政治指導者の「決断」と「喝采」-カール・シュミット理論の再来
安倍晋三首相が、集団的自衛権についての憲法解釈の変更の可否を問われて、「(政府の)最高の責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、そのうえで選挙で審判を受ける」と答弁したことで、論争を呼んでいます。
昨今、選挙で選ばれた政治指導者の「決断」が持てはやされます。
「決めるのは俺だ」という手法は、橋下徹氏が得意であり、多数の国民は喝采をあげて受け入れているようです。
これは政治指導者の「決断主義」と言えるでしょう。
「決断主義」と言えば、カール・シュミットです。
カール・シュミットは、第2次世界大戦前のドイツ・ワイマール時代の憲法学者であり、ナチス法学の泰斗です。大学時代、カール・シュミットとハンス・ケルゼンを比較をした講義(憲法原論)を受けたときの受け売りです。昔のことなので理解が間違っているかもしれません。
カール・シュミットは「政治社会」の本質をシンプルに指摘しています。
○政治社会とは、支配者と被支配者が存在する「支配-被支配関係」である。
○支配者とは、法的には「主権者」のことである。
○政治の本質は、「友敵関係」である。
○支配者は、政治社会の「敵」を決めることができる。
○支配者(主権者)は決断者である。
○支配者(主権者)は「例外状況」(戦争や革命)において決断者として登場する。
○支配者の決断は「民衆の喝采(アクラマチオ)」によって支えられる。
ナチズムを法学的に支えたカール・シュミットですが、これは政治社会の本質を良く言い当てています。
安倍晋三氏の「選挙(つまり、民衆の喝采)によって憲法解釈を決定するのは政治指導者である」という考え方は、カール・シュミット理論と極めて近い考え方です。
カール・シュミットに対抗したドイツの法学者がハンス・ケルゼンでした。ハンス・ケルゼンは、「デモクラシーの本質と価値」の中で、マルキシズムとナチズムを強く批判します。
デモクラシーは多数決原理であるが、少数者の保護が必要不可欠であり、少数者保護を欠くデモクラシーは(ボルシェビキやナチズムのように)独裁に行き着く。
この左右の独裁主義を批判したハンス・ケルゼンの指摘は見事にあたった。今も有効だと思います。
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