■中江兆民の「三酔人経綸問答」を再読する。
憲法9条改正に向けての国会発議が準備され、自民党内で憲法改正条項が具体的に提案されています。そのような今、中江兆民の「三酔人経綸問答」(岩波文庫・桑原武夫・島田虎次郎約)を再読しました。この本は明治20年(1887年)発刊された本で、なんと今から131年前です。この本の内容は次のとおり。
■非武装主義者の洋学紳士君
酔っ払いの「南海」先生の家に、二人の客が訪れます。
一人は、スマートで頭脳明晰な「洋学紳士」君。彼は西欧の立憲民主制度を理想と掲げる徹底した平和主義者(非武装中立主義者)です。
もう一人は、羽織袴の壮士の「豪傑」君。彼は、国権を強くし、欧米列強の侵略を防ぐためににアジア大陸を征服しようという軍事侵略主義者です。
洋学紳士君は、日本を民主平等にのっとる立憲主義国家とし、さらに陸海の軍備を撤廃して、無形の道議に立脚し、大いに学問を振興して、精緻に彫刻された芸術作品のような国とし、諸強国も敬愛して侵略するにしのびない国」にしようと主張します。
豪傑君が「もし凶暴な国がわが国を襲撃したらどうするか」と問うと、洋学紳士君は、「そんな凶暴な国は絶対ないと信ずる」(断じて斯くの如き兇暴國有ること無きを知る)。と述べ、もし万一撃たれたら「汝何ぞ無禮無義なるや、と。因って弾を受けて死せんのみ。」と何も抵抗せずに殺されれば良いと放言します。現在の護憲派・非武装主義者と一緒ですね。明治時代からこういう人たちがいたんです!
これを聞いて、豪傑君は、「君は狂っている」と大笑いします。
■実はニヒリストの豪傑君
豪傑君も面白い。
彼が言うには、一昔前(明治維新時)には「討ち死に主義」の武士が世の中に蔓延していた。そのとき「討ち死に」できなかった連中がたくさんまだ生き残っている。「奴らは西洋のフランス革命話しを聞いて、『これぞ我が死に場所』と自由民権に飛びついた。でも、こいつ
らの『討ち死に主義者』は社会の癌であり切除すべきである」と。
洋学紳士君が「馬鹿を言うな。人を癌のように切除できるか。」と言ったところ、豪傑君は「切除の方法はある。それが戦争だ。私のような古い社会の癌を中国に征服の先兵として出せば良い」というのです。まさに昭和維新の予言ですね。
■南海先生曰く 中庸的現実主義
南海先生曰く、紳士君の説に「まだ世の中で実現されていないところの、目もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの」といい、豪傑君の説には「今日ではもはや実行しえない政治的手品です」として、「どちらも現在の役に立つはずのものではない」と指摘します。
「紳士君の説は、全国の人民が一致協力しなければ実行できない。豪傑君の説は天子や宰相が独断専行するのでなければ実施できない。どちらも空の言葉と言わざるを得ない。」
そして、特に、洋学紳士君を次のように批判します。
紳士君の進化の思想は素晴らしい。しかし、「進化の神が憎むものは、その時、その場所において、けっして行い得ないことを行おうとすることにほかならない」と。
つまり、理想を語るあまり、現実の歴史的・社会的・経済的・政治的な条件を無視してできもしないことを述べることの愚かさを厳しく批判します。
さらに、南海先生は、豪傑君と洋学紳士君の両極論の病因は一つ。その病因とは「思いすごし」(過慮)であると言います。それは「今にも百、千の軍艦をもって攻めてくるにちがない」と思い込んでいるという意味です。もっと、国際関係と国家組織をリアルに考えれば、そう簡単に戦争は起こらない。もっと冷静に事実をリアルに見るべきだというのです。
2018年3月はじめの北朝鮮情勢の米朝首脳会談への劇的変化を見ると、「過度な思い込み」や「短慮」ではなく、冷静な事実分析が重要であることを証明していますね。
南海先生曰く、「戦争が起きるのは、実情ではなくデマからであり、戦争への恐怖(相手が攻めてくるという恐れ)というノイローゼによる。先んずれば人を制す、と自ずと開戦となる。これが古今東西の開戦の実情である」と。
■ 南海先生の結論
南海先生曰く
「要するに外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係をふかめ、万やむを得ないばあいになっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用をさけて、人民の重荷を軽くするよう尽力すること、これです。こちらがやたらに外交のノイローゼをおこさないかぎり、中国もまた、どうしてわれわれを敵視しましょうか。」
「よこしまな心であえて攻めてくるならば、我々はただ力のかぎり抵抗し、国民すべてが兵士となり、あるいは要害によって守り、あるいは不意を突いて進撃し、進み、退き、出、かくれ、予測もできなぬ変化を見せ、相手は不義、こちらは正義というので、わが将校や兵卒が敵愾心をいよいよ激しく燃やすならば、どうして防衛することができぬなどという道理がありましょう。」
「どうして紳士君の説のように、なんの抵抗も試みないで、殺されるのを待っている必要がありましょうか。どうして豪傑君のように隣国の恨みを買う必要がありましょうか」
最後、「洋学紳士君は北米に行き、豪傑君は上海に行った。」というところで終わります。 繰り返します。これは明治20年(1887年)に書かれた本です。
■「洋学紳士」は今の護憲派
上海に行った豪傑君は、昭和の主流派となり日中戦争・日米戦争に突っ走って自滅した。他方、洋学紳士君は、北米からマッカーサーとももに帰ってきて、憲法9条(軍備撤廃)の理想を入手した。まさに「恩寵の民権・平和」ですね
ちなみに、南海先生は「民権には『回復の民権』と『恩寵の民権』があると言っています。日本国憲法は、まさに「恩寵の民権」です。天皇からではなく、連合国とマッカーサーからの「恩寵」です。
洋学紳士君は、現代「非武装中立の自衛隊廃止論」の元祖で、まさに今の「護憲派・非武装主義者」です。この彼・彼女は明治時代から生息している方々なんですね。彼・彼女らは北米にわたっていましたが、マッカーサーとともに日本に帰ってきた「恩寵の民権・平和主義者」です。
■現代の「洋学豪傑君」
豪傑君は、さすがに、昔のままでは存在していません。
現代の豪傑君は、国際政治の現実主義者として、日本こそ、超大国アメリカの同盟国として軍事的な役割を担い、強大な独裁国家である中国に対抗し、日本が依存する米国中心の世界利権構造を維持しようと主張しています。それが「自由と民主主義」を守る崇高な闘いだと。今や壮士風の豪傑君は、「洋学豪傑君」になっています。ただし、中には人権も平等も嫌いな「古い豪傑君」も混じっているようですが…。
しかし、もはや古い豪傑君は少数派であり、多くは「洋学豪傑君」に進化しています。しかも男だけではなく、美人国際政治学者の三浦瑠麗嬢や麗しい大和撫子の桜井よし子女史のようなたおやかな女性も多数参加されています。豪傑君側の女性進出は男女平等の観点からは喜ばしい限りです。
■未だに「三酔人経綸問答」の枠内にある憲法9条論争
集団的自衛権を担う軍事主義の「洋学豪傑君」でもなく、非現実的な非武装主義の「洋学紳士君」でもなく、南海先生が言うように次のような憲法であれば理想ですね。
主権国家として、国連の集団的安全保障を自主的に担う用意もある専守防衛戦力を有し、外国の軍事基地を我が国土に置かせず、世界のどの国とも友好関係を深め、学術・芸術を高めて、国民の自由と福祉の向上をはかる民主共和制を定めた新しい日本国憲法
ただし、このような私の理想は、やはり新たな「洋学紳士」なのでしょう。現在の改憲発議構想は、「洋学豪傑君の憲法」を作るものです。
結局、現在の日本においては、国民の意識や歴史的、政治的、経済的条件からみて、私の理想はあくまで「瑞雲の彼方のまぼろし」でしかないでしょう。
最近のコメント