日記・コラム・つぶやき

2018年4月16日 (月)

財務省事務次官セクハラ疑惑へのマスコミへの疑問

財務省の対応への評価はなかなか難しいですね。新聞報道だけでの印象であり、週刊新潮の記事自体を読んでいませんが。

そもそも、週刊新潮の記事では被害者である女性記者が被害を週刊新潮に提供したというのが記事の発端のようだ。

そこで、第1の疑問。財務省の記者クラブに出入りするようマスコミの女性記者(ジャーナリスト)が、なぜ自社ではなく週刊新潮にリークするのだろうか? しかも、録音までしているにもかかわらず。

考えられる理由は、自社に訴えたが財務省とにらまれることを恐れて当該マスコミが取り上げなかった。そこで、女性記者は週刊新潮にたれこんだという理由です。それでも自社に迷惑がかかるので匿名にしたということだろうか?

第2の疑問。一般論としてセクハラの被害者が匿名でしか訴えられない事情は理解できます。しかしながら、マスコミ記者でジャーナリストである人物が実名を恐れたり、セクハラ告発でさえ匿名でするものなのだろうか?(自社の上司のセクハラ告発を躊躇するのは理解できるが、超大物の財務省事務次官のセクハラ行為の告発を躊躇するだろうか? ジャーナリストなら、こんな超弩級の特ダネは諦めないのが普通ではないだろうか?)

もし、女性記者がマスコミ(報道機関)に所属するジャーナリストさえ、官僚のセクハラを実名告発できないのが日本のマスコミ、ジャーナリズムだということになると、日本のマスコミやジャーナリズムが絶望的な状態ということになる。

おそらく、その女性記者が実名告発を恐れるのは、実名で告発すると自分が所属する報道機関が財務省などから報復を受けることになり、自社をそういう立場に追い込むなと上司から妨害や嫌がらせを受ける。あるいはその危険を感じているということでしょう。(こういう現状をふまえる限り、その女性記者の自己防衛としてはやむをえないことでしょうから、当該女性記者を非難するものではありません。)

第3の疑問。加害者である男性が、女性記者に対して胸を触らせろなどと言った行為を全面的に否認している場合、当該言動が事実であると確信するには、週刊新潮の報道(録音も含めて)だけでは不十分といわざるをえないでしょう。事実関係の確認を経ないまま、即更迭を主導するマスコミ報道への疑問。

被害者名や所属報道機関名を公表する必要はないが、少なくとも財務省が懲戒処分をするには、男性が否認している以上、被害者からの事実確認は必要不可欠であり、その事実確認手続き経ないで懲戒処分することは、法律的には無理スジだと思います(財務省に固有名詞を知らせなくとも、委託した弁護士などが少なくとも被害者本人に事実確認をすることは必須ではないでしょうか)。

他方、新潮社は、男性からの名誉毀損訴訟では、「真実でなくとも真実だと信用する相当な根拠があれば勝てる」と見込んでいるのでしょう。でも、男性への懲戒処分の有効性は、上記セクハラ行為が真実であることが必要となるでしょう。

第4の疑問。財務省は被害者に弁護士に連絡して協力してほしいと発表したが、弁護士の守秘義務(第三者だけでなく、財務省にも固有名詞などを通報しないという守秘義務)を明確にしていない点が不思議であり、また、当該法律事務所が財務省の顧問事務所という点も疑問である。第三者性が明確な弁護士に委託するべきでした。例えば、日弁連に担当弁護士の推薦を依頼するとか。

願わくば、被害者である女性記者が勇気を出して、財務省事務次官のセクハラを実名で告発し、声をあげられない女性の代表として、たたかってほしい。そして、マスコミや市民が彼女を擁護するという関係が理想でしょう。でも、この日本では無理なんでしょう。

財務省の福田淳一事務次官が女性記者にセクハラ発言を繰り返したと週刊新潮が報じた問題で、財務省は調査結果を発表した。…
ASAHI.COM

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月12日 (日)

平等に貧乏になる日本  上野千鶴子氏の中日新聞の意見に思う

上野千鶴子氏の意見が物議を醸しているようだ。

東京新聞でこの意見を読んだが、わたしの見方と半分は一致している。この上野千鶴子氏の事実としての予測(少子化・人口減少はもはやとめられないということ、移民を日本に大量に受けいれたときに社会的混乱が生じるということ)は現状での事実予測としては当然でしょう。

少子化は、もはやどうしても止めることはできない。仮に、今の30歳以下の女性が明日全員子供を産んでも、日本の人口減少はとめられないそうだ。その理由は、もはやその年代の女性の数が劇的に減少しているから。

ちなみに、結婚した夫婦は現在でも平均すれば、基本的に2人弱の子供を産んでいるそうです。少子化・人口減少の原因はマクロ的に見れば、結婚した夫婦が子供をつくらなくなっているのではなく、若い男女の晩婚化であり、もっといえば非婚化(法律婚であろうと、事実婚であろうと関係なく子供を産むというカップルにならない)という事実であることが、統計分析が教えるところだそうです。だから、保育園をつくっても少子化が解決するわけでないことも厳然とした事実だそうだ。

保育園は、少子化対策ではなく、女性の社会進出を図るための重要な施策です。人口減少社会では、女性が働くことは、女性の自己実現だけではなく、社会的にも必要不可欠なのですから。

結局、日本の少子化・人口減少は不可避で、その結果、近い将来、日本の国民経済、国家財政と社会保障システム(年金等)は破綻することが避けられない現実なのだそうです。(じゃあどうすれば良いか?・・・、私にはわかりません。)

このような日本経済が下降線をたどるときに、大量の移民を入れれば、外国人・移民と職をめぐって競争となり、そうなれば日本人お得意の「右ばね」が働き、日本社会での「人種差別」が横行し、欧州のような「右翼民族主義勢力」が台頭することは不可避でしょう。

もちろん、これとたたかうリベラル派や社会民主主義勢力も必ずいますが、これがけっして日本では多数派にならないことは、明治維新以後の現代までの歴史を見れば明らかです。

今後、今の若い日本人が、自由と平等、平和と民主主義を愛して、外国人に対する人種差別を憎み、右翼とたたかう自立した「市民」に変貌するなんてことはありえないでしょう。逆に右翼の先頭にたちそうだし。

このあたりまで、まったく上野千鶴子氏と同じ予想。違うのは、そのあとです。

「政府」と「経営者層」は、必ず、外国人移民を大量に日本にいれるでしょう。そうしなければ、国力と経済力を維持できないからです。国内に排外主義がはびこっても、国力(財政)と経済(儲け)を維持するために外国人や外資導入は必須です。そのため、右翼民族主義が発生しても、それを利用して政権を奪取し、維持しようとする政治勢力(政治家)が日本の主流となるでしょう。そして、治安維持のため警察権力を強化し(盗聴と共謀罪のセット)、大量の移民と外資導入を活用して国力と経済を維持するということに必ずなると思います。でもって、憲法改正という結果になりなねない。

みんなそろって政策的に平等に貧乏になるなんて、上野千鶴子氏の予測するような綺麗事では絶対すまないでしょう。「貧乏」になるときは、社会の混乱と人々の不幸せが大量に起こる時代なんだよね。

我ながら、絶望的だな。

上野千鶴子氏は、実は私と同じように絶望的に考えているんだけど、それでは救いがいないと思って、「平等に貧乏になる日本」って言っているだけなのかもしれない。

 きょうは、建国記念の日。二十世紀終盤、司馬遼太郎は著書『この国のかたち』で「日本、そして日本人とは何か」を問い続けた。
CHUNICHI.CO.JP

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月30日 (金)

映画「この世界の片隅に」-韓国からの批判に思う

■「この世界の片隅に」

一回観て、その後、原作マンガ本を読んで二回目を若い友人たちと一緒に観にいきました。良い映画だと思いました。反戦プロパガンダ映画ではなく、テーマをストレートに主張はしないが、その分、いまの日本人にも受け入れられやすく、先の戦争の意味を深く考えるきっかけになるアニメ映画だと思いました。
今後、10年、30年に残る名作だと思います。


■日本の侵略性を描かない「この世界の片隅に」という批判

ところで、韓国の人から「この世界の片隅に」については、日本の侵略と加害責任を描かず、侵略を支えた側にいるヒロインの「すず」を被害者としてのみ描くのはおかしいとの批判がなされているようです。
確かに、この映画は、日本の加害責任を直接的に描いていないために、当初から中国や韓国では受け入れられないだろう指摘する日本人もいました。


■ 「はだしのゲン」との比較
衆目の一致する反戦漫画「はだしのゲン」(私はアニメは観ていない)も、当初、中国・韓国から<被爆者の被害者性だけを延々を描いて、軍都でもあった広島の侵略と加害の責任を描いていない>と批判されたという。
そこで、途中から侵略・加害の責任を強調するように描いた。これは原作者の中沢氏がイ
ンタビューで「批判に答えて修正した」と述べていたのを読んだ覚えがある。
ゲンの場合は、父親が反戦思想をもった人だったから、そういうストーリーになるが、当時の一般的な人はまったく異なっている。学校に行かず18歳で嫁に行く「すず」に反戦思想を持て、といっても無理があるように思います。ただ、監督は、あとに指摘するように、側面からそれを描いています。


■ 「火垂るの墓」との比較


もう一つ、代表的な反戦アニメといわれる高畑勲の映画「火垂るの墓」(野坂昭如の原作本は読んでいない)に対して、宮崎駿が「嘘つき映画だ」と痛烈に批判していました。


なぜなら、主人公の兄妹の父親が映画では駆逐艦の艦長という設定だった。艦長なら海軍兵学校出のエリート海軍士官で、その家族を「海兵」の同期が放っておくはずはない、生き残った子供が路頭にまよって餓死することなんかありえないと、宮崎は指摘する。宮崎駿の実家は、飛行機軍需工場だったから戦前日本の軍人をよく知っているから、これあありえない設定だと言っていた。
この「火垂るの墓」も、まったく日本の侵略と加害の責任を語っていない映画だった。しかも、宮崎駿が指摘するような「うそっぱち」を含んだアニメでもある。にもかかわらず、これが反戦映画(右派から見ると、「はだしのゲン」と同じく「反日」映画だそうだ。)として通用している。
だが、韓国や中国の人々から見れば、この高畑勲のアニメも、大日本帝國海軍士官(艦長)の子供らの被害者性のみを強調する映画であり、加害と侵略の責任をうやむやにする映画であると批判することだろう。確かに、被害者としては、このように批判するのは、けだし当然である。そこは素直に認めるべきであろう。

■ 「この世界の片隅に」での「太極旗」が描かれる意味

他方、「この世界の片隅で」は、『火垂るの墓』とちがって、朝鮮半島への侵略を指摘しているアニメです。それは。映画の中で、玉音放送後に、『太極旗』(朝鮮独立の旗)が呉市内に掲げられて、たなびくからです。そのとき、すずは「なんで暴力に屈するのか、まだまだ戦える」と言いながら、「そうか、日本は暴力で従えとっただけか。それがうちらの国の正体かえ。」と独白する。ここでは、日本が朝鮮半島を暴力的に支配してきたことが示唆されています。
でも、韓国や中国の人々にとっては、この程度のあやふやな、あいまいな描き方では不十分であり、加害責任をぼやかしていると思うのでしょう。
現に、日本人でも、この場面に気づいても、その意味がわかる人間が少ないらしい。なかには「朝鮮」進駐軍が呉市内を占領して暴虐を尽くしたことに対する抗議の意味だと誤解(曲解)するトンデモ日本人までいるんだそうだ(ほとんど「妄想」の部類)。
ただ、このあたりは韓国との文化の違いという側面もあると思う。ストレートに伝えないのが日本映画の作風だから、韓国や中国の人には理解が困難で、あいまいでうやむやにしていると思うのかもしれない。
例えば、映画中で、「すず」が妊娠したと思ったが、間違いだったというエピソードがある。妊娠は間違いということが間接的で瞬間的にしか描かれない。それなので、今時の日本の若者は理解できずに、映画の最後に出てくる女の子は、すずの子供かって、誤解する人もいるらしい。

■ 日本の侵略と、アジア諸国民の被害と、日本人の被害


被爆の悲惨な状況は、二例が描かれるだけ(救護所のわきに座り込む黒い被爆者、ガラスの破片が刺さり右腕を失った母親につれられた女の子。その母親はうじがわいて死亡)。
また、すずの妹は、二次被爆して寝込んでいる。彼女の腕に「あざ」ができているが、これは原爆症で死亡することを示唆しているが、はっきり描かれないから、今の若者は解説がないと理解できないらしい(「夕凪の街、桜の国」はまさに、このストーリー)。
これらの悲惨な被害実態も、抑制的に描かれているが、それでも侵略と加害の責任を明示的に懺悔してからではないと、韓国人や中国人からは「被害者ヅラをして」と批判を免れないことになるようだ。


■ 両国の庶民レベルの和解は可能か


周恩来は、戦争責任について、戦争指導部の軍人や政治家と、日本の一般人民を区別し、後者は、前者の軍国主義者の犠牲者でもあると述べた。周恩来の高い道徳性と政治家としてのふところの深さには感銘をうける。
しかし、このような情理を踏まえた理性的な考えが多数派になることはないようだ。

日本の侵略性の指摘とその認識が甘いとの批判は当然だとしても、どのような場面でも、誰であろうと、同じパターンでそれを繰り返すのは、両者の和解のハードルを高くすることになるおそれがある。日本の侵略性を認める日本人でさえ、「またか」って思ってしまう。
また、批判の仕方としても、もうすこし工夫があっても良いだろう。

日本の庶民の被害を、(加害者だと先に非難しないて)、国がちがっても同じ庶民として戦争の被害の痛みに共感しつつ、さらにひどい被害が朝鮮半島やアジア諸国でもあったことを、同じ「この世界の片隅み」の出来事なんだと指摘する手法のほうが日本人の共感も呼び、将来の和解に繋がるように思うのだが。

すずも軍人も一緒くたにして、加害者側とストレートに批判することで、その批判者が得るものはなんだろう。ストレートに日本を批判したという自己満足なのだろうか、韓国内に対する、厳しく日本の加害責任を追及しているという自己証明(あるいは、アピール)なのだろうか。

■ 日本の侵略と加害と日本人の被害について


日本の「侵略と加害の責任」と日本の一般人の「戦争被害」と、アジア諸国の被害を、全体的に、統一的に描くことは映画でも小説でも極めて難しい。大岡昇平が「レイテ戦記」で試みたが、日本人に広く伝わったとも思えない。
唯一成功したのは、『人間の條件』(五味川純平原作)という古い白黒長編映画だと私は思うが、この作品もきっと韓国人や中国人からすれば、主人公である「梶」という日本人を理想化・英雄化しすぎているとか、梶の妻が日本敗戦後に中国人の暴徒に乱暴されるような描写があることが非難されるかもしれない。また映画として、韓国人からは『容共』的、中国からは『親ソ』的だと政治的な非難を受けるかもしれない。
日本の「侵略・加害」と「日本人の戦争被害」の理解を深め、その上で、アジア諸国との「和解」に繋がることはまだまだ難しい。情理に基づく、理性的な和解はもはや困難なのでしょうか。今後、100年、200年の時の経過をまつしかないのでしょうか。
もはや、現時点では、外交や安全保障体制の駆け引きの「カード」として使われるという不幸な事態になってしまった。

やはり、昭和天皇の在位中、戦争を知る世代が、アジア諸国に謝罪し、和解を果たすべきだったのでしょう。それをしなかった戦中派の罪は重いと思います。

私は、英米をはじめとした欧米諸国とは日本は五分と五分の帝国主義戦争を行ったのであり、道徳的には五分五分(欧米も日本も双方「悪」)なのですから、先発帝国主義である欧米が自らの帝国主義征服戦争と植民地支配を「悪」と認めて謝罪しない以上、日本が一方的に欧米に謝罪する必要はないと思います。

しかし、アジアに対しては、日本は100%の侵略をしたのであり(帝国主義戦争と植民地支配)、アジア諸国民に対して真摯に謝罪することは当然だと思っています。


【追記 2017年1月3日】
原作と映画の違いですが、うろ覚えで記載ましたが、実際は次ぎのとおりだと下記ブログで指摘されています。

http://ichigan411.hatenablog.com/entry/2016/11/16/235307
【原作】こうの史代著

 

(玉音放送を聞き終わって)

 

「最後のひとりまでたたかうんじゃなかったんかね」

「いまここへまだ五人も居るのに」

「まだ左手も両足も残っとるのに」

「うちはこんなん納得出来ん!!」

 

「‥晴美‥晴美‥。」(義姉が死んだ娘の名を呼び泣いている)

 

(ここで太極旗が翻る)『 』は、すずの独白

 

『暴力で従えとったという事か』

『じゃけん暴力に屈するいう事かね』

『それがこの国の正体かね』

『うちも知らんまま死にたかったなあ‥』

 

(すず 慟哭)

【映画】シナリオ本から

すずの独白部分を、次のとおり変更。

『海の向こうから来たお米、‥ 大豆、そんなそんでできとるじゃろうなあ、うちは。』

じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね』


この改変は、監督によれば、すずの日常のリアリティを追求した結果の自然な言葉だそうだ。この独白の変更の監督の「意図」をさぐるのも興味深いです。


それはさておき
、上記の変更でも、上記した私のブログの趣旨を変更する必要はないと思います。被害者側から見たら、加害責任があいまいだという批判は、批判として正当だからです。ただ批判の仕方を間違えると、「和解」が遠のくのではないかというのが趣旨ですから。


もっとも、被害者の最初の心情は、「和解」を望んでおらず、加害者が厳しく罰せられることを望むのが普通です。その心情自体は、常に自然な感情です。私が弁護士として、被疑者・被告人の弁護人として、被害者への謝罪や示談をする際に必ず直面する事態です。ですから、そのような心情を責めることはできません。

こういう韓国からの批判も考えられるという意味でも、このアニメ映画は名作だといえます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月 6日 (水)

天下大乱

謹賀新年なのに時局ネタ

2016年は、異様に暖かい正月です。


■サウジとイランの国交断絶

サウジアラビアとイランが「国交断絶」というニュースにびっくりぽん。

両国は地域大国で、スンニ派原理主義盟主とシーア派原理主義盟主です。

不倶戴天の敵対関係といってもよいでしょうね。

昔であれば、国交断絶の次は、「宣戦布告」です。

対立の背景にはイランの核開発への対抗という深刻な問題があるはずです。

この対立で得するのは誰か?

それは、IS(イスラム国)でしょう。

ISはスンニ派過激組織だが、カリフを自称するバクダディ師は、サウジ王家を打倒・シーア派を壊滅して、2020年までに「世界カリフ制国家」を樹立すると宣言しているそうで、2016年から全面対決に年となると行動計画もあるそうです(池内恵「イスラーム国の衝撃」)。

スンニ派の有力者らがISを資金・武器援助しているとの噂は絶えないですから、サウジのイランとの対立は嫌な感じです。 中東の「天下大乱」がいよいよ拡大されそうです。

■北朝鮮の水爆実験

と思っていたら、本日は北朝鮮が水爆実験の実施のニュースです。

サウジ・イラン対立の核つながりですが、今の国際的核管理体制(NPT)の瓦解が明白になりました。

実は,年末まで北朝鮮と中国との関係修復の動きで、もう核実験は実施しないかと思われていたのに、突然の予告なしの水爆実験にびっくりぽん。

北朝鮮は核弾頭運搬能力(ミサイル技術)はまだ低いと言われていますが、明確な脅威であることは変わりはない。

集団的自衛権の安保法制、国家緊急権、憲法改正などの安倍首相の動きがもっと露骨になります。

こういう憲法9条=非武装中立主義では対応できない事態が発生していることは否定できない。

具体的な政策として、安倍首相の積極的平和主義に対置できる安全保障政策を野党(民主党右派は自民党と同じ=前原とか長島とか=自民党に行けば良いのに。このままでは民主長は対案を提示できない。)が提案しないかぎり、参議院選では安倍首相の「勝利」は動かないでしょう(日本の民主党と共産党がドイツのメルケルくらいにのリアリストになれば良いのだが。)。それで、本来の非武装中立主義者は、社民党に投票すれば良いのだし。そうすれば社民党は生き残るれるし。

これは日本共産党が党名を変えない限り無理かも(「立憲社会党」や「立憲共和党」とかがイイと思う。とにかく共産はだめね=中国共産党と一緒だし)。そして、共産主義=マルクス主義を修正して、社会自由主義=ジョン・ロールズ=修正主義者エンゲルス的な思想に変えれな理論的にもすごいと思う。個人的には)。

その上で、日本の情勢にあわせて対置すべき、安全保障政策は次のとおり、
①「専守防衛自衛隊の容認」
②「国連の集団的安全保障への協力」
③「米国と集団的自衛権関係否定」

④「中国に対抗できる普遍的理念の構築(イデオロギー戦略=アジアの「王道」は日本がこれからつくるしかないでしょう戦略=新幹線的な下世話な話だけでなく、アジアの陸上・海上・電脳ネットワーク)」

で、どうでしょう。

■「王道」こそ
次の言葉は五族協和(本来は、[五族共和]であるべき)とともに大好きな用語です。
孫文が発した次の言葉がすばらしいですね。ガンジーも同じようなことを言っていた。

「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質も持っている。日本がこれから後、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(盾と城)になるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている」。(1924年の神戸での孫文の講演)
宮崎駿著「ナウシカ」から、 「クシャナの王道を歩め。そなたは血で清められた。そなたには王道こそふさわしい。」(by ユパ)。たぶん、これは実は、宮崎駿が日本に本当は期待したことなんだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月15日 (日)

ISのパリでの無差別テロに思う。

パリで、非武装の一般市民の120名以上が無差別テロで殺害された。ISがパリのテロの犯行声明を発表した。「フランスのシリア空爆に対する反撃だ」という。

ガザ、ベイルート、イスタンブール、パリ、シリア、イラク、世界中のあちことで戦争暴力とテロ
が続いている。多くの非戦闘員、民間人が殺されている。


フランスの治安当局は有能であり、テロに備えて厳戒中だったという。にもかかわらず、これほどの大規模で組織的なテロをフランス治安当局が察知できなかったことの方が驚き。

それほど、ISは、巧みで卓越したテロ・ネットワークと強力な国際テロ遂行能力を欧州内に持っているということなのでしょう。

今後、米国はもちろん、空爆に参加したカナダ、オーストラリア、ロシアや中東諸国もテロの標的になる。

欧米の論理では、ISが話してわかる相手でない以上、欧米は徹底的な軍事行動に出るでしょう。欧米は、「テロに屈して撤退しては、さらなるテロ攻撃をまねく」と考えて報復行動に出るでしょう。ISはそれを受けて立つ覚悟なのでしょうか。

とにかく、ISの無差別テロは、欧米軍のより強力な軍事的報復を招き、かつ世界中を敵に回すことになる。ISにとっても無差別テロは有効な戦術とは思えない。

昔、ベトナム戦争がありました。
ベトナムでは数万、数十万人のベトナム人が米軍(ほかに豪軍、韓国軍、NZ軍、比軍、タイ軍)に殺されていた。ベトナム人は、ベトナム国内で激しいレジスタンス(米側にとってはテロ)や戦闘を行ったが、米国やタイや韓国などで一般市民を標的にする無差別テロは実行しなかった。他方、国際的にはベトナムを支援する反戦運動がひろがった。そして、ついにベトナムが米国に勝利した。

ISは、このような戦略にはたたないようだ。ISは、無差別テロで、より戦争状態をエスカレートさせることにメリットを見いだしているようだ。欧米露との戦争を激化させることで、自らのイスラム世界での権威を高め、戦闘員をリクルートし、反欧米露の金持ちシンパからいっそうの武器や資金の援助をうけることが狙いなのだろう。

ISの女性や異教徒に対する常軌を逸した残虐行為を見ると、まさに狂信的な宗教テロ組織なのだろう。ISは、暴力と憎悪を世界中に撒き散らし、多くの人命を犠牲にしながら、ゆきつくところまで行くのでしょう。100年たっても解決しないパレスチナ・イスラエル紛争のような長い長い紛争がはじまったのでしょう。

たとえは悪いが、突然変異で生まれた「がん細胞」がどんどん増殖するのを見ているようだ。もっとも、この突然変異を起こしたのは、米国のブッシュ政権がはじめたイラク戦争だ。
愚かな暴力の連鎖がまた一つはじまった。日本も、後藤さんらの拉致殺害で明らかなとおり、既にISのテロ対象となっていることは間違いない。

宗教対立が背景にあり、双方頭に血が上った「欧米露VSイスラム原理主義」との紛争に、日本が積極的に関与しても何もできないし、何のメリットもない。


遠く離れた極東から人道支援をしながら、双方に「もうお互いいい加減にしいや。そろそろ止めといた方がええんちゃいまっか。」とでも言っているしかないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月18日 (水)

「分離すれども平等」-人種差別のエートスと曾野綾子氏のコラム

■曾野綾子氏のコラム

曾野綾子氏は、安倍首相の私的諮問会議である「教育再生実行会議」の委員だったそうです。この方は、過去、自民党政府の下で「司法制度改革審議会」(!)などの委員も歴任されてきた、政府重用の「有識者」(!)です。

その曾野綾子氏が、産経新聞のコラムで、「労働力不足と移民」と題して、日本も移民を受け入れたほうが良いと述べた上で、次のように記述しています。

http://gohoo.org/15021801/

しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎにきた人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。
(中略)
もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに別けて住む方がいい、と思うようになった。
 (中略)
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし、居住だけは別にしたほうがいい」

南アフリカ駐日大使は、産経新聞と曾野氏に対して、人種隔離政策である「アパルトヘイトを許容し美化した恥ずべき提案だ」として抗議をしています。 

これに対して、曾野氏は、「アパルトヘイト政策を日本で行うように提唱してなどいません。」「生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい、という個人の経験を書いているだけです。」と反論しています。 

しかし、上記コラムを普通に読むと、曾野氏は、日本に移民を受け入れて介護等に従事させることを提言し、同時に移民には契約条件を厳重に守らせるべき、その条件とは、移民の居住区を人種ごとに別けることだと提唱しているとしか読めません。ですから、曾野氏の「反論」に説得力を感じません。 

■米国の人種差別訴訟判決

米国の人種差別撤廃闘争史の中で、有名な「ブラウン事件判決」という連邦最高裁判所の判決があります。 

この判決以前は、米国連邦最高裁判所は、州法によって公共施設や交通機関、トイレが白人用と黒人用に分離すること(人種分離)を義務付けていても両施設の品質が平等である限り、人種差別でなく憲法違反ではないと判断していました(1896年、プレッシー事件判決)。これが有名な「分離すれども平等」(Separate but equal)判決です。丁度、曾野氏の「差別でなく区別だ」という論法と同じです。 

しかし、その後、白人用の学校と黒人用の学校とに分けた教育委員会の措置をブラウン氏が憲法違反であると訴えた事件で、1954年、連邦最高裁判所(ウオーレン長官)が「分離すれども平等」の法理を否定して、「教育施設における人種分離」を憲法違反としたのです。これは公民権運動の画期的な勝利でした。

人種で分離するという発想自体が、人種差別の「エートス」に基づくものだと思います。ここで言う「エートス」とは、社会集団などの道徳的な慣習、ある社会の構成員の性格類型という意味です。曾野氏のようなエートスが、人種差別の温床だと言って良いように思います。

■曾野綾子氏を擁護する日本人が多いのに驚く

ところが、BLOGOS等のインターネット上の意見を見ると、曾野綾子氏のコラムを、人種差別ではないと擁護する日本人が多いのに驚かされます。 

そういう人たちは、アメリカやヨーロッパなどの外国に行ったとき、「日本人を含むアジア人は特定の区域に居住を制限する」と言われても、人種差別とは感じないのでしょうかねえ?そんなことを想像したこともないのでしょうか?

曾野綾子氏のコラムを人種差別ではないと主張する人の発想が、私には極めて不可解です。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月27日 (火)

人質事件で安倍首相を「言語道断」という国会議員に思う

ISIS(イスラム国)の日本人拉致人質殺害事件について、安倍首相の対応について批判した民主党や共産党の国会議員らが批判にさらされている。

産経新聞

http://www.sankei.com/politics/news/150127/plt1501270006-n1.html

民主党幹部も議員に「不規則発言をしないように」と注意しています。共産党の議員のツイッターに対しては、共産党の委員長でさえ不適切だと指摘しました。不適切との指摘に同意します。もっとも、共産党委員長の場合には、少し過剰反応かと思います。「議員本人がツイッタ~上でお詫びして削除しているのだから、結果的に適切に対応されている」とコメントすればよかったのにと思いますけどね。

確かに、今、このタイミングで、国会議員がISISのテロ=犯罪行為を利用して、安倍内閣を批判するのは、まさに「 為にする批判」という印象が強いと私も思います。単なる条件反射的反発です。

そもそも、問題の根っこは、小泉首相がイラク戦争の際に「米国の側につく」と高らかに宣言し、大規模な資金援助をし、さらにはイラクやインド洋に自衛隊派遣してきたことから、イスラム過激派から「米英」らと同列におかれて「敵」とされたことにあるわけです。安倍首相だけの問題でない。批判するなら、そこから批判しないといけないし、今は批判を理解してもらうタイミングではない。

今回、安倍首相がイスラエルなど中東を訪問するタイミングをねらって、ISISは人質による要求を出してきたわけですが、それは安倍首相のせいと言うよりも、テロ集団であるISISが自ら最大の効果を狙った結果です。

確かに、安倍首相が、この時期にアラブ諸国だけでなく世界から非難されているイスラエルに訪問して、ISISのテロと対決すると表明したことは、きちんと外交的に分析した上で問題を指摘すべきだと思います。

が、だからといって、この中東訪問が今回のISISの日本人人質事件の直接の原因になったとは言えないでしょう。実際、この訪問前に日本人は拉致されているのですから。ISISは、人質を利用する有効なタイミングを狙っていたわけで、遅かれ早かれ、安倍首相であろうとなかろうと、人質を利用した要求を出したでしょう。

また、政府は、現在、ヨルダンやトルコを通じて日本人解放の対策をとっていると思われます。事柄の性格上、水面下の交渉で内容もわかりませんが、経過が見えないからといって、「政府は何もやっていない」「口先だけだ」と断定する根拠はないと思います。

実際、ISISは、当初の2億ドルの非現実的な身代金要求から、ヨルダンが拘束する自爆テロ犯(死刑囚)との交換要求に変更しました。何らかの説得や交渉が反映していると見るのが素直な見方でしょう。まったく楽観はできないとはいえ、なんらかの交渉が進められて人質解放の望みはまだあるように見えますし、ぜひ、そう期待したいと思います。

米国は、この「身柄の交換自体もテロ犯に対する譲歩だ。禁じられるべき。」と言っています。しかし、米国自身は米軍捕虜と交換にタリバンの幹部を釈放しています。身勝手でしょう。日本政府としては、この米国の指示に屈せずに自国民保護の使命を果たすべきです。

ということで、この段階で、いかに安倍首相を政治的に嫌っていたとしても(私個人は安倍首相の政治スタンスには絶対反対ですが)、国会議員が上記の感情的な一方的なコメントをツイッターにながすことは、所属している政党としては迷惑な話でしょう。

単なる個人のツイッターや批判的ジャーナリストや識者であれば、批判はもちろん自由ですが、政党所属(しかも比例区選出)の国会議員という「組織人」である以上、慎重に検討してから意見をいうべきでしょう。「若さゆえの勢い」から批判したくなる気持ちはわかりますが。

もちろん、私も今回の事態に対して、日本政府のこれまでの外交方針を踏まえて批判すべき点が多々あると思いますが、それは今回の人質事件の推移を見てから批判しても遅くはないし、そのほうが適切だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月16日 (金)

シャルリー・エブド過激派テロ事件と「風刺画」に思う

このテロ事件とそれに対する世界の反応を見ると、つくづく複雑な問題だと思う。ヨーロッパ的価値観とイスラムの価値観がまったく異なるから。

 イスラム過激派によるテロに反対することを大前提としても、「表現の自由も限界があり、宗教的権威(特にイスラム教)を配慮して冒涜的な表現は自己規制すべきだ」との立場が日本などでは有力のようだ。イスラム教が偶像崇拝を禁止していることを考慮すれば、尚更だろう。

  この考え方は、私も良く理解できる。

 が、そうなれば、風刺画で「キリスト」への批判や揶揄も許されないことになるのでしょうか。

また、日本では「天皇批判」も許されないことになるのだろうか。昔、「爾臣民麦を食え。余はたらふく食ってるぞ」というプラカードが不敬罪に問われた事件がありました。天皇に対して宗教的敬意をもっている人もいます。これは、彼・彼女らの信仰を冒涜するということになり許されないのでしょうか?勲章を授与された歌手が、これを茶化すパフォーマンスも冒涜にあたり許されないのでしょうか。

 もしそうであれば、北朝鮮の指導者である金氏を冒涜・揶揄する映画も許されないのでしょうか。かの国では国家の尊厳をあらわす指導者とされています(われわれがどう思うかどうかはともかく)。これを暗殺するテーマの映画は、風刺を超えて、テロを推奨するものではないのでしょうか。

  金氏と、キリストやムハマンドのような宗教的権威と一緒にするのは非常識ですか。

 金氏と天皇ならどうでしょうか。天皇とキリストでは?

その区別の基準はどこにあるのでしょうか?

フランスでは、カソリック批判を通じて、個人の自由を確立してきた革命以来の伝統と歴史もあります。ここで自粛をすれば、テロ犯の意図が実現することにもなりかねない、という意見も頭をよぎります。

極めて難しい問題です。結論はなかなか出ません。価値観が異なる共同体間で、合意できるルールはあるのでしょうか。

 大学のころに聞いた「表現の自由の神髄を表す」という格言(?)

「私は君の意見には反対だが、君の意見を言う権利は命をかけて守る」

 表現の内容には賛成しないが、これを権力が禁止したり、過激派が暴力で圧殺したりすることには反対する。自らが転載するかどうかは各自の判断にゆだねられる、という常識線に落ち着く。

 なお、私のこのブログでは、シャルリー・エブドの風刺画は引用する必要がないし適切でもないと考えて引用しません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月 1日 (木)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。2014年を振り返りつつ、2015年の政治を展望します。(笑…にわか政治評論家)

■自分のブログの閲覧数トップ10

2014年のブログでの閲覧回数が多かったトップ10の記事は次のとおりでした。

 読書日記「絶望の裁判所」瀬木比呂志著

② 2013年司法試験と予備試験

③ 日本の労働時間-未だに長時間労働社会

④ 有期契約を理由とする不合理な労働条件の禁止(労働契約法20)

⑤ 読書日記「法服の王国」黒木亮著

⑥ 有期社員の差別是正を求める裁判提訴(労契法20条訴訟)

⑦ 改正労働契約法20条の活用と菅野説批判

⑧ 国家戦略特区-福岡市は「解雇規制緩和」特区を提案していた

⑨ 「悪いのは僕だけじゃない」-終戦の日に思ったこと

⑩ 「左翼小児病」

 

時事ネタでなく、①「絶望の裁判所」や⑤「法服の王国」の読書日記が上位なのが意外でした。

 

■2014年の五大ニュース

 私が考える2014年の重大ニュースは次の5つです。このインパクトが2015年に大きな影響をもたらすように思います。

  ウクライナ危機-ロシアのクリミア併合

 →ロシアの欧米との対立・ロシアの孤立

 イスラム国の勢力拡大

 →中東の不安定化・イランの存在感

 中国の南沙諸島への勢力拡大・東シナ海(尖閣諸島上空)の防空識別圏設定

 →中国の大国化=東アジア中国勢力圏化

 安倍内閣の集団的自衛権の解釈変更

 →「戦争ができる国」の体制整備

 安倍内閣の201412月総選挙勝利

 →政権安定基盤の獲得


中国は、南シナ海と東シナ海の勢力圏造りを強めています。

ロシアと欧米の対立が深まり、ロシアが反発を強めることは必至。

イスラム国勢力拡大で中東はより不安定化していくことでしょう。

結果的に、米国の世界への影響力が後退することになります。そこで、米国は日本との経済・軍事同盟(TPPと日米安保)をより強めたい。

安倍首相は、これを好機として、再び戦前のように国際舞台のメイン・プレイヤーとして登場したい。ところが、米国は安倍首相に期待したいけど彼の歴史修正主義に不安に思っている。

■2015年以後

今年は第2次世界大戦終結70周年。安倍首相は欧米から「歴史修正主義者」として警戒されています。安倍首相は、各国の第2次世界大戦終結記念行事に参加し、欧米の不安感を払拭することに躍起になるでしょう。それが成功するかどうか。

国内では、「アベノミクス」が効果をあげると見られるかどうかです。経済政策は「結果責任」であり、言い訳は通用しません。今年は「論争」ではなく、経済統計による「検証」が問われるでしょう。この数値結果が悪いと安倍首相は窮地におちいります。

安倍首相にとって、2015年は正念場でしょうねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年12月 9日 (火)

「より悪くない方」という政治選択基準の当否

大学生1年のとき、ゼミの指導教授が、「政治というのは、Less worthで良いのだ。best  を求めると悪い結果を招く」と言っていました。

若かった私は、「つまんない教授だなあ。理想をもとめないと意味が無いではないか」と思ったものです。でも、私も齢50をすぎる頃から、「より悪くない方を選ぶ」のは懸命な策だと理解するようになりました。
先日、東京新聞のコラムで、山口二郎教授が、「鼻をつまんで投票を」って書いていました。

自民党が圧勝する情勢の中で、嫌いな政党であっても、よりマシな政党に投票しようという呼びかけです。要するに、民主党ブレーンの山口教授は、「気にくわなくても、よりマシな民主党にいれてね」っていう意味なのでしょう。
もっとも民主党がよりマシかどうかが問題なのですが。
民主党の海江田党首がテレビ演説で「消費増税反対」とか「集団的自衛権の閣議決定撤回」とか言っても、どうしても「よく言うよ。野田政権のときに民主党が賛成したのに。」と思ってしまうので、よりマシとも思えない。

民主党が人気をとりもどすには民主党政権のふがいなさを忘れるだけの年月が必要なんでしょう。時間が解決するのを待つしかないのかもしれません。
でも「よりマシ」でなく、「より悪くない」の基準で考えると民主党は選択対象に含まれます。
そこで、主な選択肢は、民主党、又は維新の党、あるいは共産党かということになります。他に、次世代の党とか社民党とかありますが、候補者が少ないので検討対象外とします(他意はありませんので、あしからず)。
小選挙区制では比例区とちがって共産党は絶対に死票になりますので選択対象外。選択肢としては、民主党、あるいは維新の党ということになります。
「自民党か、維新の党か」という選択肢になると、私にとっては悩ましい正に究極の選択です。
私個人は、維新の党の橋下代表について「あまりに品性を欠く、最悪なポピュリスト政治家」と思っていますので、彼だけには国会や国政に対する影響力を持たせたくないと心底思っています。
そうなると、「より悪くない方」という基準で考えると、まだ自民党のほうがマシに思えてしまうので困っています。

維新の党でなく、自民党に入れるしかない? 
うーん。死票覚悟で共産党に入れるしかない? 
より悪くない方を選択するのも難しいですな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧