、「国民の規範的意識に明白な変化が生ずること(学説・判例に重要な争いがないことも含まれる)が必要とされるが、「私見としては、とくに憲法の文言に正面から矛盾することがない場合に限定すべきように思われる。これらの要件が充足がなければ、いかに合憲的な外観を保持するものであっても、それはたんなる違憲の国家行為の集積にすぎず、憲法の変遷が生ずることはないのである」(同298頁))
■第9条と安保条約  
安保条約に基づく外国軍隊の駐留については、9条2項にいわゆる「戦力」に該当し違憲とする。第一説が正当である。その理由は、次に示す「砂川判決」第一審判決に明らかである」(65頁)
■憲法学者の解釈の変遷


長尾教授は、自衛隊を合憲とすることは、「憲法9条の文理上不可能である」と言い切っています。文理上不可能っていうのは相当な踏み込み方です。それをあとから変更するというのは、法律家のイロハである「文理解釈」ができない者であることを自ら認めることで相当に恥ずかしいことです。 


私の周りの弁護士には、「政策として集団的自衛権には賛成だと思うが、それを法制化するには憲法改正が必要だ」という人が多くいます。政策判断(政治判断)と法律解釈は別というのは、法律家なら当然わきまえなければならない矜持です。これができないと法律家でなく、法律屋(中央省庁の官僚たち)です。

ですから、憲法改正論者であっても、自衛隊や安保関連法制を違憲とするのは何ら矛盾はしない。かえって、政治論と法律論を峻別できる法律家として評価されます(小林節教授のように)。


しかし、長尾教授は、1978年頃は典型的な憲法9条論を唱えながら、いまはどうして学説を変えたのでしょうか。

先にふれた橋本公亘教授は、合憲説変更の理由として「憲法変遷論」をあげて学会で論争していた。これに、樋口陽一教授が、「確かに、憲法現象として「憲法の変遷」は存在する。しかし、それはあくまで「事実認識」の問題である。憲法変遷論を、憲法解釈変更の正当化する規範論としてはありえない」と批判していた。これも長尾教授の講義で聴いたと思う。


西修教授や百地教授は、もともと、そういう学者だから驚くに値しない。


学者として、学説変更の理由を述べるべきでしょう。
自らの学説の変遷を何もいわないでいけしゃあしゃあと合憲論ぶつのは私には理解できない。
少なくとも過去に自衛隊違憲論を大学の講義で述べて、それを学んだ元学生に対しては学者としての説明責任があろう。
上記東京新聞への長尾教授のコメントは、まさに自ら過去に批判していたとおりの「政治的主張」にほかならず、これでは憲法学者としては「お終い」ではないか。

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2014年9月25日 (木)

「リベラル側の一致点はどこか」-ヘイトスピーチ禁止法についての補足

■ヘイトスピーチ禁止法の補足

ヘイトスピーチについての私のブログに対する批判的コメントの多くが、私の意図した趣旨を誤解しているように感じました。

私がいつものように「あーだ、こーだ」と書いて、何を言いたいのか判りにくい文章のせいなのでしょう。でも、この問題は、単純な二元論で結論を出すべきではないという気持ちもあります。

ヘイトスピーチに関しての私の意見(ブログ)の骨子は以下のとおり。

①「ヘイトスピーチ」とは、人種・民族差別による暴力・差別・蔑視を扇動する表現を意味する。人種差別的ではない批判・非難などは、これに含まれない。(* 「国連自由権規約20条2項」や「人種差別撤廃国際条約1条1項、4条」)

②日本は、人種差別的ヘイトスピーチの規制を求める「国連自由権規約」や「人種差別撤廃国際条約」を批准しているから、政府は、これへの対策をすべき条約上の義務を負っている。(*日本政府は「表現の自由を尊重する」という留保条件をつけているが、対策をせず放置することは許されない)。

③人種差別的ヘイトスピーチを禁止・処罰する法律は、適切な立法であれば、理論的には合憲となる。

④しかし、安倍政権の下では、適切な立法がなされない危険性が高く、広く「表現の自由」を侵害する弾圧立法となる公算が強い。

⑤したがって、現時点でのヘイトスピーチ処罰法には消極・反対する。

⑥刑罰規制ではなく、ヘイトスピーチに対する行政救済制度を設けることを提案する。具体的には、法務省の部局に、差別者に対して警告を行う措置や、裁判所に対して差別行為の差止め等を訴訟を提起する権限を認める。

⑦また、捜査当局は、現行法の威力業務妨害罪などを活用して人種差別的ヘイトスピーチを厳格に取り締まるべき。

多くの「右の方」のコメントは、①や⑤をほぼ無視して、主に②、③、⑥について批判する。

もっと判りやすく乱暴に要約すると私の趣旨は次のとおり。

(1)ヘイトスピーチ処罰立法には反対する。

(2)ただし、ヘイトスピーチを規制する必要はあるので、人種差別的ヘイトスピーチ是正の新たな行政救済制度を設ける。この行政救済機関(人権擁護局とか、人種差別撤廃委員会とか)は、差罰者に対して差別行為であることを警告・差止めを求めることができる。これに従わない場合には、この機関に差別者に対する差し止め訴訟を提訴する権限を付与する。最終的には、裁判所が、司法の場で差別行為の有無や差し止めの可否を判断する。

(2)を書いたのは、ヘイトスピーチに対するリベラル派の意見が分裂しているように感じたからです。

■リベラル側の一致点はどこか

リベラルな陣営が、ヘイトスピーチ禁止・処罰法について賛否が分裂していることが気になります。

○反対派:ヘイトスピーチとはいえ、表現の内容的規制は一切反対すべきだ。

○賛成派:ヘイトスピーチを禁止し、処罰する法律を整備すべきだ。

反対派については、ヘイトスピーチ規制そのものに反対するというだけでは現情勢では国民の共感を得ないのではないか。それでは、これを機会に表現の自由規制立法をつくろうとする安倍内閣や治安機関の思惑には対抗できないように思います。しかも、在特会など人種差別主義者グループは、これに反対するでしょうから、「反対」という結論が同じになってしまい政治的な対立構図として判りにくくなる。

賛成派については、この規制が新たな治安立法や弾圧立法になる危険性に、余りに無頓着ではないか。

そこで、リベラル陣営が広く一致する「政策」をつくることが求められているように思います。私のような「行政救済機関(人種差別撤廃委員会)の設置」とか、「ヘイトスピーチ禁止基本法」の制定とか、いろいろ検討して、一致した政策を模索すべきだと思います。

誰か、そのような政策をつくって欲しいと思います。こういうのをつくれるのは、センスある学者でしょうね。

弁護士会とか弁護士団体とかは、なかなか意見がまとまらず、無理でしょう。私のような(2)の意見を言うような弁護士は、仲間からも多くの批判を受けることになりがちです。

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2014年6月28日 (土)

「集団的自衛権」解釈改憲の現実的な訴訟リスク

■集団的自衛権の閣議決定案

内閣の憲法解釈変更の最終閣議決定案が報道されています。それによれば集団的自衛権は次の要件が備われば憲法上許容されるとしています。

①わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生、
②これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合、
③これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき、必要最小限度の実力を行使すること

 憲法解釈としては余りに稚拙であり、合憲であることを何ら論証できていないと思います。それはともかく、今後、閣議決定に添って、自衛隊法、周辺事態法、国際平和協力法などが改正されることになります。

■自衛隊法はどう改正されるか

 
自衛隊法を考えてましょう。現在の自衛隊法は、防衛出動を次のように定めています。

(防衛出動)
第76条1項
 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という。)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律 (平成十五年法律第七十九号)第九条 の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。

これは「わが国に対する外部からの武力攻撃」があった場合の個別的自衛権のことしか定めていません。集団的自衛権を認める閣議決定にそって、今後、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した場合にも、防衛出動を命じることができると改正されることになります。

■「防衛出動」には自衛官は拒否できない(刑罰)

そうなると集団的自衛権行使による自衛隊の出動命令も、「防衛出動」ということになります。自衛官は、防衛出動を拒否することはできません。この防衛出動を拒否した場合には、次のとおり自衛隊法123条で7年以下の懲役又は禁固で罰せられます。

第123条  第76条第1項の規定による防衛出動命令を受けた者で、次の各号の一に該当するものは、七年以下の懲役又は禁こに処する

一   (略)
二  正当な理由がなくて職務の場所を離れ三日を過ぎた者又は職務の場所につくように命ぜられた日から正当な理由がなくて三日を過ぎてなお職務の場所につかない者
三  上官の職務上の命令に反抗し、又はこれに服従しない者

四、五 (略)

 ちなみに、国際平和協力法の活動を拒否した自衛官を罰する規定は見当たりません。公務員としての人事上の懲戒処分を受けるだけのようです。

■自衛官は、韓国や台湾、米国の防衛のために戦闘するか

 集団的自衛権行使として、将来可能性がある事態としては、①第2次朝鮮戦争勃発した場合に自衛隊を機雷除去などで朝鮮半島に派兵する、②中国の台湾への武力侵攻に際して米軍とともに台湾を防衛するために台湾に派兵する、③中東での戦争に際して石油輸入を確保するために自衛隊を中東地域に派兵することなどが考えられます。

 こいう場合にも、内閣総理大臣が自衛隊法76条1項に基づいて、「防衛出動」を命じることになります。日本の防衛、尖閣諸島防衛のためには、自衛官は、当然、防衛出動するでしょう。そのつもりで、自衛隊に入隊し、専守防衛を誓ってるはずですから。

 でも、まさか他国防衛のため、例えば、「韓国」防衛のため、「台湾」防衛のため、「米国」防衛のために、海外に派兵されして戦闘するとは考えていなかったでしょう。もちろん、戦闘が大好きで勇んで出動する自衛官もいるでしょう。

■これを拒否した自衛官は起訴され刑事裁判となる

 しかし、「話しが違う」と考える自衛隊員もいると思います。自衛官が、「じゃあ自衛官を辞める」なんてことはできません。処罰の対象です。

 そうなれば、「集団的自衛権を規定した自衛隊法や内閣総理大臣の防衛出動命令は、憲法9条に反し違憲違法である」として、命令を拒否する人もでるでしょう。

 そうなれば、必然的に自衛隊法違反被告事件として、逮捕、起訴されます。そして、「集団的自衛権は憲法9条違反だから違憲無効だから、自分は無罪である」との自衛官の主張に対して、裁判所は憲法判断をすることになります。

■裁判所の憲法判断が出ることは不可避

 
 内閣法制局の皆さま、この裁判で「集団的自衛権行使は合憲だとして勝訴できる」と思いますか。前内閣法制局長官から最高裁判事になった方が、就任の際に、憲法改正が必要だとコメントしていましたよね。

 解釈改憲ですすめれば、大きな訴訟リスクを内閣も自衛隊も負うことになるわけです。

 イラク自衛隊派遣の差止訴訟のような違憲訴訟が提起されるよりも、こちらのほうが内閣にとっては脅威のはずです。前者のような訴訟類型は、裁判所が出す可能性もなく(変わった裁判官しか出さないでしょう)、また違憲判断も理由中の判断にすぎず、法的効果がありません。政府とすれば無視すればすみます。しかし、刑事裁判となればそうはなりません。違憲なら、無罪ですから。そうなれば、多数の自衛官が集団的自衛権への参加を拒否することになる可能性があります。

 下級審では一定の違憲判決が出される可能性が高いと思います。

 ただし、日本の最高裁判所は、「高度な政治的判断が必要だ」として、統治行為論によって、憲法判断を回避する公算は高いと思われます。 そのため、自民党政府は、今後、このような考え方の最高裁判事をたくさん任命していくことでしょう。裁判官に対する締め付けも、再び厳しくなるのではないでしょうか。

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2014年5月 6日 (火)

憲法9条の成立過程について

古関彰一教授は、著書の「新憲法の誕生」(中央公論社・1989年)と「『平和国家』日本の再検討」(岩波書店・2002年)の中で、日本国憲法制定過程を実証的に記述されています。特に、憲法9条の成立過程は公開記録等に基づき極めて実証的で説得的です。これに基づいて憲法9条制定過程をまとめてみました。
なお、「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫・2009年、「新憲法の誕生」改訂版)が必読です。

■日本国憲法制定のスタート

1945年(昭和20)年10月にマッカーサーが近衛文麿に自由主義的な憲法改正を示唆し、当時の幣原首相は、近衛に先行されないように、10月25日に憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)を設置しました。ここから日本国憲法制定がスタートです(後記年表)。

早くも、12月28日に、民間研究者(高野岩三郎、鈴木安蔵等)による「憲法研究会」が民主的・自由主義的な「憲法草案要綱」を発表しました。GHQは同月30日には、この憲法草案要綱の英訳を作成しています。この憲法研究会の草案が後のGHQ憲法案に大きな影響を与えます。

■憲法9条の発案者

1946年1月24日、幣原首相がマッカーサー(M)と面談しました。そのとき、幣原が、戦争の放棄が理想であると語ると、Mがこれに強く賛意を示しました。 そして、Mは、次のように述べます。

極東委員会(FEC)では天皇にとって不利な情勢がある。しかし、日本が戦争放棄を世界に宣言すれば天皇制は存続できるであろう。

幣原首相が、友人である枢密院顧問官大平駒槌に語った内容を、大平の娘である羽室三千子が、上記の内容を記録しています(羽室メモ)。


■憲法問題調査委員会の松本私案がスクープされる

2月1日、秘密裏に検討されていた内閣の憲法問題調査委員会の「憲法改正試案」(「松本案」)が毎日新聞にスクープされた。この松本案は、大日本国憲法(明治憲法)に少し手を加えたものにすぎませんでした。憲法研究会の憲法草案とは大違いです。

■マッカーサー三原則

2月3日、Mは、憲法改正の次の3原則をGHQ民政局長ホイットニーに指示しました。

①天皇制の維持。天皇は職務及び権能は憲法に基づき行使される。

②国権の発動たる戦争は廃止する。

③日本の封建制度は廃止される。皇族を除いて貴族・華族は廃止。

2月4日、ホイットニーは、GHQ民政局行政部に憲法改正案を1週間で策定することを指示します。

これほどGHQが急いだのは、2月26日には極東委員会(FEA)が発足して、この極東委員会が動き始めれば、ソ連・中国・オランダ・オーストリアらの強硬派(天皇制廃止・天皇戦犯訴追)の圧力が強まる。そこで、それ以前にGHQの下で天皇制を維持する方向の憲法をつくっておきたかったのです。

■GHQの戦争放棄条項案

当初、GHQ民政局は、戦争の放棄を憲法前文に書くつもりであったが、途中でMの指示で本文に記載することになりました。

GHQ案
第1条(後に第8条となる)
 国権の発動たる戦争は、廃止する。
 いかなる国であれ他の国との紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
 陸軍、海軍、空軍その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。

■GHQ案の受け入れの閣議決定

日本政府は、2月8日、内閣の憲法問題調査委員会の「憲法改正要綱」(松本案)をGHQに提出しました。しかし、GHQは、これを無視して、2月13日、日本政府にGHQ案を手渡します。

2月21日、Mは、幣原首相と面談します。そして、Mは、戦争の放棄に不安を示す幣原首相を励まします。さらに、Mは、極東委員会は日本にとって極めて不快な問題を論じている。戦争放棄と象徴天皇制が要点である旨を述べます。

幣原首相は、翌22日、上記会談内容を報告して、GHQ案の受け入れを閣議決定しました。

要するに、天皇制を維持するためには、戦争放棄を呑むしかないとの判断です。この機会を逃すと、極東委員会が活動を開始して、天皇制廃止や天皇訴追に至りかねないと考えたからでしょう。この経過については、芦田均厚相(当時)のメモが残されています。

■日本案の作成

2月27日からGHQ案を日本側が日本語化する作業を開始しました。その日本語化作業は、憲法1条や憲法24条等々について、GHQと日本側との間で、色々なドラマというか、騙し合いというか、法戦というか、興味深いものがあります。9条についても紆余曲折をたどります。

■戦争放棄条項の紆余曲折

GHQの原案は次のとおりです。

GHQ案8条
 国権の発動たる戦争は、廃止する。いかなる国であれ他の国との紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する。
 陸軍、海軍、空軍その他の戦力を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が国に与えられることもない。

これの日本案は次のとおりです。

日本案第9条
 戦争を国権の発動と認め武力の威嚇又は行使を他国との間の争議の解決の具とすることは永久に之を廃止す。
 陸海空軍その他の戦力の保持及び国の交戦権を之を認めず。

日本語案は3月2日に完成し、3月6日に幣原内閣が「憲法改正草案要綱」として発表しました。そして、4月10日に総選挙を経て、帝国議会での憲法改正を審議することになります。

■憲法制定議会の要求や総選挙の延期要求

3月14日、社会党や共産党、知識人が憲法制定には憲法制定議会を設けるべきとの声明を出していました。

他方、3月20日には、極東委員会(FEC)は、Mに対して、余りに早い憲法改正手続を憂慮して、総選挙を延期して憲法問題については慎重にすすめるようにと文書で要求しています。

ところが、Mは、極東委員会の総選挙延期要求を断固拒否すると回答しました。(もし、M のごり押しがなかったら、極東委員会が活発化して、天皇訴追、憲法制定議会の招集、天皇制廃止もあり得たかもしれません。)

■日本国憲法草案の発表

4月10日に総選挙の結果、幣原内閣は退陣して、吉田茂内閣に交代します。総選挙の後になって、日本国憲法草案が初めて全文が発表されました。

■帝国議会での「自衛権」論争

憲法9条について帝国議会での論争がなされました。次のような有名な自衛権論争があります。

●共産党の野坂参三衆議院議員
第9条は、我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする。侵略戦争のみを放棄する規定にすべきである。

吉田茂首相の答弁
第9条2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来近年の戦争は多く自衛権の何において戦われたものであります。満州事変然り、大東亜戦争又然りあります。

現在はまったく真逆になっているのが皮肉です。

その後、9条はまさに内閣や内閣法制局によって「解釈改憲」されたのです。ちなみに、吉田首相の「完全非武装主義」の解釈は、一年前には鬼畜米英と言っていた保守派議員から理想的だとか素晴らしいとかで圧倒的賛成を得ているのも皮肉です。吉田首相の自衛権放棄論を聞いたうえで憲法に賛成しているのです。しかし、私個人としては野坂参三議員の意見が真っ当であると思います。

■芦田修正問題

帝国議会では、6月28日に憲法改正特別委員会(芦田均委員長)が設置されて、条文の審議が行われます。その結果、政府案は次の委員会案のように修正されます。

政府案
 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

委員会案
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「芦田修正」とは、委員会案の2項の「前項の目的を達するため」という条項を追加したことです。この修正の意図を、芦田氏は「国際紛争を解決する手段として」の場合にのみ戦力・交戦権を放棄したことを明示し、自衛のための戦争は放棄していないというのです。

■実は、芦田修正ではなく、「金森修正」という古関教授の指摘

しかし、古関教授は、この「芦田」修正は歴史的真実ではないと資料を駆使して論証されます。他方、この「修正」は「金森国務大臣」の意向だとされます。

特別委員会の憲法9条を審議する小委員会で、芦田の当初の「修正案」は次のようなものであったのです。

(芦田修正案)
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際紛争を誠実に希求し、陸海空軍その他の他の戦力はこれを保持せず、国の交戦権は、これを否認することを宣言する。
② 前項の目的を達するため、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

この芦田の修正案は現在の9条の1項、2項を入れ替えたものです。これだと、第1項で一切の限定なく戦力不保持、交戦権を否認しており、絶対非武装を定めることになります。2項の「前項の目的を達するため」も国際紛争を解決する手段に限定するものにはなっていません。

これに異を唱えたのは、金森国務大臣だというのです。小委員会議事録には掲載されていないが、入江法制局長官の記録では金森は次のように述べたとされています。

将来国際連合との関係において第2項の戦力を保持しないということについてはいろいろ考え得べき点が残っているのではないか。

結局、芦田は金森の提案を受け入れました。芦田自身は、「前項の目的」とは、「国際平和を希求」ということを指すものでどちらでも構わないと述べたそうです。

そしえ、前記のとおり委員会案が決まり、GHQ案と異なり、9条第2項に「前項の目的を達するため」が挿入されました。

当時、この修正の重大さに気がついていたのは、佐藤達夫法制局次長でした。修正後、GHQにこの案を示したら反対されはしないかと一抹の懸念を抱いたというのです。これは同氏の「日本国憲法誕生記」(中公文庫137頁)でも書かれている。

司令部(GHQ)は、こういう条文があると、前項の目的云々を手がかりとして、自衛のための再軍備をするとの魂胆があっての修正ではないかと誤解しやしませんか、ということを芦田先生に耳打ちした

■GHQも極東委員会(FEC)も修正の意味は気がついていた

このことに気がついたのは、内閣法制局の官僚だけではなかったのです。GHQのケーディス(民政局)は、占領終了後にインタビューを受けて次のように答えている。

修正によって、自衛権が認められることを知っていた。日本は、国連の平和維持軍の参加を将来考えているのだろうと推測した。

さらに極東委員会(FEC)の中華民国代表S・H・タンは次のように指摘していた。

この修正によって、9条1項で特定された目的以外の目的で陸海空軍の保持を実質的に許すという解釈を認めていることを指摘したい。・・・日本が、自衛という口実で軍隊を持つ可能性がある。

■「文民条項」を復活させた極東委員会

オーストラリア代表のプリムソルは、「文民条項」(大臣は軍人であってはならないと禁止する条項)の必要性を次のように強く訴えました。

将来必ず日本は軍隊を保持する。その際、日本の伝統で現役武官が陸海軍大臣に就くことになる。その際の歯止めとして文民条項は必ず定めるべき。

その結果、極東委員会がGHQに文民条項(現憲法66条2項)がの勧告によって挿入されたのです。いったん削除されていた文民条項が、極東委員会の勧告で復活したことになります。日本に被害をあった中国やオーストラリアは、日本を信用していなかったために、この条項を用いて、必ず日本が自衛のための軍隊を設けることを正しく見通していたわけです。

■憲法9条の意義

上記のとおり、憲法9条の制定過程を見ると、現憲法下でも、自衛のための戦力を保有すること自体は論理解釈としては成り立ちます。

もちろん、吉田首相が帝国議会で述べたとおり、完全非武装で、自衛戦争も放棄したと解釈することも論理的に可能です。

しかし、自衛のための戦力さえ完全に放棄する「非武装主義」は非現実的でしょう。野坂参三議員が指摘するとおり民族の独立を危うくするものだと思います。

そして、現時点においては、結局、国民の多くは、「専守防衛」という範囲で自衛隊を容認しているということでしょう。この法意識を無視することはできない。

ただし、現実の「自衛隊」が「専守防衛」の範囲内にあるかどうかは別問題です。
おまけに、「集団的自衛権」容認に踏み出すとなると、もはや「自衛権」の範疇を超えてしまいます。「集団的自衛権」は、他国の「防衛」のために戦力を行使する概念ですから。この点は、長くなったので踏み込まないようにします。

■「押しつけ憲法」論

上記の経過を見れば、圧倒的に占領軍(GHQ)の圧倒的影響下で、日本国憲法が制定されたのは事実です。そこで、「押しつけ憲法」という非難の声があがります。でも、現憲法には憲法研究会の民間憲法草案やワイマール憲法なども大きな影響を与えています。

他方、大日本帝国憲法は、伊藤博文が「ドイツ帝国憲法」を「猿まね」して、ごく一部の政治家・官僚が秘密裏に作成して、国民(=臣民)に押しつけた欽定憲法です。

当時、自由民権運動の中、民主的・自由主義的な「私擬憲法」がたくさんありました。有名なのは五日市憲法です。これらは一切、参考とされませんでした。

その意味では、国民にとって、迷惑な「押し付け憲法」は大日本帝国憲法の方でしょう。
今や押しつけかどうかが問題ではなく、その憲法の内容が妥当かどうかこそが問題なのだと思います。
戦後70年近く国民に支持されてきた現憲法に、今さら「押しつけ」との非難はもはや意味を持たないでしょう。

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2013年7月11日 (木)

非嫡出子相続分差別 最高裁大法廷判決へ

昨日7月10日、非嫡出子の相続分が嫡出子の2分の1とする民法の規定について、最高裁大法廷で弁論を開いて、9月にも大法廷判決が予定されている。非嫡出子の相続分2分の1規定が不合理な差別で憲法違反となる可能性が極めて高い。

法律婚の保護といっても、何らの責任のない非嫡出子が差別されることは、不合理な差別にほかならないと思う。最高裁は合憲が多数であったが、常に反対意見が続いてきた。遅きに失したが、やっと是正される見通しになった。


15年ほど前に、家庭裁判所での嫡出子と非嫡出子間の遺産分割調停(被相続人父親)に、嫡出子の代理人として関わった。財産も相当あり、嫡出子間でも特別受益などの争いがあり、調停成立まで長期となった事件だった。非嫡出子(女性)は本人のみで、代理人はついていなかった。


長女は「母は父が家庭外に子供をつくったことに、とても苦しんでいた。私は、母親の姿を見てきたので複雑だ。でも、苦しんだのは、あなた(非嫡出子)も同じね。」と述懐した。

長男も「悪いのは親父だった。みんな平等で遺産分割をしよう。」と同意して、嫡出子、非嫡出子が平等な遺産分割が成立した。

最後は、非嫡出子(女性)も泣いていた。

とても気持ちの良い調停だった。最後まで争う人もいれば、このように平等に分ける人もいる。


大法廷弁論のニュースを聞いて、あの事件を思い出した。

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