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2016年8月 7日 (日)

映画評「シン・ゴジラ」

庵野秀明監督・脚本の「シン・ゴジラ」を観ました。


お見事!

 
というしかない。

同年代(50~60歳台)のオヤジ世代には、是非、大画面の映画館でごらんになることをお勧めします。

詳しいストーリーは省略、以下ネタバレの感想です。映画未見の方は読む前に映画館でご覧ください。

***ネタバレ感想*********************
この映画で、何よりも面白い点は「福島第一原発事故」の実際の展開を踏まえて展開するという点です。


一種の「政治的パロディ 怪獣映画」です。

けっして、「怪獣」(ゴジラ)が主役ではなく、ゴジラは想定外で未曾有の危機の象徴であり、それが出現したとき、現実の今生きている日本人(政府や官僚や国民)がどのように対応するかという局面こそ庵野監督が描きたかった物語でしょう。

まさに、ゴジラは「荒ぶる神」であり、「荒ぶる原発」の象徴です。

原発事故の対応に追われる首相や官邸サイドの動き、御用学者の発言、政治家や官僚組織の右往左往、自衛隊や消防隊、現場の協力業者などの動きをもとにして、本作で描いているとしか思えません。

だから、ゴジラが通過した後の被災映像はすべて既視感があります。船を巻き込みながら川を遡上する津波、がれきだらけになった街中。

このような映画シーンは、津波被災と福島第一原発事故被災をうつしたテレビ映像そのままです。首相や閣僚が着ている各省の防災服、対策本部での会議室の様子も、福島第一原発事故の様子そのままです。

ゴジラ対策を練る閣僚会議や政府高官の会議、官僚の会議がパロディとなって、その日本的な風景に苦笑(爆笑)せざるをえない。官僚組織の動き方など、福島第一原発事故の事態どおりであり、まさにそうだったなあと思わせます。

自衛隊の対ゴジラ出動も、「治安出動なのか、防衛出動になるのか」を官僚と閣僚が法律に基づき議論します。結局、「有害動物駆除」として総理大臣が「防衛出動」を命じるなんてストーリーが面白い。いかにも日本的な「官僚内閣制」です。

自衛隊が出動してゴジラ攻撃を実行するシーンでは、初回ゴジラ作品と同じ「ゴジラのテーマ音楽」が流れるのも良い。
ちなみに、初回ゴジラは1954年放映だが、同じく1954年に自衛隊が設立されている(それまでは、警察予備隊、保安隊)。自衛隊の戦車や戦闘機がゴジラを攻撃していた。シン・ゴジラでも、自衛隊が最新鋭部隊がゴジラを攻撃するが、当然、通常兵器ではまったく効果なし。

「想定外なんで、よくあることだ。」「ゴジラが上陸するのなんて絶対あり得ない。」と発言をしていた首相をはじめとした古手の閣僚が乗ったヘリコプターが、ゴジラに一瞬で破壊され、あっけなく全員死亡。

さらにシン・ゴジラで面白かったのは、ゴジラ対策に米国・米軍が介入してくる点です。

福島第一原発事故の際に、メルトダウンし4つの原発がすべてコントロールできなくなった場合には、米軍が介入するという話が現実にあった。米国は官邸に米軍を常駐させるように要請し、これを菅総理は断っている。東京全避難になっていたら、米国人・米大使館保護のため在日米軍の介入は必至だった(菅総理談)。
ということで、映画では、ゴジラへの自衛隊の攻撃が失敗し、米軍が東京の核攻撃を決定し、国連安保理も承認し、対ゴジラ多国籍軍が編成される。日本政府は、米国には逆らえないって承諾してしまう。

さて、東京は、日本はどうなる?

 
首相ら主要閣僚が死亡した後、「昼行灯」のような老政治家が、やむなく総理大臣を押しつけられ、アメリカにもたてつけない。


彼は「まあ がんばってね。しょせんわしが責任とらされるから」って言うかのように若手の政治家や官僚にあとの対策を委ねる。


その若手らが民間企業と協力しながら活躍。エンタテイメント映画としての壺もおさえています。

最後は、福島第一原発事故の「使用済み燃料プール」への放水場面そのままのような、自衛隊と民間業者の共同作戦が最大のヤマ場。超速いテンポでの場面展開で、ついてけない人もいそうです。

完璧なエンターテイメント映画です。見終わった後に隣に座っていた若い男の観客が「まるでエヴァだなあ」とつぶやいていました。確かに映像が庵野監督のアニメ「エヴァンゲリオン」に似ているという評も多いようですが、それはどうでもよいように思います(映像としてはゴジラは素晴らしくかっこいい)。

何より本映画の特徴は、ゴジラのような想定外の物事が起こったとき、右往左往する日本政府(と日本人)に対する諦観と痛烈なパロディでもあり、それでも日本人は日本人のままなんとかするしかないし、なんとかできるという楽天的なメッセージもあります。そうしないとエンターテイメントになりませんから。

この映画は、福島第一意原発事故をふまえて、日本人の政府や組織の会議や対応をリアルに描いています。ですから、子どもや外国人には、この映画の面白さはおそらく理解し難いでしょう。他方、組織に属する日本のオヤジたちは思い当たる点が、多々あり微苦笑できます。

最後に、ネタバレついでに言えば、ニコリともしない常にクールな「理系女」の環境省女性技官のラストの表情が印象深いです。

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2016年8月 6日 (土)

ヘイト本と出版の自由-出版労連シンポジウム

 さる7月30日に、出版労連が主催したヘイト本を考えるシンポジウムにパネラーとして参加しました。

http://www.labornetjp.org/news/2016/1469979721323left

ヘイトスピーチ出版、いわゆる「ヘイト本」(例えば「そうだ難民しよう! 」はすみとしこ著・青林堂)について出版人の良心を問うという企画でした。

私は法律家として、コメントするという立場で参加。

あらためてヘイトスピーチの国際人権法について諸岡康子弁護士の「ヘイトスピートとは何か」(岩波新書)を読みなおしました。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1312/sin_k743.html

■ヘイトスピーチ解消推進法の成立

 正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」と言います。具体的な規制は盛り込まていない「理念法」ですが、外国人に
対する不当な差別的言動の定義を次のように定めます。

「①差別的意識を助長し又は誘発する目的で、②外国の出身であることを理由として、③公然と、④生命などに危害を加える旨を告知し又は著しく侮蔑するなど、地域社会か
ら排除することを扇動するもの」

 問題を抱える法律とはいえ、ヘイトスピーチ解消推進法が成立したことは最初の大きな一歩前進です。

 この法律も次の国際条約をもとにしたものです。

●国際自由権規約第20条2項
 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」
この国際自由権規約を日本は、1979年に日本は批准してます。

●人種差別撤廃条約
第1条1項
 
 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをい
う。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。


  (a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪
であることを宣言すること。

  (b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

  (c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 この人種差別撤廃条約については、日本は、1995年に第4条(a) (b)を留保した上で批准しています。留保とは、上記(a)(b)処罰規定については排除又は変更するという留保条項です。

■人種差別条約ではなく、人種「的/等」差別条約

 人種差別撤廃条約の第1条の定義だと、「人種」だけでなく、世系、民族的、種族的出身も含まれるので、本来は人種的ないし人種等差別条約と訳したほうが良いです。日本人と韓国・朝鮮人は人種は一種ですが、民族的には異なるので、同条約が適用されます。

■ヘイトスピーチの定義が不明確かつ広範囲

 人種差別は、けっして許されないが、すべて処罰することは表現の自由を侵害するのではないか。これが問題です。「ヘイトスピーチ」、「人種差別的表現」、「人種的憎悪をあおる宣伝」、「民衆扇動をして人間の尊厳を侵害する表現」とか言っても、あやふやな定義でしかありません。

 中国や北朝鮮の軍事的膨張主義、あるは米国の帝国主義的軍事介入主義を批判することが、人種的差別表現として規制されるかもしれません。

 笑い事ではなく、諸岡康子弁護士の岩波新書では、このような濫用的事例が報告されてます。


■ドイツの濫用事例



 ドイツでは、ドイツ刑法130条1項にて「公共の平穏を乱す態様で憎悪をかき立てるなど他人の人間の尊厳を攻撃する行為」を禁止してます(民集煽動罪)。
 1991年、ドイツの平和運動家が、湾岸戦争へのドイツ軍派兵反対運動として、「兵士は人殺しだ」というステッカーを貼った行為が、民集煽動罪で起訴されたという。

 1994年、ドイツ連邦通常裁判所で被告人は無罪となった。ただ、ドイツの裁判所の判断は「ドイツ連邦軍兵士は人殺しだとの表現は130条1項該当するが、兵士は人殺しとの
表現は該当しない。」とうものであった。


■トルコの濫用事例


 クルド人女性弁護士が軍によるクルド人女性へのトルコの蹂躙を批判したところ、その発言が「人種的憎悪の扇動を禁止する法律」違反するとして有罪とされた。

■ヘイトスピーチは表現の自由か

 そもそもヘイトスピーチは表現の自由に含まれないという立論をする人がいます。しかし、あまりに単細胞の発想です。ドイツやトルコの濫用事例を見れば一目瞭然でしょう。日本でも、共産党が自衛隊予算を「人殺し予算」と発言しました。ドイツでは、この発言が民集煽動罪で有罪になりかねないということになります。日本で、この規定があれば、自民党政府はよろんごで共産党の発言者を刑事訴追したことでしょう。

 ですから、ヘイトスピーチに対する規制は必要ですが、その規制方法と程度は慎重に検討しなければなりません。
 
■法律家としては

 立憲主義を尊重する法律家としては、ヘイトスピーチ規制の目的は」正当であり、今や日本ではその必要があると考えますが、その規制手段と規制の程度は慎重に検討しな
ければならないと思います

 国連の人種差別撤廃委員会も、すべてのヘイトスピーチに処罰規定を設けろと言ってるのではなく、次の三段階に分けています。
 最悪レベルは「犯罪として処罰」(刑事規制)、悪質レベルは、「民事・行政的規制」、法違反ではないが「憂慮すべき表現」として社会的に非難するレベルです(ヘイト スピーチに関する一般的勧告35・2013年、ラバト行動計画・2013年 上記諸岡康子著書)。
 出版については、外国人などに暴力によって危害を加えるよう扇動する以外には、どんな内容でも法的な出版禁止などは設けるべきではないでしょう。やhり言論には言論にて対抗するのが原則です。


 こういうと、「お前は被害者の心の傷をわからないのか」とか「ヘイトの被害者には表現の自由がない」とか「いまだにヘイトスピーチを表現の自由に含まれるというお前はレベルが低い」とかのお叱りを受けます。


http://www.magazine9.jp/article/biboroku/29674/

 弁護士は、刑事事件の被告人を弁護するときには、「被害者の人権を否定するのか」とか、「被害者の気持ちを考えろ」とか非難されます。でも、法律家としては、加害者がどんなにひどい悪辣非道な犯罪者であっても、適正手続や表現の自由を保障する「法の支配」を否定することはできません。バランスが必要です。

■ヘイト規制を声高に言う人は政治権力を信頼しているのか

 ヘイトを刑事規制をしろと声高に言う人はおそらく政治権力や司法や捜査機関を信頼しているのでしょう。

 しかし、私は、日本の政治権力や捜査機関を、長年の弁護士経験からして、まったく信用していません。唯一信用できるのは、司法手続が公開されて世論の批判をうけるシステムがあることだけです。裁判官を信用してるわけではありませんが、司法手続と判決や決定が公開されていることは、表現の自由が保障されている限りまだ信用できると思います。
 
 何よりも日本は、戦前支配層の流れをくむ保守政治が長く続いてきています。

 中には未だに、「国民主権、基本的人権保障、平和主義を捨てなければ日本は独立国家になれない」とか「日本は天皇を中心とした神の国だ」とかを唱える自民党政治家や日本会議のトップの元最高裁長官がいます。彼ら彼女らが、これを本当に信じているなら、まさに民族主義の狂信主義といってもよいでしょう。欧米的な基準からすれば、小池百合子氏も、稲田朋美氏もネオナチばりの歴史修正主義者であり、右翼民族主義者にほかなりません。しかも核武装論者です。


 そんな日本に、ヘイトスピーチの刑事処罰法を導入すれば、捜査機関を使って政府の気にくわない言論をヘイトスピーチとして弾圧を加えるあらたな方策を政治権力に与えるだけです。

 なぜ、リベラルと言われる人たちがヘイトスピーチ刑事処罰法を導入しよとしているのか、私は理解に苦しみます。

 これからの将来、共産党独裁の中国の台頭や混乱、日本の経済的地位低下を考えれば、日本人が右傾化していくのは不可避で、それは歴史的必然でしょう(古今東西の歴史が人間とはそういう傾向があることを証明している)。このような情勢の中で、リベラル派がヘイトスピーチ刑事規制を求めることは、敵に塩を送り、自らの首をしめるようなものでしょう。

■ではどうするか

 私は、政府や行政から独立した「人種的差別撤廃委員会」を設置して、行政的規制(ヘイトスピーチへの警告、勧告、違反者への公表。例えば、大阪市条例のような法律)、そして、被害者に代わって裁判所に事前差し止めや損害賠償を訴える権限を付与するようにしたらよいと思います。労働委員会のような委員会ですね。

 どうしても、刑事規制をするとしたら、公務員(議員、候補者、自治体首長を含む)の不当な人種差別的言動を処罰する犯罪類型を設けること、また、人種的差別を目的とする傷害、殺人、威力業務妨害について刑罰加重規定を設けることは検討にすべきだと思います。


参照:日弁連の人種差別撤廃に向けた取り組みの意見書
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150507_2.pdf

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