読書日記 『テロ』フェルディナント・フォン・シーラッハ著
2016年7月東京創元社出版
2016年9月読了
朝日新聞の書評欄に掲載されていました。著者は、ドイツ人の刑事弁護士だそうだ。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12565099.html
■少数を犠牲にした少佐は有罪か
法廷に立った被告人は、ドイツ連邦空軍のラース・コッホ少佐。戦闘機パイロットの彼は、ドイツ上空でテロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜し、乗客164人を死なせた罪に問われた。だが、テロリストは、旅客機を7万人収容のサッカースタジアムに墜落させようとしていた。7万人を救うために164人を犠牲にする判断だった。撃墜命令が出ていないのに個人の判断で撃墜した少佐の行為は有罪か無罪か。この戯曲の読者、劇の観客が結審後にどちらかを決める体裁で、二通りの判決文が用意されている。
■ドイツ刑法の特色
この本(戯曲)の展開の前提が二つあります。特に、日本刑法のような緊急避難条項(刑法37条)がドイツ刑法にはないことが重要です。
第1点は、ドイツでは航空安全法にて、ハイジャックされた民間飛行機がテロの道具とされた場合にはドイツ国防大臣の命令によって乗客が乗っていても飛行機を撃墜しても良いと改正された。しかし、ドイツ憲法裁判所は、この航空安全法の規定を、無辜の人を救うためとはいえ他の無辜の人を殺す規定であり、ドイツ基本法(憲法)が定める「人間の尊厳」に反して違憲と判断したこと。
第2点は、ドイツ刑法の違法性阻却規定は、「正当防衛」と「緊急救助」しかなく、ドイツの「緊急救助」とは、自己又は親族のために行う緊急避難しか認めないということです。
ですから、戦闘機パイロットは、ドイツ刑法では、自己の親族のために旅客機を撃墜すれば処罰されないが、第三者のために撃墜した場合には、ドイツの緊急救助規定は適用されない。
そこで、ドイツでは、戦闘機パイロットの撃墜行為が乗客乗員164人に対する殺人罪に該当するのか、超法規的違法性阻却事由が認められるかが法的に問題になるわけです。
■有罪を訴える検察官は、
皆のモラルや良心は揺れ動くものであり、個人のモラルや良心によるのではなく、憲法を優先して判断すべきであると弁論します。「憲法が『人間の尊厳は不可侵である』と定めている以上、人間の生命を道具や手段として扱ってはいけない。乗客や乗員の努力でハイジャック犯を倒せた可能性も否定できない。何人も無辜の生命を一方的に決定して奪うことは許されない。国防大臣の命に反して旅客機を撃墜する行為は,殺人罪であると。
■無罪を訴える弁護人は、
「憲法裁判所はテロリストに負けた」と批判します。この撃墜行為が許されないとなれば、テロリストは旅客機をハイジャックしてテロを実行することになる。ドイツの警察や軍隊は手も足も出ないわけであるから。有罪とすれば我々の生命を脅威にさらすことになる。より大きな悪を防ぐためにより小さな悪を選択すべきだ。確かに、乗客の尊厳を損なうかもしれない。しかし、私たちが選んだわけではないが、私たちは戦時下にいるのだ。戦争には犠牲がつきものなのだ。
■日本の緊急避難(刑法37条)によれば、
日本の刑法37条1項本文は、次のように定めています。
「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」
これを上記事案に適用すれば、他人の生命、身体の現在の危難を避けるために、やむを得ずした行為(撃墜行為)は、164人の生命を犠牲にしたが、7万人の生命を助けるためだから処罰されないことになります。
日本の刑法を適用すれば、ドイツの戦闘機パイロットの行為は、違法性が阻却されて、無罪となります。
日本では、ドイツのような法哲学的かつ憲法学的な法的論点は生じない。日本の刑法37条は、英米法的な功利主義に立脚しているのようだ。ドイツ的なカント道徳論とはだいぶ異なる。
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