■外国の反発は本質的な問題ではない
昨年末の安倍首相の靖国神社参拝は、中国、韓国だけでなく、米国政府からも懸念が表明(失望)され、EU外交部門やロシアから批判、ドイツの首相報道官から日本への忠告などがありました。
外交問題は重要ですが、本質的な問題ではない。A級戦犯が靖国神社から分祀されても、政教分離と靖国神社参拝問題が解決するわけではありません。
■日本国憲法の政教分離原則
戦没者に政府が追悼すること自体は誰も反対していない。宗教的に中立の儀式で首相が追悼することには何ら問題はないのです。
問題は、その追悼が靖国神社という宗教法人に参拝する方法で行われる点です。
内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」に違反するという憲法問題が生じます。
外交問題は大きく取り上げるマスコミが、憲法問題をきちんと報道・解説していないと思います。
■政教分離なんか関係ないという俗説
アメリカ合衆国では、大統領が就任式で聖書に手をおいて宣誓したり、裁判でも証人は聖書に手を置いて宣誓したりするから、政教分離なんかは各国の事情で緩やかに解されて良いのだ、という見解があります。
確かに、オバマ大統領も就任に際して聖書を用いて宣誓しました。しかし、過去には政教分離を厳格に考えて聖書を用いないで宣誓した大統領もいたそうです。個人として宣誓する際には聖書を用いることも許容されるという解釈のようです。裁判の証人宣誓も、聖書でなく、コーランで宣誓したいと言えば、コーランを用いて宣誓することも許容されるそうですし、無宗教でも良いそうです。
政教分離といっても、完全な政教分離は現代社会では不可能です。例えば、宗教系の学校に公費で教育費助成をしないことは子どもの教育を受ける権利や平等原則から問題になりますからね。
ですから、アメリカも日本も他の国も、どこまで国家が宗教に関与できるか、見解の対立が続いてきました。裁判でも争われています。特に、グレーゾーンについて各国のお国柄の下、様々な深刻な対立があります。
アメリカでは、学校の教室で生徒が忠誠宣誓(神の下の一体不可分の共和国に忠誠を尽くす)を行うことが政教分離違反(米合衆国憲法修正1条違反)かどうかが争われてきました。米国連邦最高裁でも過去に違憲判決が出されましたが、最近、合憲判決も出たようです。今でも、ホットな議論が続いています。
フランスでは、学校でイスラムのスカーフを被ることを認めるか認めないか、政教分離との関係で深刻な社会問題になっています。
■日本では 日本の最高裁判決を前提に
憲法という法律問題として議論を整理したいと思います。そのためには、既に出された現在の最高裁大法廷判決の「目的・効果基準」を前提として議論しましょう。
国論を二分する憲法問題については、最高裁判決を理解した上で議論することが求められます。「法の支配」を旨とする近代国家である以上、当然です。最高裁判決は無視しては「法の支配」を否定することになりかねません。
中国では、この「法の支配」が確立していません。最高裁判決を無視することは、中国と一緒のレベルになってしまいます。
■政教分離に関する最高裁大法廷判決
最高裁大法廷判決には、津地鎮祭合憲判決(昭和52年7月13日)や愛媛玉串料違憲判決(平成9年4月2日)、砂川空知太神社違憲判決(平成22年1月20日)があります。
愛媛玉串料最高裁判決の骨子は次のようなものです。
① 政教分離原則(20条1項後段、同条3項、89条)は、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を求めている。
② 大日本帝国憲法下では、国家神道に国教的な地位が与えられており、信教の自由の保障が不完全であり、宗教迫害などの弊害を生じたため、日本国憲法は、信教の自由の絶対的保障と政教分離規定を設けた。憲法は、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとした。
③ しかしながら、国家が社会的規制を及ぼしたり、教育・福祉・文化等への助成援助等をしたりするには、宗教との関わり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度としては、完全な分離は実際上不可能である。
④ そこで、政教分離原則は、国家に宗教的中立性を求めるものであるが、完全に分離することはできず、国家の行為の目的及び効果にかんがみて、その関わり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合には許されない。
⑤ 憲法20条3項にいう宗教的活動とは、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいう。
実際の適用では、市立体育館建設にあたって津市が主催して地鎮祭を執り行ったことは合憲、愛媛県の神社への玉串料支出は宗教的意義が深い支出であり違憲、砂川町が神社に土地等を提供したことは違憲、という結論になっています。
■靖国神社参拝はどうか
今までの最高裁判決事件は、公金の支出や土地等の物的提供という類型でした。靖国神社への内閣総理大臣の参拝は、単に公金の支出や便宜供与ではなく、まさに行政府の代表者の参拝という宗教的意義をもつ行為が問題になります。
上記最高裁の目的・効果基準で判断すると、内閣総理大臣の参拝の目的が仮に「戦没者の追悼」という世俗的かつ政治的目的であるといっても、靖国神社への参拝は神道の深い宗教的意義を有することは否定できません。仏教寺院やキリスト教会、あるいはイスラム教会に内閣総理大臣が戦没者の追悼のために参拝ないし礼拝したとしたら、それは宗教的活動のほかならないでしょう。靖国神社であっても同様です。
効果としても、国及び内閣が一宗教法人である靖国神社を特別視し、他の宗教団体にない優越的地位を与えることになります。戦没者を追悼する式典は他にも様々な方法がありえますが、それを敢えて靖国神社で行うことは、靖国神社を事実上、戦没者の追悼するための国家的な特別な宗教施設として扱うことです。参拝は伝統行事や世俗的行為とはいえず、靖国神社の宗教を援助、助長し促進する効果を有することになります。
■靖国神社への内閣総理大臣の参拝は違憲
以上のとおり、一連の最高裁大法廷判決の論理からすれば、内閣総理大臣の靖国神社参拝は違憲と判断されるでしょう。これを合憲とする論理は難しい。
一つありえるとしたら、「靖国神社への参拝は、宗教的行為ではない」という論理でしょう。しかし、260万柱もの英霊が奉られている靖国神社への参拝を宗教的行為ではないというのは、靖国神社の宗教性自体を否定することになり、それは背理でしょう。
■伊勢神宮参拝は?
内閣総理大臣ら閣僚の伊勢神宮参拝についても、政教分離違反の疑いが濃厚です。ただし、この伊勢神宮参拝が1月4日に行われており、一般の初詣と同様、世俗化しているという点は靖国神社への参拝とは異なった面があります。
■宗教的に中立な国立追悼施設の建設による解決
ということで、憲法が政教分離を定めている以上、戦没者の追悼は、宗教的に中立な国立追悼施設を建築する解決策しかないと思います。しかし、戦後70年近く経過しても、このシンプルな道理が通らないのは本当に不思議です。
なぜ、この正論が実現しないのでしょうか。
■靖国神社問題の背景にあるのは戦争責任論
それは、靖国神社問題は、第2次世界大戦が日本の侵略戦争なのか否か、その戦争責任は誰にあるのかという大問題と直結しているからです。
ある人々にとっては、先の戦争は「自存自衛の聖戦」にほかならず、今になっても日本が戦争責任を糾弾されることは納得できない、のでしょう。
他方、私のように戦後民主主義と憲法を肯定する者(今や少数派?)は、先の戦争は「侵略戦争」にほかならず、当時の政治指導者と軍部は諸外国と日本人に多大な被害を及ぼした戦争責任があると考えます。なお、この立場の人は、中道保守や自由主義者など、左翼でない人も含まれています。
この政治的・思想的な対立が靖国神社参拝問題の背景にあるので、未だに解決が難しいのです。
私は、昔は時がたち戦争に従軍した人々が少なくなれば、自ずと後者の見解が多数派になると思っていましたが、必ずしもそうでもないようです。
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