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2016年12月30日 (金)

映画「この世界の片隅に」-韓国からの批判に思う

■「この世界の片隅に」

一回観て、その後、原作マンガ本を読んで二回目を若い友人たちと一緒に観にいきました。良い映画だと思いました。反戦プロパガンダ映画ではなく、テーマをストレートに主張はしないが、その分、いまの日本人にも受け入れられやすく、先の戦争の意味を深く考えるきっかけになるアニメ映画だと思いました。
今後、10年、30年に残る名作だと思います。


■日本の侵略性を描かない「この世界の片隅に」という批判

ところで、韓国の人から「この世界の片隅に」については、日本の侵略と加害責任を描かず、侵略を支えた側にいるヒロインの「すず」を被害者としてのみ描くのはおかしいとの批判がなされているようです。
確かに、この映画は、日本の加害責任を直接的に描いていないために、当初から中国や韓国では受け入れられないだろう指摘する日本人もいました。


■ 「はだしのゲン」との比較
衆目の一致する反戦漫画「はだしのゲン」(私はアニメは観ていない)も、当初、中国・韓国から<被爆者の被害者性だけを延々を描いて、軍都でもあった広島の侵略と加害の責任を描いていない>と批判されたという。
そこで、途中から侵略・加害の責任を強調するように描いた。これは原作者の中沢氏がイ
ンタビューで「批判に答えて修正した」と述べていたのを読んだ覚えがある。
ゲンの場合は、父親が反戦思想をもった人だったから、そういうストーリーになるが、当時の一般的な人はまったく異なっている。学校に行かず18歳で嫁に行く「すず」に反戦思想を持て、といっても無理があるように思います。ただ、監督は、あとに指摘するように、側面からそれを描いています。


■ 「火垂るの墓」との比較


もう一つ、代表的な反戦アニメといわれる高畑勲の映画「火垂るの墓」(野坂昭如の原作本は読んでいない)に対して、宮崎駿が「嘘つき映画だ」と痛烈に批判していました。


なぜなら、主人公の兄妹の父親が映画では駆逐艦の艦長という設定だった。艦長なら海軍兵学校出のエリート海軍士官で、その家族を「海兵」の同期が放っておくはずはない、生き残った子供が路頭にまよって餓死することなんかありえないと、宮崎は指摘する。宮崎駿の実家は、飛行機軍需工場だったから戦前日本の軍人をよく知っているから、これあありえない設定だと言っていた。
この「火垂るの墓」も、まったく日本の侵略と加害の責任を語っていない映画だった。しかも、宮崎駿が指摘するような「うそっぱち」を含んだアニメでもある。にもかかわらず、これが反戦映画(右派から見ると、「はだしのゲン」と同じく「反日」映画だそうだ。)として通用している。
だが、韓国や中国の人々から見れば、この高畑勲のアニメも、大日本帝國海軍士官(艦長)の子供らの被害者性のみを強調する映画であり、加害と侵略の責任をうやむやにする映画であると批判することだろう。確かに、被害者としては、このように批判するのは、けだし当然である。そこは素直に認めるべきであろう。

■ 「この世界の片隅に」での「太極旗」が描かれる意味

他方、「この世界の片隅で」は、『火垂るの墓』とちがって、朝鮮半島への侵略を指摘しているアニメです。それは。映画の中で、玉音放送後に、『太極旗』(朝鮮独立の旗)が呉市内に掲げられて、たなびくからです。そのとき、すずは「なんで暴力に屈するのか、まだまだ戦える」と言いながら、「そうか、日本は暴力で従えとっただけか。それがうちらの国の正体かえ。」と独白する。ここでは、日本が朝鮮半島を暴力的に支配してきたことが示唆されています。
でも、韓国や中国の人々にとっては、この程度のあやふやな、あいまいな描き方では不十分であり、加害責任をぼやかしていると思うのでしょう。
現に、日本人でも、この場面に気づいても、その意味がわかる人間が少ないらしい。なかには「朝鮮」進駐軍が呉市内を占領して暴虐を尽くしたことに対する抗議の意味だと誤解(曲解)するトンデモ日本人までいるんだそうだ(ほとんど「妄想」の部類)。
ただ、このあたりは韓国との文化の違いという側面もあると思う。ストレートに伝えないのが日本映画の作風だから、韓国や中国の人には理解が困難で、あいまいでうやむやにしていると思うのかもしれない。
例えば、映画中で、「すず」が妊娠したと思ったが、間違いだったというエピソードがある。妊娠は間違いということが間接的で瞬間的にしか描かれない。それなので、今時の日本の若者は理解できずに、映画の最後に出てくる女の子は、すずの子供かって、誤解する人もいるらしい。

■ 日本の侵略と、アジア諸国民の被害と、日本人の被害


被爆の悲惨な状況は、二例が描かれるだけ(救護所のわきに座り込む黒い被爆者、ガラスの破片が刺さり右腕を失った母親につれられた女の子。その母親はうじがわいて死亡)。
また、すずの妹は、二次被爆して寝込んでいる。彼女の腕に「あざ」ができているが、これは原爆症で死亡することを示唆しているが、はっきり描かれないから、今の若者は解説がないと理解できないらしい(「夕凪の街、桜の国」はまさに、このストーリー)。
これらの悲惨な被害実態も、抑制的に描かれているが、それでも侵略と加害の責任を明示的に懺悔してからではないと、韓国人や中国人からは「被害者ヅラをして」と批判を免れないことになるようだ。


■ 両国の庶民レベルの和解は可能か


周恩来は、戦争責任について、戦争指導部の軍人や政治家と、日本の一般人民を区別し、後者は、前者の軍国主義者の犠牲者でもあると述べた。周恩来の高い道徳性と政治家としてのふところの深さには感銘をうける。
しかし、このような情理を踏まえた理性的な考えが多数派になることはないようだ。

日本の侵略性の指摘とその認識が甘いとの批判は当然だとしても、どのような場面でも、誰であろうと、同じパターンでそれを繰り返すのは、両者の和解のハードルを高くすることになるおそれがある。日本の侵略性を認める日本人でさえ、「またか」って思ってしまう。
また、批判の仕方としても、もうすこし工夫があっても良いだろう。

日本の庶民の被害を、(加害者だと先に非難しないて)、国がちがっても同じ庶民として戦争の被害の痛みに共感しつつ、さらにひどい被害が朝鮮半島やアジア諸国でもあったことを、同じ「この世界の片隅み」の出来事なんだと指摘する手法のほうが日本人の共感も呼び、将来の和解に繋がるように思うのだが。

すずも軍人も一緒くたにして、加害者側とストレートに批判することで、その批判者が得るものはなんだろう。ストレートに日本を批判したという自己満足なのだろうか、韓国内に対する、厳しく日本の加害責任を追及しているという自己証明(あるいは、アピール)なのだろうか。

■ 日本の侵略と加害と日本人の被害について


日本の「侵略と加害の責任」と日本の一般人の「戦争被害」と、アジア諸国の被害を、全体的に、統一的に描くことは映画でも小説でも極めて難しい。大岡昇平が「レイテ戦記」で試みたが、日本人に広く伝わったとも思えない。
唯一成功したのは、『人間の條件』(五味川純平原作)という古い白黒長編映画だと私は思うが、この作品もきっと韓国人や中国人からすれば、主人公である「梶」という日本人を理想化・英雄化しすぎているとか、梶の妻が日本敗戦後に中国人の暴徒に乱暴されるような描写があることが非難されるかもしれない。また映画として、韓国人からは『容共』的、中国からは『親ソ』的だと政治的な非難を受けるかもしれない。
日本の「侵略・加害」と「日本人の戦争被害」の理解を深め、その上で、アジア諸国との「和解」に繋がることはまだまだ難しい。情理に基づく、理性的な和解はもはや困難なのでしょうか。今後、100年、200年の時の経過をまつしかないのでしょうか。
もはや、現時点では、外交や安全保障体制の駆け引きの「カード」として使われるという不幸な事態になってしまった。

やはり、昭和天皇の在位中、戦争を知る世代が、アジア諸国に謝罪し、和解を果たすべきだったのでしょう。それをしなかった戦中派の罪は重いと思います。

私は、英米をはじめとした欧米諸国とは日本は五分と五分の帝国主義戦争を行ったのであり、道徳的には五分五分(欧米も日本も双方「悪」)なのですから、先発帝国主義である欧米が自らの帝国主義征服戦争と植民地支配を「悪」と認めて謝罪しない以上、日本が一方的に欧米に謝罪する必要はないと思います。

しかし、アジアに対しては、日本は100%の侵略をしたのであり(帝国主義戦争と植民地支配)、アジア諸国民に対して真摯に謝罪することは当然だと思っています。


【追記 2017年1月3日】
原作と映画の違いですが、うろ覚えで記載ましたが、実際は次ぎのとおりだと下記ブログで指摘されています。

http://ichigan411.hatenablog.com/entry/2016/11/16/235307
【原作】こうの史代著

 

(玉音放送を聞き終わって)

 

「最後のひとりまでたたかうんじゃなかったんかね」

「いまここへまだ五人も居るのに」

「まだ左手も両足も残っとるのに」

「うちはこんなん納得出来ん!!」

 

「‥晴美‥晴美‥。」(義姉が死んだ娘の名を呼び泣いている)

 

(ここで太極旗が翻る)『 』は、すずの独白

 

『暴力で従えとったという事か』

『じゃけん暴力に屈するいう事かね』

『それがこの国の正体かね』

『うちも知らんまま死にたかったなあ‥』

 

(すず 慟哭)

【映画】シナリオ本から

すずの独白部分を、次のとおり変更。

『海の向こうから来たお米、‥ 大豆、そんなそんでできとるじゃろうなあ、うちは。』

じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね』


この改変は、監督によれば、すずの日常のリアリティを追求した結果の自然な言葉だそうだ。この独白の変更の監督の「意図」をさぐるのも興味深いです。


それはさておき
、上記の変更でも、上記した私のブログの趣旨を変更する必要はないと思います。被害者側から見たら、加害責任があいまいだという批判は、批判として正当だからです。ただ批判の仕方を間違えると、「和解」が遠のくのではないかというのが趣旨ですから。


もっとも、被害者の最初の心情は、「和解」を望んでおらず、加害者が厳しく罰せられることを望むのが普通です。その心情自体は、常に自然な感情です。私が弁護士として、被疑者・被告人の弁護人として、被害者への謝罪や示談をする際に必ず直面する事態です。ですから、そのような心情を責めることはできません。

こういう韓国からの批判も考えられるという意味でも、このアニメ映画は名作だといえます。

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