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2015年8月15日 (土)

「終戦」通説に対する異説  「終戦史」吉見直人著

 「日本のいちばん長い日」は岡本喜八監督の映画(1967年)で観ました。今、原田真人監督のリメイク版が上映されています。
 この映画もそうですが、「終戦」に至る経過についての一般的理解(通説)は次のとおりです。

 陸軍は「本土決戦」を呼号し、他方、政府・外務省はこともあろうに既にヤルタ協定で対日参戦を密約していたソ連に和平交渉の仲介を懇請し、ソ連にはぐらかされているうちに、米国の原爆投下(8月6日/9日)とソ連の対日参戦(8月9日)で追い込まれ、8月9日の「御前会議」にて天皇がポツダム宣言受諾を決定、8月10日に連合国に通知した。これに対して、陸軍の一部は宮城でクーデターを起したが、これを抑えて15日に玉音放送で国民に敗戦が知らされた。

  吉見直人 著「終戦史」(2013年・NHK出版)を昨年読みました。2012年8月放映・NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決断できなかったのか」も観ました。これは上記通説に対して異論を提起します。終戦に至る経過を軍国主義反対というイデオロギーで裁断せず、あくまで客観的・実証的に「ファクト」ベースで事実を淡淡と検証していきます。このファクトの骨子を時系列で並べると次のとおりです。


・1945年2月初旬 ヤルタ会談で
ドイツ敗戦後3ヶ月後にソ連が日本に参戦することが協定された(ヤルタ密約)

1945年5月、6月頃、欧州駐在の各陸海軍武官(スイス、ポルトガル、スウェーデン)は、ソ連対日参戦密約情報を陸海軍中枢に報告し、日本軍中枢もこれを認識していた(英国で上記暗号電報解読文が大量に発見されている)。他方、日本外交官は「ソ連は中立を守る」という楽観的報告を外務省に報告していた。


・5月7日、ベルリン陥落。ナチス・ドイツ降伏。
・5月11日 最高戦争指導会議 対ソ工作(ソ連参戦防止、ソ連への和平斡旋依頼)のための会議招集


・6月8日の「御前会議」
にて、「今後採るべき戦争指導の基本方針」を採択。戦争完遂、本土決戦の強攻策を決定。ただし、対ソ外交施策も平行して進めることが裏では決められた。


6月11日、梅津陸軍参謀総長が昭和天皇に「上奏」し、支那派遣軍さえ戦闘能力がないこと、既に日本軍が米軍に一撃を加える戦闘能力を有していないことを報告。
昭和天皇は、「一撃和平」が実行不可能であることを認識。


6月22日、昭和天皇は、最高戦争指導会議のメンバー「6巨頭」(鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津(陸軍)参謀総長、豊田(海軍)軍令部総長)を集めて秘密懇談会を開催する。米内海相は、ソ連を介しての和平交渉を提案する。梅津参謀総長も同意し、速やかに行うことを確認する。

 つまり、この6月11日~22日の時点で、和平交渉を行うことを昭和天皇を含めて戦争指導部は決定していたといことになる。後は、和平交渉をいかに有利にするのか(国体護持)という戦術問題だけとなった。

6月24日 広田弘毅は、上記政府の意向を受けてソ連駐日マリク大使との会談を開始した。


・6月下旬 ところが、スターリンはソ連極東軍に対日参戦準備命令を下していた。


・7月12日、東郷外相は、佐藤駐ソ大使に和平交渉の仲介の依頼は天皇の意向であり、近衛を特使としてソ連に派遣する旨をモロトフに伝えよと訓電
(米英はこの電信を解読し、昭和天皇が講和を受け入れたと重視していた)。
  しかし、この数日後、ソ連首脳部がポツダム会談に出発。

 つまり、東郷外相と佐藤大使がグズグズしているうちにポツダム会談が始まり、結局、近衛特使派遣は実現されなかった。


・7月26日 英米ソがポツダム宣言を発表。
 同日、参謀本部ロシア課長白木大佐、ソ連視察報告として、ソ連極東軍150万準備完了して8月中に進攻開始と報告


7月30日、参謀本部作戦課会議で白木大佐は「ソ連対日参戦は8月10日」と明言。


・8月6日 米軍 広島に原爆投下。
・8月9日 米軍 長崎に原爆投下。ソ連参戦。
・同日深夜   御前会議にてポツダム宣言受諾を決定。
・8月10日 ポツダム宣言受諾を通知
・8月14日 宮城クーデター騒ぎ。最後の御前会議。詔勅発布。
・8月15日 玉音放送
 
 つまり、遅くとも6月22日に、昭和天皇以下の最高戦争指導部は、日本に戦争継続能力がないこと、そして和平交渉するしかないことを共通に認識しており、陸海軍トップもこれに同意していたのです。ところが、その後もソ連対日参戦等の情報が政府・外務省と共有されず、東郷外相は「国体護持」を連合国に約束させたいと考えて即時和平を申し入れなかった。
 6巨頭は、結局誰も即時和平へのリーダーシップを採ることなく、最後の最後、昭和天皇の決断にゆだねてしまった。
 他方、昭和天皇は「一撃和平」論。つまり相手に一撃を与えてからなら「国体」を護持できる有利な和平交渉ができると期待していたようです。しかし、最後の最後に、これが無理だとわかったので、8月9日にポツダム宣言受諾を決断したのです。

陸軍の反乱が怖くて和平交渉できないというのが本当か

 「陸軍のクーデターを恐れて、和平交渉ができなかった」「昭和天皇でさえ命が危なかった」と戦後よく言われていました。その根拠として映画「日本のいちばん長い日」で描かれた狂信的陸軍将校のクーデターが強調されました。
 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。もし、これが本当ならば、戦死した兵士たちや原爆で殺された市民たちは、戦争指導部が自分の生命を惜しんだために死んでいったことになってしまいます。

 陸海軍の中枢部は、既に戦争継続能力がないことは熟知していたのですから、彼らに勇気と国民に対する責任感さえあればクーデターなどは恐れる必要はなかったはずです。現に井上成美海軍大将は、「(徹底抗戦を叫んでの)内乱がおこっても恐れるに足りない」と戦後語っていたそうです。

8月9日の聖断ができて、何故、6月ないし7月に聖断ができなかったのか。


 原爆投下、ソ連対日参戦がなければ「聖断」できなかったというのが通説です。
 6月以降の終戦までの戦死者は30万人を超えると言います。早期和平交渉、停戦ができれば、広島、長崎をはじめ多数の人命が救われたはずです。


 近衛や米内海相らは「原爆投下とソ連参戦について天佑であった」とさえ述べています。つまり、自らのリーダーシップで戦争終結をするという「責任」を回避し、外圧で敗戦が決められることを「天佑」と言って喜んだのです。
 これは「天皇制」という統治構造が生み出した精神構造・人間類型なのかもしれません。6月、7月に終戦できなかったいちばん大きい理由は、この戦争指導部が「国民に対する責任感」がなかったということにつきるのではないでしょうか。
 昭和天皇をはじめとして最高戦争指導部に勇気と「国民に対する責任感」があれば終戦の決断は、6月、7月にも可能だったと思えます。結局、国体護持を至上命題にし、「成り行きにまかせる」「空気には逆らえない」という日本人の「悪弊」が最高戦争指導部まで蔓延していたということでしょう。

 丸山真男が戦前の軍国主義天皇体制を「無責任の体系」と批判したのはまさに正鵠を射ていると思います。
 「終戦」に至る経過について、英米の外交軍事機密文書が公表されはじめたことで、研究が大幅に進んでいるそうです。しかし、未だ旧ソ連の外交軍事機密文書は公表されておらず、何か公表できない大きな事実があるようにも思えます。

 なお、「反戦平和」「非戦」の理念も重要ですが、「事実」に依拠しない「理念」は脆弱です。ファインディング・ファクトの精神に基づく歴史的事実を知らなければなりません。そうでなければ、天皇が「私の身がどおなろうとも」と発言したという「神話」(これが架空であるというのが近時の研究結果だという。)が生まれてしまうのではないでしょうか。

「甘い感傷よりも勇敢な反省」


 和平派であった高木惣吉海軍少将の次の文章で結ばれています。

  「人も、事実も皆これをロマンチシズムの甘い糖衣に包まなければうけいれられないようでは、いつ迄たっても同じ過誤を繰り返す危険があると思う。

  … … 

太平洋戦争の経過を熟視して感ぜられることは、戦争指導の最高責任の衝に当たった人々の無為、無策であり意思の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです」

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