ロシアのウクライナ侵略とフィンランドの歴史と外交政策
読書日記「危機と人類」ジャレド・ダイアモンド著(2019年・日本経済新聞社刊)
危機にあたって国家はどう対応したのか、危機克服のためにどういう要素を考慮すべきかを、フィンランド、日本、チリ、インドネシア、ドイツ、オーストラリア、アメリカの歴史から考察した書物。今のウクライナは、過去の「フィンランドの対ソ危機」と同じ。歴史は繰り返すを地で行く。以下、私なりの要約。
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フィンランドは、1809年にロシア帝国に併合されて、1894年にニコライ二世の圧政下にはいった。1917年にロシア革命が起こるとフィンランドは独立宣言したが、国内で社会主義革命を目指す赤衛軍とドイツの支援を受けた保守派の白衛軍との内線となり、白衛軍が勝利して、その後は左派勢力が弾圧、虐殺された。
スターリンは1930年代末、ドイツの脅威に備えて、英仏ポーランドと防衛協力を申し出たが、これを拒絶されたため、1939年8月に独ソ不可侵条約を調印。同年10月、ソ連はフィンランドにソ連フィンランドの国境線の変更と海軍基地の設定を要求したが、これをフィンランドは拒絶し、同年11月から戦争が開始された(冬戦争)。スターリンはフィンランド民主共和国を設立させて、同国の防衛のためだと主張(今のロシアのウクライナ侵攻と一緒)。
当時、ソ連は人口1億7000万人、フィンランドは370万人。フィンランド軍と国民は圧倒的なソ連軍に良く戦ったが戦死者は10万人(人口の2.5%)。ソ連軍の陸軍の戦術は拙劣で多大な損害を出した。フィンランド人の死者1人当たり、ソ連兵8人が死んだ。他方で、英仏は援軍を送ると口では言いながら、まったく援軍を送らなかった。外国人義勇軍が1万5000人がフィンラドに味方した。結局は冷徹な軍事力の差には勝てず、フィンランドはわずか開戦半年後1940年3月に講和して、最初の条件より不利な条件をのまされた。
1941年6月にナチス・ドイツはソ連を攻撃し、同時にフィンランドはナチスと共にソ連に宣戦布告して占領されたカラリア州など奪還する。これを継続戦争という。当時は、フィンランドに苦戦したソ連軍は弱いと考えられ、ナチス・ドイツが勝利すると世界中が思っていた。でも、結局はソ連が勝利し、フィンランドはソ連と休戦協定を結んで同様の条件と多額の賠償金を支払うことになる。
そこで、1945年以後、フィンランドは、ソ連の逆鱗に触れないよう、でも独立と、自由と民主主義体制の維持と西側との関係維持という「綱渡り外交」をとった。他の西側からはソ連におもねる「フィンランド化」と揶揄されたが、フィンランドの歴史を見ればやむを得ない。
フィンランドのケッコネン大統領(任期1956年~81年)は、スターリンの思考は「イデオロギーでなく地政学的な戦略」であると喝破し、外交方針は「わが国の地政学的環境を支配する利害関係との折り合いをうまくつけること……予防外交であり、危険が間近にくる前に察知し、危険を回避する対策を講じること……国家は他国をあてにしてはいけない。戦争という高い代償を払って、フィンランドはそれを学んだ。……外交問題の解決にはさまざまな感情-好きとか嫌いとか-を混ぜ込む余裕はつゆほどもないことも学んだ。現実的な外交政策は、国益と国家間の力関係という国際政治の必須要素に対する認識に基づいて決定されるべきである。」
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日本は、第二次世界大戦に敗北したが、何を学んだのだろうか?アメリカの占領政策があまりにうまかったので、日本人は支配されているという感覚もなく、対米依存・従属のままで経済発展できた。そのため、ケッコネン大統領のような冷徹な認識に至らなかった。
だから、非武装中立が一番だとか、また、政府指導者らは今でも核兵器保有国(中国、北朝鮮、ロシア)に対して、日本も核武装・共有するとか、敵地を攻撃するとか、自国の地政学的環境を無視してお目出度いことを言うのではないか。
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