映画・テレビ

2022年7月 9日 (土)

映画日記「シン・ウルトラマン」-メフィラス星人が提案する安保条約

この映画を公開直後に観て、しばらくして事務所の若手と2度目を観にいった。二度見はシン・ゴジラと同じ。

映画の1度目はストーリーとメイン映像に目を奪われる。でも、2度目はディテールに気がつく。劇場映画はTVと違って「名画」と一緒。何回観てもワンシーンに発見がある(それが名作の所以)。

 

以下、ネタバレあり

 

この映画は、やはり子供に楽しんでもらおうと意識した怪獣映画。私が小学2年生当時(1966年)、ウルトラマンのTV放映をワクワクしながら観た。その世代には、この映画も楽しく懐かしめた。それを知らない人はよくわからないかもしれない。そういう人々には女性隊員が巨大化するのがセクハラにしか感じられないのだろう。

また子供目線だと、「禍特隊」が単なる国家公務員の寄せ集めで格好よくなく実力も感じられないのが残念で、ストーリー展開に説得力が弱い。

大人目線だと、この映画はメフィラス星人(山本耕史)が出てくる後半が断然に面白い。メフィラス星人と日本国が星間条約を締結して、異星の進んだ科学技術を日本が提供を受ければ、日本の安全保障は盤石。

メフィラス星人は、日本に星間条約を提案する際に「私メフィラス星人を上位概念においてくれ」と言う。総理大臣はこれを了解する。メフィラス星人は、その星間条約をタブレットに写して示すが、その画面には「5条」のタイトルが読める。これは2回目観て気がついた。

さて、この5条とは、日米安全保障条約第5条ですね。外務省はウェブで次のように解説しています。

 第5条は、米国の対日防衛義務を定めており、安保条約の中核的な規定である。
 この条文は、日米両国が、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し、「共通の危険に対処するよう行動する」としており、我が国の施政の下にある領域内にある米軍に対する攻撃を含め、我が国の施政の下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合には、両国が共同して日本防衛に当たる旨規定している。

そして、メフィラス星人の言う「上位概念」は、日本国憲法の上位に安保条約が置かれているという意味になります。これは、今の日米関係へのメタファー(暗喩)であり、皮肉と揶揄だよね。「メタファー」は私の好きな言葉です。

メフィラス星人と日本の星間条約締結を阻止する反逆者が「禍特隊」とシン・ウルトラマンである。そして、シン・ウルトラマンとメフィラス星人がバトルを繰り広げる。

ところが、シン・ウルトラマンの故郷の「光の国」から来たゾーフィ(ゾフィーではない)が二人の紛争に介入する。メフィラス星人は、ゾーフィの介入した事実に気がつくと、即座に撤退する。

ゾーフィは人類に過剰に肩入れするシン・ウルトラマンを光の国のルールに反したとして処罰し、危険な人類を滅ぼすことを決定して実行に移そうとする。

ここでは、メフィラス星人は米国のメタファーで、ゾーフィが中国のメタファーですね。

メフィラス星人(米国)は、ゾーフィ(中国)との決定的な軍事的な全面対決を回避して、地球(日本)を見捨てることくらい簡単に決断する。

さて、そうなるとシン・ウルトラマン自身は、何のメタファーと考えられるだろうか。

「真・善・美の化身」とされるウルトラマンだが、最初のテレビ作品の企画・脚本の中心は金城哲夫。彼は沖縄出身の作家でTVの「ウルトラマン」に社会的問題を反映させていた。今から見ればその意図は明白で、「戦争と沖縄」「正義と差別」に終生こだわっていたと言っても良いだろう。彼は「沖縄海洋博」の演出も担当し、本土と沖縄の間の葛藤をいっそう抱えていた。(by NHKドキュメンタリー)。

シン・ウルトラマンを制作した庵野秀明(1960年生)は、当時の金城哲夫の発信していた雰囲気やメッセージを世代的に理解できるだろう。樋口真嗣(1965年生)は世代としてはギリギリかもしれない。ただ、庵野秀明は宮崎駿や高畑勲監督と仕事をしており、樋口真嗣も平成ガメラの金子修介監督と一緒に仕事をしている。樋口真嗣も金城哲夫の隠されたメッセージは理解できただろう。

この二人は、ウルトラマン、金城哲夫の作品に最大限の敬意をはらっており、その隠されたメッセージを盛り込んでいるにちがいない。

シン・ウルトラマンの「真・善・美の化身」とは、疎外された自己(日本又は沖縄)であり、理想化された自己(日本又は沖縄)なんだろう。


「シン・ゴジラ」は福島第1原発事故がメタファーであったし、「シン・ウルトラマン」は、日本の安全保障がメタファーだったのである。

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映画日記「PLAN75」


高齢化、老人人口増加により、75歳以上になれば国家が制度として自ら死を選択する道を提供するというストーリーは昔からたくさんあった。かならずしも目新しいテーマや作品ではないし、衝撃的でもない。筒井康隆の小説でも、このテーマで面白おかしいコメディがあった。

この「PLAN75」の映画が目新しく面白いのは、日本人がたんたんと受け入れる様がリアルに描かれていることだろう。そして、映画を見ながら、現在の日本の状況と共振して、「日本人はそうなるだろうなあ」と納得させられる。
「人に迷惑をかけるくらいなら、国のプランに応募して死んでしまおう」
係累も子供も孫もいない後期高齢者。年金もなく、あるいは暮らせない僅かな年金で一人暮らしする老人らは、「未来」ではなく、今の「現実」を描く。政府の安上がりの高齢化対策に従順に従う老若男女の日本国民。何も考えずにたんたんと老人らの死の選択をサポートする若者たち。

そして、老人の最後の措置をするのが、外国人労働者たちである。でも映画では、外国人労働者たちのコミュニティを、日本人社会とは異なる連帯感に満ちた明るい姿として、対照的に描いている。映画の最後では、外国人労働者である彼女は思い切った勇気ある行動に出る。

この日本社会の閉塞感と滅びていく様子を描いているところが、この映画の新しいところ。

最後に夕日を眺める主人公の思いと歩みはどう受け止めるのかは、観客ひとり一人で異なるだろうと感じた。

この映画はフランスとの国際共同製作だそうだ(フランスからの予算をもらって製作)。編集はフランスで行われた。編集担当のフランス人は「こんな制度を政府が提案したら、フランスでは大反対運動を展開して暴動が起こる。日本はこんなに静かに受け入れるのか?」と驚かれたそうだ。インタビューで、監督は「たぶん日本では受け入れられる」と答えたそうだ。私もそう思う。

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2017年5月 3日 (水)

アニメ「風立ちぬ」は宮崎駿の自伝だった?

▪️岡田斗司夫の評論に目からウロコ

宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」は2013年公開された映画です。正直にいって、非常に困惑したアニメ映画でした。

主人公として描かれている堀越二郎の映画としてみると、日本の侵略戦争に対する宮崎駿の歴史観や政治的スタンスと矛盾しているように感じざるを得ません。ゾルゲを彷彿する人物を出したり、ドイツでの反ナチスの活動家を出したりして、戦争に批判的なテイストを入れていますが、中途半端でしかありません。

アニメの表面的な主題だけを追ってみると、美しい日本というテーマになってしまってつまらない駄作にしか思えませんでした。

ところが、岡田斗司夫氏の評論「『風立ちぬ』を語る~宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来」(光文社 電子増補版)を読んでまさに目からウロコが落ちました。このアニメ「風立ちぬ」は宮崎駿の自伝的アニメだというのです。

このアニメを堀越二郎に仮託した宮崎駿自身の自伝なんだと思うと、すべて納得がいくアニメ映画になります。

▪️宮崎駿の生い立ちが最初から反映されている

宮崎駿は、戦前の飛行機製作会社(宮崎航空興学) の一族として生まれ育ったそうだ。飛行機、特に戦闘機に特別の興味関心があることは自ら隠そうともしていない。

このアニメの出だしは、飛行機のパイロットになりたいが、近眼でその夢が叶わず、墜落するシーンからはじまる。

▪️庶民の働く女性(女性労働者)が繰り返し美しく描かれる

工場で働く女工から声援を送られる御曹司というシーンも、きっと宮崎駿の子供のころの記憶が反映しているのだろう。そして、岡田斗司夫も同書で指摘しているが、関東大震災で奈緒子と女中おきぬを助けるが、主人公の心に残っていたのは、まだ子供の奈緒子ではなく、美しい女中のおきぬの方であったという描写がある。

宮崎駿が若いころ東映での労働運動に参加するようになることは有名だが、ルーツとして幼少時代に自分の父親が経営する飛行機工場での女子労働者たちへの何らかの同情心があったことを示唆しているように思える。

千と千尋でももののけ姫でも、紅の豚でも、働く庶民の女性を圧倒的に美化して描いているのが宮崎アニメの特徴といえる。

▪️妻の生命よりも仕事を優先する二郎の非情さ

二郎の描きかたは、妻の病状や健康には無頓着で、美しい飛行機さえ作れれば良い。そのためには結核になった妻の健康より、戦闘機(人殺し飛行機)づくりを優先するという非情な男というストーリーと言える。

男は崇高な天職(仕事)に邁進し、病身の妻は常に美しくい、夫を支えて足出まといにならないよう生きて行くという「儒教的夫婦関係」への賛美と見える。しかし、この男の声優をあえて素人である庵野秀明に演じさせている。庵野秀明の声優は単なる棒読みで、感動的な儒教的夫婦愛にふさわしくない(と岡田斗司夫は指摘する)。庵野秀明の二郎は、ただの木偶の坊(棒読み)にしか聞こえず、この儒教的夫婦愛への感動を観客に誘わないのである。

主人公の男は、戦闘機作りに邁進する非人間的な非情な「ただの専門バカ」にしか見えない。

▪️宮崎駿の女性観

映画の中では、二郎の妹かよ(「不美人な専門職(医師)」である女性)が出てきて、奈緒子の健康を無視して仕事しかしない兄(二郎)を痛烈に批判する。

宮崎駿氏のこの女性観(母性感含む)は全作品を通じての通奏低音として響いており、「風立ちぬ」にも色濃くでている。宮崎駿の女性観は結構保守的である。ラナ、クラリス、ナウシカもシータもすべて自立しながらも、古典的な良妻賢母的な人格。同時に庶民的な働き者の女性も大好き。

ただ、この点、宮崎駿は自覚的であり、現代の女性から自分の女性観が厳しく批判されるものであることを意識しているようである。これは上述した妹からの批判を描く点にあらわれている。(これも岡田斗司夫氏も指摘している)

さらに、岡田斗司夫は、家庭を犠牲にしてアニメにのめり込んだ宮崎駿の夫婦関係の反映であると指摘している(他人の家庭のことまで踏み込んでいいのか?)。宮崎駿の妻は、息子である宮崎吾郎に対して「あなただけはアニメの道に入らないで、あんな家族を犠牲にする仕事の鬼のような父親にならないで」と懇願していたそうだ(結果的に、息子もアニメの世界に入った。)

▪️本庄は高畑勲だな

主人公の同僚で本庄という設計者が描かれている。実在の人物であるようだが、主人公の堀越二郎のライバルであり親友である。彼は、非常に論理的に物事を見て批判的に考える人物。例えば、堀越二郎が貧しい庶民の子に、シベリアをあげようとする。しかし、子供らはこれを拒絶する。これに対して、本庄は、「偽善だ。お前のつくっている飛行機の部品でその子らの一家は二ヶ月くらい食べていける」と。また、「戦争があるから、俺たちはかってに飛行機をつくってる」という自虐的なことも言ったりする。

この本 庄は、高畑勲のことだと思う。

▪️軽井沢に出没するのはゾルゲだな

あの時代に対する批判的場面としては、アニメの中で、軽井沢で塔尾上するドイツ人がいる。このドイツ人は「このままではドイツも日本も爆発する。戦争を防がねば」と二郎に言う。最後は特攻に追われて軽井沢から消える。

彼はリヒャルト・ゾルゲであろう。
ゾルゲは、ドイツ共産党員であり、コミンテルンから送り込まれたソ連赤軍諜報員だ。

またドイツに訪問した二郎や本庄の前で、反ナチスの活動をする若者らが一瞬登場する。二郎はそういう局面に出会うが、やはり美しい理想の飛行機=戦闘機製作を続ける。

これらのエピソードは、反戦運動に共感しながら、そちらの方向には進まないという点を強調しているように読める。

これは宮崎駿や高畑勲は一時、東映動画の労働運動の中心人物だったが、その後、労働運動から離れて、あくまでアニメ作りに邁進したことの反映ではないかと思える。

▪️モノづくりとアニメづくり

三菱重工での二郎のチームは、多数の技術者をかかえて製作や設計の会議では集団で討議してわきあいあいの楽しそうなシーンがなんども描かれている。きっとアニメづくりのシーンもこういう楽しさがあるのだろう。

▪️最後のシーンについて

アニメでは、奈緒子も一人、山奥の療養所で死に二郎はゼロ戦を完成させるが敗戦。二郎は「一機ももどってこなかった」とつぶやく。そして、夢の中で、死んだ奈緒子から、「あなた生きて」と言われてエンディングとなる。

この最後の言葉は、宮崎あてでなく、モデルになった堀越二郎あてのリスペクトをこめたセリフだろう。宮崎駿の自伝としては恥ずかしすぎる。

彼の自伝の最後は、草原でカプロー二と良いワインを飲んで青空を見上げるだけでよいはずだから。

宮崎駿としては、堀越二郎に託して自分の人生を描いてしまったわけである。恥ずかしいから、これで引退すると言わざるを得なかったのではないでしょうか。

▪️今後について

以上、岡田斗司夫氏の評論に触発されて勝手な推測を書きました。

ついでに、宮崎駿氏には、ナウシカ漫画本の最後のおさまりが今ひとつなので、後日譚を短編で描くことと、「シュナの旅」という自作の漫画をアニメ化してほしいだけです。ちょっと欲張りすぎの注文というはわかっていますが、スタジオ・ジブリを今後、残すためにもがんばってほしい。

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2017年3月20日 (月)

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」と小田原市生活保護行政

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映画のあらすじ

 

ケン・ローチ監督の映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見てきました。興味のある方は一見を。



40年間、大工として働いてきたダニエルが、心臓の病気で大工仕事ができなくなった。英国の福祉センターに赴き社会保障を受けようとするのだが、医者は就労できないと診断しているにもかかわらず、英国の労働年金大臣が委託している保険会社が就労可能と判断して、休業支援金申請を拒否する。これに対する不服申し立ては、オンラインしか受け付けないが、ダニエルはPCを持っていないし操作がわからない。

 

当座をしのぐために、ダニエルは失業手当申請をすることにする。そのためには、週35時間の求職活動が義務付けられて福祉センターにて求職活動をしているか否かの審査を毎週受けなければならない。そのため、働けないのに求職活動をかたちだけすることを、他人からは「不正受給申請だ」と非難をうける。

 

福祉センターでは細かな執拗な質問を受け、まるで社会の厄介者扱いをうける。ダニエルは「まるで拷問だ」とつぶやく。他方、シングルマザーで二人の小さな子供を育てる女性が、面接時間に遅れたというだけで給付を取り消されるのを目撃し放っておけず、ダニエルは福祉センターに猛抗議して追い出さる。

 

ダニエルは、妻を2年前に病で亡くし、子供もおらず、孤独で口うるさいが、実直で気のよいおっさん(59歳)だ。彼は困っている隣人には手をかすが、自分のことは自分でなんとかする意地っ張り。ちょっと怪しい移民の若者とも仲良くしている。しかし、そんな彼らが英国の社会保障からはじき出されて、追い込まれていく。

 

過去には英国は「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家だったが、1980年代以降、サッチャー首相の「新自由主義改革」「保守革命」により緊縮財政で社会保障は大きく掘り崩された。

感想

 

ケン・ローチ監督は、英国の社会保障の実態が人間の尊厳を奪うシステムになっていると厳しく告発している。題名の”I, Daniel Blake”は、人は単なる社会保険番号ではなく、尊厳をもったひとりの人間だということを意味しているのでしょう。いかにも、ケン・ローチ監督らしい。80歳をすぎても社会批判の情熱と創作意欲が衰えることはない。

なお、この映画の最後に、社会保障の異議申し立てをして行政委員会に出廷するダニエルを励ます代理人が出てくる。英語は聞き取れなかったが、字幕では「代理人」となっていた。おそらくソリシター(事務弁護士)なのだろう。そういう貧困層のために働く英国弁護士も多いと聞いたことがある。



日本の生活保護行政を思う


この映画を見て感じたのは、英国だけではなく日本も同じだということです。

 

小田原市の生活保護の担当者が、「生活保護なめんなよ」「不正受給は厳しく摘発する」などのジャンパーを着用して執務をしていたことを思い出した。確かに、不正受給の問題もあるのだろうが、それは全体のごく一部でしかないことも明らか。にもかかわらず、小田原市の公務員はなぜあのような子供じみたふるまいをするのだろうか・・・

 

井出英策教授の立論

 

井出英策教授(慶應大)という気鋭の財政社会学者がいる。一般向けに財政と社会保障の本を出している(「18歳からの格差論」、「日本財政 転換の指針」、「分断社会を終わらせる」)。井出教授の面白い点は、私が乱暴に要約すると次のようになる。

 

「社会的弱者だけを救済するというのでは、中所得者の人たちの抵抗が強い。そのため社会的弱者バッシングがおこるし、制度的にも就労可能か求職活動をしているかなどの審査が過度に厳しく行われる。バラマキ批判を超えて、低所得者も中高所得者も受益を実感できる社会保障をつくるべき。消費税増税も社会福祉の民主的合意があれば可能だ。そのためには教育と少子化対策という必要なものに財源を投入するべきだ」

 

ケン・ローチ監督について

 

ケン・ローチ監督は、英国の労働者階級やアイルランド独立戦争を描く社会派映画を撮り続けてきた(庶民の厳しい生活と少年を描いた「ケス」、アイルランド独立戦争を描いた「麦の穂をゆらす風」、「ジミー、野をかける伝説」、スペイン市民戦争を描いた「大地と自由」)。日本で言えば、山田洋次の硬派みたいな感じかな。

 

2013年、サッチャー元首相が死亡したとき、「さあ鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」と英国らしいきつい批判が高まる中、ケン・ローチ監督も「彼女の葬儀は民営化して、一番やすい業者がとりおこなうべきだ。それこそ彼女が望んでいたことだ」とコメントしたそうです。ケン・ローチ本人といえば、オックスフォー大学で法律を学んで、BBCに就職して映画監督になったエリートだ。

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2016年8月 7日 (日)

映画評「シン・ゴジラ」

庵野秀明監督・脚本の「シン・ゴジラ」を観ました。


お見事!

 
というしかない。

同年代(50~60歳台)のオヤジ世代には、是非、大画面の映画館でごらんになることをお勧めします。

詳しいストーリーは省略、以下ネタバレの感想です。映画未見の方は読む前に映画館でご覧ください。

***ネタバレ感想*********************
この映画で、何よりも面白い点は「福島第一原発事故」の実際の展開を踏まえて展開するという点です。


一種の「政治的パロディ 怪獣映画」です。

けっして、「怪獣」(ゴジラ)が主役ではなく、ゴジラは想定外で未曾有の危機の象徴であり、それが出現したとき、現実の今生きている日本人(政府や官僚や国民)がどのように対応するかという局面こそ庵野監督が描きたかった物語でしょう。

まさに、ゴジラは「荒ぶる神」であり、「荒ぶる原発」の象徴です。

原発事故の対応に追われる首相や官邸サイドの動き、御用学者の発言、政治家や官僚組織の右往左往、自衛隊や消防隊、現場の協力業者などの動きをもとにして、本作で描いているとしか思えません。

だから、ゴジラが通過した後の被災映像はすべて既視感があります。船を巻き込みながら川を遡上する津波、がれきだらけになった街中。

このような映画シーンは、津波被災と福島第一原発事故被災をうつしたテレビ映像そのままです。首相や閣僚が着ている各省の防災服、対策本部での会議室の様子も、福島第一原発事故の様子そのままです。

ゴジラ対策を練る閣僚会議や政府高官の会議、官僚の会議がパロディとなって、その日本的な風景に苦笑(爆笑)せざるをえない。官僚組織の動き方など、福島第一原発事故の事態どおりであり、まさにそうだったなあと思わせます。

自衛隊の対ゴジラ出動も、「治安出動なのか、防衛出動になるのか」を官僚と閣僚が法律に基づき議論します。結局、「有害動物駆除」として総理大臣が「防衛出動」を命じるなんてストーリーが面白い。いかにも日本的な「官僚内閣制」です。

自衛隊が出動してゴジラ攻撃を実行するシーンでは、初回ゴジラ作品と同じ「ゴジラのテーマ音楽」が流れるのも良い。
ちなみに、初回ゴジラは1954年放映だが、同じく1954年に自衛隊が設立されている(それまでは、警察予備隊、保安隊)。自衛隊の戦車や戦闘機がゴジラを攻撃していた。シン・ゴジラでも、自衛隊が最新鋭部隊がゴジラを攻撃するが、当然、通常兵器ではまったく効果なし。

「想定外なんで、よくあることだ。」「ゴジラが上陸するのなんて絶対あり得ない。」と発言をしていた首相をはじめとした古手の閣僚が乗ったヘリコプターが、ゴジラに一瞬で破壊され、あっけなく全員死亡。

さらにシン・ゴジラで面白かったのは、ゴジラ対策に米国・米軍が介入してくる点です。

福島第一原発事故の際に、メルトダウンし4つの原発がすべてコントロールできなくなった場合には、米軍が介入するという話が現実にあった。米国は官邸に米軍を常駐させるように要請し、これを菅総理は断っている。東京全避難になっていたら、米国人・米大使館保護のため在日米軍の介入は必至だった(菅総理談)。
ということで、映画では、ゴジラへの自衛隊の攻撃が失敗し、米軍が東京の核攻撃を決定し、国連安保理も承認し、対ゴジラ多国籍軍が編成される。日本政府は、米国には逆らえないって承諾してしまう。

さて、東京は、日本はどうなる?

 
首相ら主要閣僚が死亡した後、「昼行灯」のような老政治家が、やむなく総理大臣を押しつけられ、アメリカにもたてつけない。


彼は「まあ がんばってね。しょせんわしが責任とらされるから」って言うかのように若手の政治家や官僚にあとの対策を委ねる。


その若手らが民間企業と協力しながら活躍。エンタテイメント映画としての壺もおさえています。

最後は、福島第一原発事故の「使用済み燃料プール」への放水場面そのままのような、自衛隊と民間業者の共同作戦が最大のヤマ場。超速いテンポでの場面展開で、ついてけない人もいそうです。

完璧なエンターテイメント映画です。見終わった後に隣に座っていた若い男の観客が「まるでエヴァだなあ」とつぶやいていました。確かに映像が庵野監督のアニメ「エヴァンゲリオン」に似ているという評も多いようですが、それはどうでもよいように思います(映像としてはゴジラは素晴らしくかっこいい)。

何より本映画の特徴は、ゴジラのような想定外の物事が起こったとき、右往左往する日本政府(と日本人)に対する諦観と痛烈なパロディでもあり、それでも日本人は日本人のままなんとかするしかないし、なんとかできるという楽天的なメッセージもあります。そうしないとエンターテイメントになりませんから。

この映画は、福島第一意原発事故をふまえて、日本人の政府や組織の会議や対応をリアルに描いています。ですから、子どもや外国人には、この映画の面白さはおそらく理解し難いでしょう。他方、組織に属する日本のオヤジたちは思い当たる点が、多々あり微苦笑できます。

最後に、ネタバレついでに言えば、ニコリともしない常にクールな「理系女」の環境省女性技官のラストの表情が印象深いです。

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2015年6月21日 (日)

海街diary(是枝監督)のテーマは「父不在」か

この映画、「父の日」に観てきた。

是枝監督、主演女優 綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず です。

http://umimachi.gaga.ne.jp/

鎌倉の四季が美しいという評判どおりの映画。鎌倉ということで小津映画を連想しました。口うるさい大叔母なんてシチュエーションは同じです。

原作の吉田秋生のマンガ本を娘に借りて読みました。吉田秋生というマンガ家は才能豊かな作家だとはじめて知りました。原作マンガ本と読みくらべると、是枝監督は、「父不在」を映画の隠れたテーマにしているのではないかと強く思いました。

映画のあらすじは、父親が家庭を捨てて女性と家を出た。その二年後に母親も自分の娘三人を実家において再婚して家を出た。父母に捨てられた三姉妹は、祖母(すでに7年前死亡)の実家で15年間も暮らして、それぞれ成長した。長女は母親代わりのしっかり者だが今や同僚の医師と不倫をしている看護師、次女は男出入りのはげしい地元信用金庫の美人OL、三女はアート系の気ままなフリーターらしい。三姉妹は15年間一度も会わなかった父親が死んで、一人取り残された腹違いの妹をひきとる。鎌倉でのこの四姉妹の生活を静かに描かれるという良い映画でした。詳しいストーリはウェブに譲ります。

鎌倉の四季の移ろいや静かな生活をえがくところは、小津映画を思い出させます。4人の女優がみずみずしくて鎌倉の古い家と自然と四人姉妹を見ているだけで満足です。

とはいえ、原作もそうだが、映画を観て、やはり一番、印象に残るのは「父の不在」です。

父親は、不倫して家を捨て、4歳から13歳までの3人の娘に15年間一度も会わず、相手の女性と娘を一人つくっている。それに対する反発をする母親代わりの長女、どうでもいいと思っている下の妹たち。でも苦境にある腹違いの妹を引き取る姉たち。その腹違いの妹は、家庭を壊した女(母)の娘として、姉たちに気兼ねをしている。この四姉妹が心を通わせて家族になるプロセスがこの映画のテーマなんでしょう。

でも、父親は写真でさえ、姿が見えない。本当に影が薄い。父親がいなければ娘たちも存在していないわけだが、きわめて抽象的な存在でしかない。「やさしいけど、ダメな人間」と長女は切り捨てる。他の妹たちは、やさしい人だったと言うだけ。そして、父に対して厳しい長女も、最後は、「やさしかった」としてなんとなく許すようになったようだ。

これに対して、母親は、生身の人間としてでてくる。この母親も7年ぶりに娘たちに会う。しかも、大人気なく腹違いの妹に嫌味を言い、自分が捨てた実家を金欲しさに売却しようなどという。それで、長女と言い争いになり、祖母七回忌の法事で、醜い修羅場を演じる。このひどい母親(大竹しのぶ・ぴったりの役)は良くも悪くも存在感はある。つまり、娘と母親の葛藤は、逃げることなく描かれている。

その他出てくる大人の男たちも、みんなが善人で、やさしいが皆、存在感が薄い(人畜無害)。男関係が多い「愛の狩人」の次女(長澤まさみ・美女)のターゲットになるような優男たち(イケメン)たち。

とても良い映画で、鎌倉の空気が美しい。また、父母に捨てられ、責任感から妹たちを育ててきたのに、なぜか大人になって不倫をしている長女を、綾瀬はるかが、自立した女性の切なさをよく演じているのが印象的。

現代の家族形態が「父不在」であるということを象徴的に描いた映画だと思いました。吉田秋生の原作マンガ本は、もう少し父親の輪郭がはっきりしています。だから余計に映画が「父不在」のテーマを是枝監督が浮き彫りにしているように感じます。「そして父になる」という是枝監督の前作とテーマは同じではないかと思いました。

これからの家族は、「父不在の空洞」を家族がどう埋めていくのかというのがテーマなのではないのでしょうか。それは母親と葛藤を克服した娘たちが埋めるのでしょうか。

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2013年5月29日 (水)

花はどこへいった

■NHKのBSで「花はどこへいった」(Where have all the flowers gone?

「ハイビジョンスペシャル 世紀を刻んだ歌 花はどこへいった 〜静かなる祈りの反戦歌〜」


2013年5月28日にBSで放送されたものを録画して見ました。元々は2000年に放送されたそうです。

この番組内容は次に紹介されています。
■番組の中で印象に残った言葉
正確でないが、いくつか次のような言葉が印象に残った。
「ピート・シーガーが1番から3番をつくって、その後、別の人が4番、5番をつくって、1番にもどる構造にして完成したのがこの曲。これについて、ピート・シーガーは「僕がつくってジョーンが4番、5番をつくった。みんなで付け足して完成させていく。これからの世界はそのような世界になると思う」
「この歌は植物の種のような歌で、普段はあまり歌われないが、戦争や困難の世の中になると、みんなの口から歌われるようになる。人々のなかに根をはって、何かのときに成長してくる」
「戦争があるかぎり、この歌なくならない。この歌がなくなるのは戦争がなくなったとき。それは永遠にこない」
 

また日本でも、この歌が歌われる日が近づいているように思えます。

■ベトナム反戦

中学生の頃、この歌や、ボブディランやジョーン・ヴァエズの「風に吹かれて」をラジオで聞いた。ベトナム反戦運動の時代でした。

カタリーナ・ピッドがリメハンメル冬季オリンピックのフィギュアスケートで、この曲で氷上で舞ったのも当時、印象に残った。

この番組を見て、そこに深い意味があったことがわかりました。

■ピート・シーガー

フォクークシンガーで有名なのは知っていましたが、アメリカの労働運動、公民権運動、反戦運動に深く関わっていたとは知りませんでした。マッカーシーの赤狩りの対象にもなっていたのですね。アメリカ人って、こんな人がいますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ピート・シーガー

6月6日午前0時45分に再放送されるそうです。

NHKスペシャルの「キャパの戦場の一枚」も素晴らしかった。
こういう番組を時々つくるから受信料の支払いも無駄でないと思います。

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2011年4月17日 (日)

映画「SP革命編」 

■SP革命編をみる

http://sp-movie.com/index.html

昨日は久々の土曜休みで、下の娘と映画館でSP革命編を観てきました。SP野望編も娘と観ましたが、お約束の続編です。

娘たちに言わせると「19歳の娘が父親と映画を観に行くなんて、普通はありえない。父親として相当に幸せなのだ」そうです。(私としては映画チケット代と食事代をうかせているだけのように思うのですが。まあ、娘二人合計14年間も保育園・学童保育の送り迎えを続けた「成果」かもしれません)

それはともかく、SP革命編は、SPや自衛官らの反乱分子が、腐りきった国会議員や閣僚を糾弾・告発して国民を覚醒させるため国会を占拠するというストーリーです。

堤真一演じるSPかつ反乱分子のリーダーが「国民よ、覚醒せよ。刮目せよ。」とテレビに語りかけるところは、2.26事件か三島由紀夫事件かという感じでしたね。

■ファシズム・平成維新

ただ、映画のストーリー(脚本)は、そう単純ではなく、この反乱分子を背後から操っている官僚グループと政治家がいること、さらに、その奥にもっと大きな黒幕がいることなどが示唆されており、単純なファシズムをあおるストーリーにはなっていません。

ということで、前作のSP野望編は全編アクションばかりの映画でしたが、SP革命編は少し理屈ぽかったです。

政治家や官僚は腐敗し、警察組織(暴力装置)の幹部が無能でも、第一線のSPの現場の若者たちが最後に立ち上がってテロリストを打ち倒すというハリウッド的なストーリーです。

映画は、アクションも国会議事堂の様子もリアルで楽しめました。娘は「岡田くんも、堤真一も格好いい。出てくる男性俳優も身体の切れが良くて、みんな格好良かった。真木よう子もかっこいい」と手放しのほめようでした。

■革命とクーデターの違い

見終わってから娘に、「あれは革命ではなく、単なるクーデターだ」と言ったところ、「クーデターって革命と同じじゃん」と言われました。

そこで、父親としては教育の必要があると考えて、「クーデターとは一部の反乱分子の国家権力機構への攻撃と奪取にすぎない。革命とは被支配階級である人民が立ち上がる政治的な社会革命だ」と一講釈したところ、娘は「ふんっ」と2階の自室にに引き上げていきました…。

でも、SP革命編はなかなか面白かったので、まだ続編「最終エビソード」がありそうなので楽しみにしてます。

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2007年7月14日 (土)

パッチギ! Love &Peace

パッチギ!の続編です。前作の感想は → http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2006/05/2005_8e1d.html

随分前に観てきました。でも、がっかりしたので、ブログには感想を書かなかったのですが、ブログネタが無くなったので書いちゃいます。(・・・仕事が忙しくて、飽和状態なので、難しい話しは書いている時間がない。)

本当は、川人博先生の「金正日と日本の知識人」(講談社現代新書)も読んだので(今は無き「文京総合法律事務所」の超個性的な猛者弁護士たちをかいま見たことがあります)、映画の感想と重ね合わせて、本の感想も、いろいろ書きたことがあるのだけれども、時間ありません。

この映画は,何だか「在日」であることの必然性が見えない映画となってしまっています。【以下ネタバレあり注意】

続きを読む "パッチギ! Love &Peace"

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2007年6月 8日 (金)

映画「しゃべれども しゃべれども」

■落語
先日,落語の映画を見てきました。
売れない二つめの若い落語家が,ひょんなことから「落語教室」をはじめる。
「生徒」は
・解説が下手な野球解説者
・口のきき方を知らない,怒りんぼの美女
・東京に転校していじめられている大阪の子ども

■江戸情緒
縁側のある日本家屋,路地裏の植木,ほおずき市,風鈴,住吉神社,隅田川の佃島・月島界隈の江戸情緒が満載です。とはいえ,ウオーターフロントの高層マンションと着物姿の落語家というミスマッチ感。

ほのぼのとした気分で映画館を出ました。そして,美味しい蕎麦と日本酒をいただきたくなりました。

敢えて,難を言えば,主人公の落語家の青年が二枚目すぎることと,ラストが「安易」で少し残念でした。

http://www.shaberedomo.com/

■寄席に行きたくなり

新宿に末廣亭があります。午後9時からの深夜寄席は木戸銭500円だそうです。

http://suehirotei.com/

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