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2010年12月26日 (日)

改めて思う「暴力装置」って言葉

日本でも、政治的に不適切な用語に関する辞典が必要になってきたようです。

あらためて、仙谷官房長官の例の「暴力装置」発言を考えると、単にそのような用語の問題以上に、「時代精神」というか、「知識ステージ」というか、舞台が転換したことの象徴的な出来事なのでしょう。(何を今更気がついたのかと言われそうですが)。

<もっとも、「お国を守る兵隊さんに失礼なことを言うな」という讒言には首肯したわけではありませんが。この手の人たちがまたもや日本の進路を誤らせるのでしょう。まあ、これも日本人の宿命なのでしょう。>

つまり、「暴力装置は価値中立的な概念である」と考えるのは、私のような旧い世代の認識でしかなく、現在においては、「暴力装置」とは特定の政治的価値(左翼的価値観)を示す用語に変化しているということが、この間の一連の報道で良くわかりました。

もはや、旧世代の左翼おじさんの日常用語は、社会に通用しないということなのです。また、これは、新たな日本でのポリティカル・コレクトネス(political correctness)の一適用例なのかもしれません。

「暴力装置はレーニンの専売特許だ」とか、「暴力装置はマルクス主義の考え方なんだ」とか、多くの若者と思われる人たちがネットで書いています。もっとも、保守派・右派でも、私と同様の旧い世代は左派はもちろん、右派も「暴力装置で当たり前」って言っています。

学術用語(専門用語)の理解としては、「暴力装置=マルクス・レーニン主義」これは間違っていますね。国家の本質が暴力装置(物理的強制力)であることは、マルクスやレーニンの専売特許ではありません。マックス・ウェーバーどころか、それ以前の哲学者らの多くが指摘しています。例えば、ホッブスが国家をコモンウェルス(共同体)としながら、同時にリヴァイアサン(怪物)だと述べていました。ホッブス(=リヴァイアサン国家論)もアダム・スミス(=夜警国家論)も、国家が秩序を維持するために物理的強制力(暴力)を専有していることを本質としていると考えていました。

国家が「ヤヌスの双面」(公共性と暴力)を持つという「国家論」の常識は、もはや世の中の一般の理解は得られなくなったということなのでしょう。

ちなみに、マルクス主義の国家論の特徴は「国家=軍隊=暴力装置」論ではなく、「階級国家」論です。つまり「国家は支配階級の階級支配の道具である」ということです。我々の年代では、その知識自体は常識でした。反マルクス派も、少なくとも過去の歴史において、階級国家論が妥当することは認めざるを得なかったと思います。例えば、江戸幕府が封建領主(武士階級)の支配の道具だということを否定する人はいないでしょう。(って考えるのが旧い世代だからなのかもしれませんが。)

しかし、もはや「階級」という用語も政治的に不適切な用語(PC)になっているのでしょう。総理大臣や官房長官が、「わが国には階級が存在する」って言ったら、「暴力装置」以上に物議をかもすことでしょう。「階級社会」って言わずに「格差社会」って言い換えるわけです。客観的用語と心情言語が分離できない、というのが日本的な特質なのでしょう。「階級」って言うとマルクス主義の立場にたっていること思われるから、わざわざ「階層」と言い換えるのが日本です。でも、英語では「階級」も「階層」もclassだそうです。

このあたり、社会科学の学術用語と日常生活用語が分離し、社会科学の学術用語が翻訳語として特化しているという日本的特質のあらわれなのでしょうね。

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コメント

 マルクス主義は「国家は支配階級の階級支配の道具である」というのは一般的に言われることですが、疑義があります。レーニンは確かにその立場ですが、マルクスは異なり、国家イデオロギー説(国家は観念的な自己疎外)でないかと思われます。このことを一早く指摘したのは三浦つとむで、「レーニン批判の時代」(三浦つとむ選集・勁草書房)p.297-306にあります。
 レーニンはドイツイデオロギーを読んでいません。というのは、当時は未公刊だったからです。
「階級闘争には現実的な諸形態だけでなく、幻想的な諸形態もある。そして、階級対立すなわち現実の利害の矛盾から幻想としての「一般」利害をつくりだした人間は、こんどはこれによって逆に自分たちが支配されることになる。人間のつくりだしたものが人間の外部で人間から独立したものとして逆に人間を規定することを、マルクス主義では自己疎外とよんでいるが、国家はつまり観念的な自己疎外なのである。」(p.299)
 保守派が憲法9条改正にやっかみになるのも、9条は労働者階級だけでなく資本家階級をも縛っているからです。国家=支配階級の道具説では、国家が支配階級自体をも縛るといった側面が見落とされがちになります。三浦は、国家が国民全体の利益を代表するといったブルジョア学者の見解の、ちょうど裏返しになっているのがレーニン国家=抑圧機関説で、どちらも一面的だとしています。
 三浦つとむは在野のマルクス研究者として群を抜いていて、今読んでも驚嘆します。

投稿: spec | 2010年12月27日 (月) 22時14分

> このあたり、社会科学の学術用語と日常生活用語が分離し、社会科学の学術用語が翻訳語として特化しているという日本的特質のあらわれなのでしょうね。

一般の人は学術用語など知りません。
暴力と言う言葉は戦後教育において「暴力反対・暴力は悪」と常に教えられた世代が多数になりました。

そこから多くの人他たちは「暴力装置」と言う言葉は悪い意味にしかとれません。

このことが問題を複雑化させているような気がします。

そのため、自衛隊に対しての嫌悪感を表す言葉と取られかねなく、言葉狩りの範疇を越していると思います。

投稿: ringo | 2011年1月 8日 (土) 21時45分

ningoさんのご指摘のとおりなのでしょう。

公の立場にある人は、このような政治的な適切な用語を慎重に駆使しなければならないということですね。

投稿: 水口 | 2011年1月15日 (土) 02時30分

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