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2015年9月23日 (水)

素人の懸念「平和安全法制」は日本の安全保障を高めるのか?  -「抑止力」のもたらす帰結

■「平和安全法制」が成立した。

法律としては「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」の二つ。前者は自衛隊法などまとめて10本の法律をいっぺんに改正するもの。

この安保法制法律が憲法9条に違反することは、法律論としては決着済みです。これを合憲とする法論理はありえません。法律解釈は文理解釈が基本です。個別的自衛権を認めて自衛隊を合憲とするのも文理解釈上、無理に無理を重ねるものです。さらに集団的自衛権まで認めるのは、法解釈としては不可能です。

保守的で有名だった元最高裁長官や元判事、元内閣法制局長官まで「違憲である」と明言するのは極めて異例なことです。これを合憲とする論者は、法解釈ではなく政治論を述べているに過ぎません。今の内閣法制局長官は「法匪」でしょう。

■安全保障の専門家

この「平和安全法制」を許容する<論理>は、要するに「わが国の安全が脅威に直面している以上、憲法9条の解釈よりも、国家の安全と独立を維持することを優先すべき」という政治論です。

有り体に言えば、安倍政権や集団的自衛権を支持する国際政治学者らは、「憲法9条を守って国が滅んでどうするのか。憲法学者には国は守れん。」というわけです。

しかし、国家の安全保障について、玄人にまかせて道を誤った例は、古今東西にわたり繰り返されてきた事柄です。日本人も今から70年前に思い知ったはずです。だから、素人が疑問や批判をすることは当然であり、かえって専門家や玄人こそ、素人の素朴な疑問に答える責任があるはずです。これが立憲民主主義の考え方ですから。

■中西寛教授のインタビューを読んで

安全保障の「玄人」の代表として中西寛教授が朝日新聞で「日本の安全保障の環境変化」について語っていました。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11977214.html

中西教授は、要するに「米国の国力後退による多極化と中国の台頭」という二点を強調します。確かにこの二点が最近の顕著な変化です。

中国は、明確に軍事的プレゼンスを強めており、南シナ海ばかりか、太平洋まで海軍力を強化しようとしています。アメリカからの干渉を排除するアジア地域の勢力圏を確立しようとしています。そのためにはアメリカとの衝突は避けながらも、ベトナムやフィリピンなどの小国との軍事的衝突は意に介さないように見えます。中国の覇権主義の台頭です。

■グローバル経済と「平和」

中国の経済成長は著しく、それだけでなく日本にとって中国は米国以上の貿易相手国となり、中国経済がなくては日本経済自体が立ちゆきません。米国も同様であり、中国にとっても日米欧との経済関係が破綻すれば、共産党支配自体が瓦解するでしょう。

まさにグローバル経済です。 これが米ソ冷戦時代と大きく異なる点です。平和を維持した方が、双方利益を得る場合には、戦争を回避しようとするものです。米ソ冷戦時代には、資本主義経済圏と社会主義経済圏は別れており、世界市場のグローバル経済にはなっていませんでした。お互い相手が消滅しても別に経済的には大打撃ではなかったでしょう。

中西教授はインタビューで、このグローバル経済の進展を「環境変化」としていません。しかし、このグローバル経済の要素は現代の平和維持のために重要な考慮要素と思われます。

■素人が考える安全保障上の脅威

素人でも想定できる日本の安全保障問題は、①中国との尖閣諸島軍事衝突、②北朝鮮との朝鮮戦争、③南シナ海での中国との衝突、④中東やアフリカへの自衛隊派遣です。


① 尖閣諸島の日中軍事衝突

尖閣諸島を中国が武力で攻める事態に備えるべきだとよく言われています。確かに、尖閣諸島での領土紛争が軍事衝突に発展する可能性があります。特に中国の挑発的な軍事対応や偶発的な軍事衝突はあり得ます。


ただし、これは日本領土内への進攻の話しですから、個別的自衛権の行使の問題であり、当然、日米安全保障条約が対応する問題です。

自民党の石破氏らは、日本の自衛隊が米軍のために血を流す覚悟をしない限り、米軍が尖閣諸島を守るために出動しないと言っていました。しかし、もし中国が尖閣諸島に軍事侵攻した場合に、在日米軍が動かないとしたら、世界中で米国の威信は失われます。ウクライナならまだしも、これだけ日本に米軍を配置しながら中国の軍事侵攻を傍観したとなったら、欧州諸国の信頼を失い、ひいては日米安保条約体制を失うことになりかねません。

他方、中国も今尖閣諸島で日本と軍事衝突して、日米と事を構えることは経済的にみても政治的にみても大損するだけで、何の利益も得ないことはわかるでしょう。中国が今、そのような行動をとる可能性は低い。

ですから、尖閣諸島危機に備えて今回の集団的自衛権を含む安保法制が必要だというのは理解に苦しみます。尖閣諸島で軍事衝突を回避するためには、現実的には海上保安庁の艦艇を増強し、人員・装備を強化すること、また、日中間の偶発的軍事衝突回避のためのルールやホットラインを整備することで十分のはずです。

② 南シナ海での中国進出と軍事衝突

ベトナムは、日本の安保法制整備に理解を示し、南シナ海での日本の自衛隊の役割を期待すると表明しています。同様に米国は、南シナ海で日本の自衛隊が、米軍の活動の補完と肩代わりしてくれる自衛隊に大いに期待していると言っています。

近い将来、南シナ海での米国、日本、フィリピン、ベトナムの共同軍事演習を行って中国を牽制するようなことになるのでしょう。


その数年後、もし中国とフィリピンやベトナムとの間に軍事衝突が生じ、米軍がこれに介入して米国と中国との軍事衝突になった場合、米国が日本に支援要請をしたら日本政府はどう対処するでしょうか?


もはや日本政府は断れないでしょう。結局、日本政府は、重要影響事態とか存立危機事態とかを「拡張解釈」して、海上自衛隊の艦艇などが米海軍に燃料や武器弾薬補給をするでしょう。対中国との戦争に参加(兵站=後方支援)することになります。


③ 朝鮮半島での北朝鮮との戦争


仮に北朝鮮が韓国と戦争を始めた場合どうでしょう。(現実的には、北朝鮮が軍事侵攻をするシナリオはあり得ないと思います。北朝鮮にとって自滅行為だからです。北朝鮮の支配者にとって核兵器を持って引きこもりするしか生き残るすべはないし、支配者自身それを自覚しているでしょう。もっとも、それも長く続かないでしょうが。)


米軍と韓国軍は、当然北朝鮮軍と戦争になります。米軍に後方支援や機雷掃海を支援された場合、日本政府はどうするのでしょうか?


これまた日本政府が断れるとは思えません。

おそらく、読●新聞や産●新聞や●ジテレビが、米軍基地が北朝鮮から核攻撃を受けるとか、北朝鮮の特殊部隊が原発を急襲するとか国民を煽り、結局は、存立危機事態とか重要影響事態ということになるでしょう日本は兵站=後方支援として参加して、北朝鮮から攻撃を受けるでしょう(北朝鮮にとっては個別的自衛権の行使)。
なお、核兵器開発を破壊するために米軍が先制攻撃することも考えられますが、韓国が絶対に反対するでしょうから可能性から排除します。(今の日本政府は賛成しかねませんが。)

④ 中東への自衛隊派遣

中東においては、米軍だけでなく、難民が押し寄せるEUも、アサド政権を支えるロシアも、ISに軍事攻撃をしかける事態が生じるでしょう。

それも集団的自衛権というよりも、安保理の決議による国連の措置として行われることでしょう。 この場合、日本に参加が求められた場合、日本政府は断れるでしょうか。日本政府は断れないですよね。そのために国際平和支援法(国際平和共同対処事態への対処)を作ったのですから。


でも、今度は、道路工事や学校建設するわけではありません。戦闘行為は行わないが、武器弾薬の供給などの兵站(後方支援)を自衛隊が行うことになります。攻撃されれば正当防衛だけでなく、任務遂行のためや友軍を支援するために武器使用をします。アフガニスタン・タリバン戦争やイラク戦争の轍を踏むことになるでしょう。


■最高の「抑止力」は核兵器

中西教授らは、日米同盟を強化して抑止力を高めることで、上記のような事態が起こらないようにできると言うのでしょうか。

否、相手のあることですから、上のような事態は起こるでしょう。起こることを想定して米国に約束して制定した法律である以上、断れません。


そして、日米同盟を強化して抑止力を高めれば、相手(中国)はそれに対抗する策を考えます。「手を出したら、痛い目に遭うぞ」というのが抑止力ですから、当然、中国も軍事的対抗措置を強化します。

ところで、国際政治学者が「今や国際環境が変化し、日本の安全保障が脅威にさらされている」というけれど、米ソ冷戦時代のほうが、日本にとっても、今よりもっと軍事的緊張がありました。

現実に想定されたのは、ヨーロッパ正面でソ連(ワルシャワ条約軍)と欧米(NATO軍)が軍事衝突をして、これに連動して極東ソ連海軍(原潜)が太平洋に進出する。極東ソ連陸軍が北海道に進攻する事態です。自衛隊と在日米軍がこれと戦う(日本不沈空母)。 ゴルバチョフが登場するまで、これが実際に起こると思われていた現実のシナリオでした。そのため日米同盟、核の傘で「抑止力」が高められました。

この「抑止力」とは核兵器のことです。

ソ連や中国の核ミサイルは、当然、在日米軍に照準をあわせていました。横田基地や三沢基地、横須賀基地、嘉手納基地がターゲットでしょう(今でもそうかも?)。

ですから、日米が抑止力を高めた場合には、中国が行う対抗策は「核兵器」を強化することです。それとともに、ロシアと軍事協力関係を深めることでしょう。

そうなると日米でミサイル防衛を整備したり、日本が核武装したり、果てしない軍事拡張の渦巻きにまきこまれていくでしょう。


安全保障の専門家である国際政治学者は、そうは思わないのでしょうか。 いや、きっとそう予測しているのでしょう。でも、これは、逃れられない「人類の現実」だと考えているのでしょう。平和を夢想する「脳内お花畑」の連中は「情緒論」でしかないと、切り捨てるリアリスト(ニヒリスト)たちですから。

でも、この予想される事態のどこが日本の安全保障を強めることになるのでしょうか。危機を深めるだけのように思います。

行き着く事態は、米国と中国との「新冷戦」です。日本は米国の従属国として、新冷戦の最前線国家になるでしょう。安部首相の常任理事国入りの夢想には好都合かもしれませんが。

もっとも、米国首脳も中国首脳も、そう馬鹿ではないように思います。オバマ大統領と習近平主席が近々、会談します。日本頭越しの協議が積み重ねられて、最終的には、米中両国が今後の世界秩序の線引きをするのではないでしょうか。


■では代替案は?


日本は、英国型ではなく、スウェーデン型のスタンスにたった方が、メリットがあるのではないかと思います。米国とつるんで中国と対抗しようというのは危ない橋です。

スウェーデンのように西側に属しながら、(軽)武装中立で、一歩引いて大国の興亡を脇で観ていた方が良いのでははいでしょうか。

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2015年9月14日 (月)

野党「安保法案をあらゆる手段をもって成立を阻止する」-「民主主義の本質と価値」

■多数決支配が民主主義?


野党の国会での強行採決反対や議事妨害に対して、「安保法案は与党が多数議席を維持している以上、議会で採決するのは当然で民主主義の帰結である」という批判があります。

はたしてそうでしょうか。

■民主主義の本質と価値

つい最近、ハンス・ケルゼンの1929年の著作「民主主義の本質と価値」(長尾龍一・上田俊太郎共訳・岩波文庫)の新訳を読みました。学生時代に読んだ旧訳の表題は「デモクラシーの本質と価値」(西島芳二訳)。ハンス・ケルゼンは、ドイツのワイマール時代、マルクス主義やナチズムと対抗し活躍したリベラル派憲法学者です。

ケルゼンは、アウトクラシー(独裁主義)=(「プロレタリア独裁」と「ナチス独裁」)に対抗して、リベラルなデモクラシー(議会制民主主義)を擁護する論陣をはりました。曰く「デモクラシーの本質は、多数決主義ではなく、個人の権利と自由の尊重である」と。ファシズムはもちろん、マルクス主義的民主主義論を完全に論破しました。

今、この情勢の中で、この新訳を読んで学生のときにはあまり意識しなかった次の議会制度の論述が印象に残りました。今の日本の議会・政治状況に示唆を与えると思いました。

「議会制手続というものは、主張と反主張、議論と反論の弁証法的・対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことを目標としているからである。ここにこそ、現実の民主主義の本来の意義がある。」

「議会制における多数決原理が政治的対立の妥協の原理であることは、議会慣行を一瞥するのみでも明らかである。対立する利害の中間線を引くこと、対立方向に向かっている社会力の合成力を作り出すこと、これこそが議会手続の全体が目指していることである。」

「こうして我々が議会手続を支配する多数決原理の本来の意味(「妥協の原理」の意味、引用者注)が理解するならば、議会主義においても最も困難で危険な問題の一つ、すなわぎ議事妨害の問題をも正しく判断することができる。議会手続を規律する諸規則、特に少数派に認められた権利は、少数派が議会の仕組みを議会の仕組みを一時的に麻痺されることにより、その意に沿わない決定がなされることを困難にし、さらに不可能とする可能性をもっている。… しかし議事妨害を多数決原理に反するものとして絶対的に否定することは、多数決原理を多数派支配と同一視しない限り不可能であり、その同一視は正当でない。

「民主主義の特徴である多数者の支配の他の支配形態との相違は、それが反対者、すなわち少数者を概念上前提とするばかりでなく、反対者を政治的にも承認し、基本権・自由権・比例原則によって保護するところにある」


今週、展開されるであろう参議院での攻防は、議事妨害を含めた攻防になるでしょう。しかし、議会少数派の議事妨害を含む反対は、安部内閣の議会多数派支配の非妥協的な国会運営への批判であり正当なものでしょう。

■白鳥の歌

ケルゼンは、結局は、ナチスに追われて米国に亡命します。岩波文庫に1932年に書かれた「民主主義の擁護」が載っています。その最後の文章は次のようなもの。ワイマール憲法体制が終焉を迎える直前の「白鳥の歌」です。

民主主義救済のための独裁などを求めるべきではない。船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがていっそうの強い情熱をもって再生するであろう」という希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈みゆくのである。

1932年から84年後の今、われわれは1946年日本国憲法体制の終焉の始まりを目にしているのかもしれません。

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