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2010年6月 6日 (日)

満州国立建国大学

今朝の朝日新聞に満州の建国大学の同窓会が今年が最後になるとの記事掲載されていました。

http://www.asahi.com/national/update/0605/TKY201006050277.html

理想と現実の狭間で 満州建国大学、8日に最後の同窓会(1/2ページ)
                                               2010年6月6日9時11分
日本が1932年に中国東北部に建てた「満州国」で、最高学府として設立された「満州建国大学」(建大)の全体同窓会が8日の開催を最後に幕を閉じる。卒業生の高齢化が理由。日本、中国、朝鮮、モンゴル、白系ロシアの5民族の融和という理想と、日本による実質上の統治という実態。その矛盾を卒業生たちは戦後も背負わされ、シベリア抑留や政府による弾圧などの過酷な日々を生きてきた。

私の父親はこの満州 建国大学の出身です。私が中・高生のころ、父が酔うと満州建国大学の話を聞かされたものです。

建国大学は満州国の官僚養成大学。全寮制で給与が支給されたそうです。父らは日本では軍国主義教育にどっぷり浸かっていましたから、「五族共和」、「王道楽土建設」の理想に燃えて大陸満州に渡ったそうです。

当時満州では、日本人は白米、中国、朝鮮人はコーリャン(高粱)を食べていました。しかし、「五族共和に反する」という学生の批判がおこり、白米とコーリャンを混ぜて、日本人も中国人、朝鮮人、モンゴル人も平等扱いになったそうです(白系ロシア人はパン)。

父は、初めて中国人や朝鮮人の学生らと一緒に学び暮らして、特に彼らの優秀さにびっくりしたと言っていました。

中国人、朝鮮人の学生は、学内の日本人学生に対しても公然と日本の侵略を批判したと言います。図書館には、マルクスの資本論や、孫文の著作などが置かれており、自由に閲覧できたそうです。

エリート学校というのは、どこでもそういうリベラルなものなのでしょう。父は、彼らとの議論や、彼らの民族独立への情熱に接して、視野の狭い軍国主義に対して疑問の念がわいたと言います。

建国大学は、傀儡国家である満州国の官僚養成学校であるにもかかわらず、もっとも多くの抗日闘争運動に身を捧げる学生を生み出したそうです。建国大学の総長や日本人学生らが彼らの釈放運動をしたこともあったと言います。

終戦間際、建国大学学生も現地で徴兵され、父はソ連の戦車隊の攻撃を防ぐ前線に、地雷を持たされて突撃要員(自爆兵)として塹壕に配置されたと言います。ソ連の戦車部隊が侵入してくる直前に敗戦になり死なずにすんだと言っていました。

そのとき、関東軍(日本軍)の将軍ら高級将校が真っ先に逃げ出したのを目の当たりにしたそうです。「日本人の女子ども野蛮なソ連軍の餌食にした」と言って、父は、日本の軍人たちを心底、軽蔑をしていました。戦後も、「右翼的な大言壮語する連中こそ、一番の腰抜けだ。」と言っていましたね。

父らはその後、一年間、中国の満州に残って右往左往します。幸い、シベリアに抑留されずにすみましたが、ソ連兵には殴られ、財産を盗られたり酷い目にあったそうです。他方、八路軍の兵士の規律の正しさと志の高さには瞠目。八路軍には現地で徴用されたりもしたそうですが、八路軍の敵である蒋介石の国民党軍については「装備は最新鋭だが、兵に士気がなかった」と言っていました。その後、父は、やっとのことで帰国して、あらためて日本の大学に入りなおしました。

九年前に父が亡くなったとき、建国大学の同窓生が集まってくれました。同窓生の多くは、学者や上場企業の役員等々それなりの経歴の方々でしたが、多くは日本に戻ってから、あらためて大学に入り直し、やり直しをした方々です。

建国大学は暴虐な植民地支配の先兵ではなく、それを変えようとしたのだ、という思いをお持ちの方もいました。中のお一人は「もう少し満州国がもって自分たち建国大学の卒業生が満州国を運営するようになったら違ったはずだ」ともおっしゃっていました。でも、日本人が満州を支配し酷いことをやっていたことや満州が傀儡国家であったとの認識は皆さん共通にお持ちでした。

七〇、八〇歳を超えて、それぞれの現役を引退しても、満州建国大学(ケンダイ)としての強い連帯感を持っているのは、あの「満州」という地域での「戦争」という激烈な体験をもっていたからなのでしょう。

なお、司法試験の一次試験免除に関する規則に、「満州国立建国大学の卒業者」は司法一次試験免除されるとの記載を見たときは、親父の言っていた建国大学は本当にあったんだと思ったものです。

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コメント

 私は61才の司法書士です。(正確には未登録なので試験合格者です) 昨年H22.3.31に市役所を定年退職しました。

 私の卒業した(新制)高校(昭和43年卒)に満州建国大学出身(多分卒業?)の先生がおられました。私は直接に教わってはいないですが。見るからに堂々とした風貌の紳士でした。
 

 

投稿: ハタ | 2011年3月 2日 (水) 16時03分

私の父は1930年昭和5年25歳の時教員でした、竹馬の友で小樽高等商業学校の講師でN氏と、修学旅行で満州朝鮮方面に修学旅行に学生と行っています、引率はN氏です。N氏はその後満州建国大学に転じ、横浜経済専門学校から広島大学と研究をしたかたです。N氏は今年創立百年を迎える小樽商科大学(小樽高等商業学校)を卒業し九州帝大2学科を学ばれ、母校講師に1930年着任しています。個人研究で満州国建国大学について調べていました時このサイトにめぐり合いました。父は満州の土産話を時々子供の私にしてくれました、昔のことになりました。

投稿: 樋口 寿夫 | 2011年5月 3日 (火) 11時44分

最近の出来事を紹介します。満洲建国大学を図書館等で調べていたら、図書に覚えのある苗字「F」が目に留まりました、早速Fさんに問い合わせしたら返事が来ました、Fさんの兄が建国大学1期入学し、病気のため1年休学したそうです。Fさんとは50年ぐらい前からの知り合いです、偶然とはいえおどろきました。参考にした図書の著者も相当詳細に調べたらしいのですが、肉親等の情報もいまならまだ間に合うとも感じました。

投稿: 建大研究子 | 2011年7月 4日 (月) 06時24分

満州建国大学は現在の長春市(旧新京)に1945年まであった。2012年秋に長春市を訪れた、跡地などをさがしてみました。南湖だけはそのままで旅人を迎えてくれました。想い出旅はその後の中国内で発生した反日本デモ騒動でおわりとなった。

投稿: 南子 | 2012年12月28日 (金) 09時28分

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