« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月26日 (木)

マッスル・ミュージカルの出演者は「労働者」

■マッスル・ミュージカル「パフォーマー」の労災認定

2月24日22時23分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090224-00000618-san-soci

平成18年に元体操選手らによる人気ショー「マッスルミュージカル」の出演者の20代女性がNHKの番組収録中に重傷を負った事故で、中央労働基準監督署(東京都文京区)が女性を労働者として認め、労災認定していたことが24日、分かった。女性の代理人弁護士などによると、舞台出演者が労災認定されるのは全国的にも珍しいという。
■マッスルの出演契約は労働契約である
体操選手らが会社と出演契約書を締結して、テレビの番組でパフォーマンスをしていて大けがをしたケースです。マッスルの出演契約書の概要は次のようなものでした。
第○条(本公演の出演)
 出演者は、本契約に従い、スケジュールを調整のうえ、本公演に出演することを承諾します。
第○条(リハーサル等)
 本公演への出演者の成功裡の出演のため、出演者は、スケジュールを調整のうえ、会社の指示に応じて、次の事項に参加するものとします。
1)打ち合わせ
2)振り付けなどの内安房絵
3)リハーサル
4)その他、必要な練習、訓練等
第○条(対価の支払い)
 会社は、本契約の記載の出演者の義務並びに出演者の肖像・実演等の利用に関する許諾の全ての対価として、別紙記載の金額を別紙記載の支払い方法に従い支払うものとします。
第○条(解約)
 会社は、出演者が出演者の事情で本公演に出演が不可能となったとき、もしくは本公演の出演に支障が生じるものと会社が判断したときには、直ちに契約を解除することができる。
(別紙)
1 本公演の概要
  2007年4月1日~2008年3月31日のミュージカル
  公演スケジュール、回数、場所等の詳細は別途交付のスケジュール表のとおり
2 対価
  金○○○万円
3 支払い方法
  期間中の毎月末日に○○○万円÷12
■仮処分での裁判所の判断
マッスルミュージカル争議は、仮処分での賃金仮払い、都労委への不当労働行為申立を
していました。会社は、出演者は労働契約でなく、出演契約であり、指揮命令をうける労働者ではないと、労働者性を否定しました。
私の過去のブログでも取り上げてきました。
仮処分は東京地裁の民事第19部の裁判官が担当。都労委の公益委員は荒木尚志教授(東大労働法)が担当しました。
仮処分のほうは、結審して決定が出る前に会社が自らお金を支払ってきました。裁判官は、仮処分の審尋の中で、出演契約であるが、労働者性を肯定できる明言していました。ところが、結審後、決定が出される前に会社が折れて、お金を払ってきたので残念ながら仮処分決定は出ませんでした。
マッスルでは、都労委での不当労働行為救済命令についても、会社は労働者性を争いましたが、都労委は、労働組合法の労働者性は認め和解により解決しました。
■出演契約であっても、実態が使用従属関係にあれば、「労働者」にほかならないということです。映演労連の声明を添付しておきます。

声明

映画演劇労働組合連合会(略称・映演労連)映演労連フリーユニオン・マッスルミュージカル支部

2007年6月14日に渋谷労働基準監督署(後日、中央労基署へ事件が回送)へ申し立てていた元マッスルミュージカル団員の組合員A子さん(20代女性)の労災がついに認定されたことが2月9日わかりました。事故は2006年5月、マッスルミュージカルとして出演したTV番組収録中の左膝の靱帯断裂。運営会社の㈱デジタルナインはA子さんに対して「病院へは自分の保険証を使って行ってくれ」「自宅で怪我をしたことにしろ」としたほか、復帰するまで被災者に対して“月額15万円の制作バイト”という雑用係を命じるなど信じがたい対応をしていましたが、中央労基署によって本事件が正式に労働災害であったことが認められたのです。

本件が画期的な成果と言える理由は、A子さんの労働者性の認定にあります。今回の労災認定における最大の争点こそ、この労働者性にあったのです。

事故そのものは会社も認めるところでしたが、団体交渉でも会社は「被災者との契約は出演契約であって雇用契約ではない」と主張していました。確かに、団員であるA子さんと会社で取り交わした契約書は一年間の「出演契約」のスタイルでした。しかし、問題は就労の実態です。労基法上の労働者性は,同法9条の「使用される者」として,労務受領者と供給者との間に指揮命令の関係があるかどうかで判断されています。労働者性についての行政解釈は,労働基準法研究会の報告書「労働基準法の『労働者』の判断基準について」(1985年12月19日)があり、芸能関係者については労働基準法研究会労働契約等法制部会の労働者性検討専門部会報告があります。同報告の労働者性判断要素によれば、指揮命令や拘束性などの使用従属性、さらには事業者性や専属性の程度などが補強要素とされているのです。今月23日、調査を行った中央労基署に確認を求めたところでも、最大のポイントはA子さんが指揮命令下の労働者と認定できるかどうかであり、その調査と判断に長期にわたる時間を要した、と説明しています。

 マッスルミュージカルでは、様々なスポーツの分野で秀でた若者がオーディションなどを経て舞台に立っていますが、彼らが自分勝手に舞台上で飛び回っている訳ではなく、緻密な演出と稽古の積み重ねは当然のこと、楽屋の掃除や衣装の整理洗濯に至るまで、会社の指示や命令がなければ成立し得ない実態があったのです。拘束時間の長さにしても、時間に換算して年間2,000時間近い拘束(2006年当時)となっていたのです。稽古に関する勤怠管理は会社指示によって厳密に行われ、会社が指示するスケジュールの遵守も求められてもいました。

 今回のように、契約内容の形式面だけで判断せず、舞台出演者であるパフォーマーについて労働の実態から労働者性を認定した事例はそれほど多くはありません。労働者性の問題もありますが、申請すら諦めて泣き寝入りしている方が多いからだと推測されます。今回の労災認定は、安心して働ける労働環境を目指したパフォーマーが労働組合に結集したからこその成果だと考えます。

 私たちは今回の画期的な成果をうけて、会社に対して労災適用事業所として団員全てを労災支給の対象とすることや、労基署に対しては同事業所への労働安全衛生に関する指導強化を求めていきます。

同時に私たちは、今回の労災認定をきっかけに、安心して働けるパフォーマーの労働環境整備をマッスルミュージカルだけでなく広く呼び掛けていきたいと思います。

                            以 上

【連絡先】〒113-0033 東京都文京区本郷2-12-9-301

映画演劇労働組合連合会(略・映演労連)

電話03(5689)3970 FAX03(5689)9585

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月22日 (日)

スウェーデン  K・G・ミュルダールやパルメ首相のこと

■スウェーデンの雇用保障法の制定時期

スウェーデンの雇用保障法(Lag om amstallningssdd)ですが、昔読んだ、丸尾直美教授の著作(スウェーデンの経済と福祉」中央経済社 58~60頁)では、1974年制定とされています。

一方、濱口桂一郎教授の「EU労働法政策」のブログで紹介されたスウェーデン政府の英訳(Employment Protection Act (1982:80)では、1982年制定とされています。また、「スウェーデンの今」の佐藤氏の紹介でも、『雇用保護法』(Lagen om anställningsskydd)(通称、LAS):1982年制定となっていました。

で、丸尾直美教授の著作を調べてみると、同著作193頁の「スウェーデンにおける経営参加の発展の経過ー付表」で次のような年表がありました(抜粋)。

1920年 産業民主主義委員会設立

1938年 労使の基本協約 サルチオバーデン協定成立

1971年 雇用保障法(オーメン法)の法制化。客観的な正当な理由なしの解雇禁止

1973年 取締役会への労働代表参加法制化 3年間暫定措置 

1976年 労働者代表参加法の拡大・恒久化 従業員25人以上の企業

1977年 労働生活の共同決定法施行

1982年 雇用保護法改正 試験的雇用と仕事のピーク時の臨時雇用が認められるようになった。

1984年 労働者基金導入。株主としての労働者参加

1990年 労働者基金への拠出中止

このように丸尾教授の著作にも、1971年制定と1974年制定との異なる年が記載されています。どれが本当なのでしょうかね。と思って、また前に読んだ本を自宅で探しました。

■スウェーデン社会民主労働党の歴史

ファシズム研究で著名だった大阪市大の山口定教授の「現代ヨーロッパ史の視点・第2版」(大阪書籍1988年初版)を昔、興味深く読んだことがあります。

ドイツやフランスのほか、スウェーデンについて詳細に解説した本です。副題には、「今日の日本を考えるために」とあります。1932年にスウェーデン社会民主労働党が初めて政権をとり、その後、1976年に選挙に敗れるまで44年間政権についてきた歴史を簡単に紹介しています。

スウェーデン・ニューディールの成功

経済構造をいじらず、ケインズ主義的な手法を労働者の利益になるような形で使う。財政政策、経済政策、金融政策、そういうところで労働者の立場からケインズ主義を適用する。そういう立場として「民主社会主義」が大きな発言権をもつ、という状況が続いたのです。
-----
要するにスウェーデン社会民主労働党は有能な経済学者のスタッフをもっていたということですが、その代表がK・G・ミュルダール(1898年~1987年)で、彼は、ある意味でケインズ以上に世界史に大きな役割を果たしたのではないかと思います。

------

今日への教訓

ヨーロッパの大きな社会民主主義政党で感心するのは、たとえば私が一番よく知っているドイツの場合いうと、労働運動の体質として、いかにうまく単なる圧力団体行動様式を脱却しているかということです。・・・・日本では、労働運動の側に立ち、労働運動の利益に役立つような政策体系を考えてくれる研究所や、それを支える巨大な財団は存在しておりません。

これは日本の労働運動の決定的な弱点であり、組織労働者の組織力を使って自前の巨大な財団と研究組織をつくるというのは、本来、戦後の出発点のところでやるべきでことではなかったのか。それを背景にした自前の政策面での力量がないと、わが国の、世界に冠たる官僚制の有能さにはまず対抗できない。その問題が解決されない以上、長期的にみて日本の革新派がじり貧にならざるをえないという状況は、まだまだ続くのではないかと思うのです。

1988年に出版されたこの山口定教授の指摘どおり、革新派がじり貧どころか、ドカ貧になりました。その問題点は、いっこうに克服されていないように思います。

■パルメについて

また、この本を読んでパルメの労働者基金にびっくりさせられたことを思い出しました。ソ連型でない現実的で民主的な社会主義があるものだという印象を強くもったものです。このパルメの「労働者基金」については、次のように書かれていました(要約)。

パルメは、1969~1976年、スウェーデンの首相(社会民主労働党の党首)です。パルメ首相は従業員基金構想を提案したのですが、企業と中産階級の反発から、1976年の総選挙で敗北しました。しかし、1982年9月、パルメ党首は、新たに労働者基金を創設を訴えて、総選挙に勝利し、政権に復帰しました。この労働者基金構想は、企業の過剰利潤の一部を労働者基金に拠出させ、その地域の労働者基金により企業の株を購入するのです。そして、その基金の運営委員会は、将来的には労働者の選挙で選出しようとするものです。

これが実現すれば6~7年後には、企業の最大株主は労働者基金になるという野心的な構想でした。実現すれば、資本所有形態が大きく変化し、民主的な社会主義と言える体制につながると言えるでしょう。しかし、このパルメ首相は1986年2月に暗殺されます。犯人は未だ逮捕されず、事件の真相は未解明のようです。

その後、1990年には、労働者基金は、その後、政権についた右派連合政権により中絶に追い込まれました。

このように雇用保障法が制定された1982年という年は、パルメの社会民主労働党が復帰した年にです。パルメ政権の下で、雇用保障法が制定されたということでしょうか。しかし、雇用保障法自身は、1976年までの社会民主労働党の長期政権中にできていたと考えたほうが自然のような気がします。そして、1982年当時の状況では、試行的雇用契約や有期雇用契約について一定の緩和するために改正したというのが普通のように思えます。

山口定教授のこの著作は、ちょうど東欧共産圏崩壊、ソ連崩壊の直前に書かれた本です。私にとっては、スウェーデンという社会民主主義国に注目するきっかけになった本です。「スウェーデンが解雇自由の国になった」という話を聞いて、「ホンマ カイナ」と調べるうちに、久しぶりに読みかえしました。結論的には、このような歴史の国が、そうやすやすとネオ・リベラリズムの政策にかわるとは考えられません。

スウェーデンの自動車会社であるサーブが経営破綻(会社更生)となったというニュースがとびこんできました。ただ、このスウェーデンであれば、日本とちがって、労働者が路頭に迷うということだけはないのでしょうね。

王制の下での「武装・中立・非同盟」路線、そして、産業民主主義。このようなスウェーデン型社会システムが一つの有力なモデルであることは間違いありません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

読書日記「日本を蘇らせる政治思想」現代コミュタニリアニズム入門 菊池理夫著

2007年1月20日第1刷 2009年1月25日読了 講談社現代新書

■コミュタニリアニズムって何?

同書によれば次のように解説されています。

コミュニタリアニズムは、個人が所属するコミュニティの伝統を重視し、治安対策の必要性を強調し、とりわけ福祉政策を重視する現代のアメリカのリベラリズムを批判する。

人間存在が何らかの与えられた共通性をもち、何らかの倫理的に共通の「善き生」をともに実現していくものと考えます。「正(義)=権利」よりも「(共通)善」を重視するものであるといえます。

コミュタニリアンが主張する「共通善」、コミュニティの政治的価値とは、まず連帯(友愛)、相互扶助、政治参加、自治などです。

現代のコミュニタリアニズムは、一方ではリベラリズムのように政治的価値に対して価値中立性を主張することが実際には、官僚主義や司法主義、国家のエリート支配になると批判します。

エチオーニによれば、コミュニタリアニズムとは、「自由市場」という「第一の道」と、「計画経済」という「第二の道」に対する「中道」であり、「第三の道」です。それは公的な国家でも私的な市場でもない、NPOのような第三セクターとしてのコミュニティを重視し、そこにできる限り権限を移譲し、政治参加を促進しようとするもの

というわけです。コミュニタリアニズムって、えらい ええもんのようでんなあ。

■共通善って、誰がどうやって決めるのか?

でも、「共通善」っていうのが何だかようわかりません。

どうやら結局、アリストテレス的な共和主義的な「善」(連帯、相互扶助、政治参加、自治)ということのようです。西欧コミュニティでは、それが伝統的なコミュニティの「共通善」なのかもしれませんが、日本のコミュニティでは、そんな共和主義的なものではなく、もっと「氏族・村落共同体的」なものが共通善ってされるかもしれませんよね。イスラム社会にとっては、共通善は、まさにイスラームの教えなのでしょう。

コミュニティがいろいろあって、共通善も、またそれぞれのコミュニティで違ってくるんじゃないのでしょうかねえ。そんでもって、当該コミュニティに共通善に参加しろって言われたら、やはりリベラリズムが心配するように、例えば、日本社会ではコミュニティのボス連中が個人の自由や権利を抑圧するようになるしかないと思います。

東京都立高校のコミュニティでは、「日の丸、君が代に敬意を表するのは当然である。郷土に誇りをもち、積極的に参加するコミュニティの構成員になることこそ善き生をまっとうできる」というのが知事や教育委員会、校長会全体の「共通善」となっています。そのほか、「お前は、日本人だから、和をもって尊しじゃ」とか。あるいは別の社会では「労働者階級の解放と救済のために生きることがプロレタリアのコミュニティの共通善だ」となりかねません。

コミュニティにおける「共通善」を、誰がどのように決めるのか。共和主義的な共通善のみが唯一の善というなら、単なる共和主義者です。この点が明快にならないと、リベラリズムのコミュニタリアニズムに対する心配はもっともだと思います。

■リベラリズムのもつ大人の距離感

ロールズ的「リベラリズム」って、現代民主主義社会において、各勢力(党派)がそれぞれ、<我こそが「善」>だとか、<我こそが「正義」だ>とかを主張して争うようになったため(「神々のたたかい」)、どっちが「正」か、あるいは「善」かなどという判断に立ち入らず、相互の自由と権利と民主的討議を経て調整する規範(ルール)を構築しようとしている思想だともいえます。コミュタニリアニズムって、このようなリベラリズムの大人の距離感を理解していないように思えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

スウェーデンが「解雇自由」だって?

■経済学者によると、北欧は「解雇自由の国」だそうです

著名な経済学者である方が、スウェーデン・モデルを論じて次のように書かれているそうです。

北欧の労働生産性が高いのは、解雇自由で労働移動がすみやかなことが原因といわれている。

■スウェーデンは社民党とLO(全国労働組合総連合)が作り上げた福祉国家

スウェーデンは、1928年には労働裁判所がつくられているそうです。ケインズなきケインズ政策といわれたミュルーダルのマクロ経済政策が有名です。また、スウェーデンの労働者の90%を組織する全国労働組合総連合(LO)のエコノミストだったレーンが推進した積極的雇用政策(レーン・モデル)も有名です。

そして1974年に、【雇用保護法】ができあがりました。こっちはあまり有名でない。LOの法律家であったオーメンの名をとってオーメン法と呼ばれるそうです。(なお、現在のスウェーデンは穏健党などの非左派系政府(2006年)ですが、社民党が長年にわたり政権を維持してきた歴史があり、スウェーデン福祉国家は社民党とLOがつくりあげたと言えます。)

この法律により、企業は従業員を正当な「客観的」理由なくして解雇することは認められなくなった。

生産の低下などによって解雇が避けられなくなった場合にも、一般的原則は長期間雇用者の雇用保障が優先され、45歳以上の従業員と障害者の雇用保障が優先されることになった。従業員が不当な理由で解雇されたと思う場合には裁判所に行って解雇の無効を宣言できる。そして問題が解決されるまで職にとどまることができる

やむを得ざる客観的理由によって解雇が必要な場合には、25歳以下の従業員の場合、解雇前1ヶ月の予告期間が必要であり、年齢が高いほど予告期間が長くなり、45歳以上の従業員には6ヶ月の予告期間が要請されるようになった。(丸尾直美著「スウェーデンの経済と福祉」中央経済社58~60頁・平成4年初版)

以上のとおり、スウェーデンは解雇自由の国ではまったくありませんでした。ドイツなどのヨーロッパ諸国のように解雇を規制し雇用保障を図る社会民主主義的な政策をとっています。

もっとも、完全雇用、福祉国家、強力な労働組合があるため、雇用保障政策の代償として1990年代は国際競争力を失い経済的困難にみまわれたことは事実のようです。とはいえ、基本的にヨーロッパ的な解雇規制(雇用保障)をもった社会民主主義経済体制(混合経済)だと思います。

スウェーデンを解雇自由の国と主張する経済学者の根拠は何なのでしょうか。ひょっとして、雇用保障法が最近に撤廃されて、ネオリベラリズムの政権ができあがったのでしょうか。そんなニュースは聞いたことはありません。でも、著名な経済学者が言うくらいですから、最新情報を調べてみた方がよいのかもしれません。

■JILの研究報告を見ると

と思って、ネットで探してみたら、JILの研究報告がありました(平成17年3月発行)。「労働条件決定の法的メカニズム: 7ヶ国の比較法的考察」です。そこにスウェーデンの状況がレポートされています。上記の私が昔読んだ丸尾直美先生の著作(平成4年初版)より、雇用保護法が規制緩和されて、有期雇用契約の活用が拡大されているようです。

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2005/documents/019_4.pdf

とはいえ、基本的な雇用保障である解雇規制は維持されています。やはり、解雇自由とするのは全くの事実誤認のようです。

■北欧であってスウェーデンのことではないって言うことかしら

なお、著名な経済学者が「北欧は・・・解雇自由」って書かれています。まさか、スウェーデン以外の北欧のことだって言わないでしょうね。同氏のブログの冒頭にはスウェーデン・モデルが指摘されているので、北欧の雄であるスウェーデンについて論じているとしか読めませんから。北欧を論じる以上、スウェーデンを除外したなんてことはないでしょうね。

★追伸/「スウェーデンの今」 佐藤よしひろ氏のブログ

スウェーデンに7年間、留学している研究者のブログがありました。大変に面白いブログです。

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/c1400edd87505af7feef5db2752875a7

『雇用保護法』(Lagen om anställningsskydd)(通称、LAS):1982年制定
- 解雇には“正当な理由”が必要。“正当な理由”としては、①与える仕事がなくなった、もしくは、企業に経済的な余裕がなくなった場合、②労働者自身の問題、つまり、業務における怠慢・不注意や能力不足など、に限られる。
- ①の理由で解雇を行う場合には、まず誰から切っていくか、つまり「解雇順序の規則」が決められている。俗に「Sist in, först ut (Last in, first out)」と呼ばれるように、勤続年月が一番少ない人から解雇されることになっている。勤続年数を数える場合には、45歳以降に勤めた年数は2倍されて算入される。つまり、中高年の労働者には有利な規則だが、これは再就職が比較的に難しい中高年の労働者を保護することを目的としている。

-------

財界や経営者団体、それから深い繋がりを持つ保守党などは、この面倒くさい『雇用保護法』自体を廃止してしまいたい。しかし、今の世論を考えた場合に、近い将来は不可能だ。(ただ、ここ数年、保守党もかなり大きな路線転換をして、より“労働者寄り”をアピールしている。これについては後ほど。)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年2月18日 (水)

東京新聞の「犯罪報道の見直し」

■東京新聞が裁判員裁判実施にあたって犯罪報道を見直す

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009021502000080.html

東京新聞(中日新聞社)は、今年五月の裁判員制度開始を前に事件報道のあり方を見直し、「事件報道ガイドライン」を作成しました。事件報道の意義を再確認するとともに、可能な限り情報の出所を示すなど記事スタイルを一部修正。バランスの取れた事件報道を目指します。

捜査段階では、「容疑者=犯人」ではないという原則をあらためて確認し、これまで以上に容疑者側の取材に努めて言い分を掲載していきます。
(2008年2月15日)

この事件報道ガイドラインとはどういうものなのでしょうか。被疑者・被告人=有罪視報道を止めるのは当然です。ただ、「容疑者側を取材して努めて言い分を掲載する」というのは少し違うのではないかと思います。双方の言い分を、報道すれば良いというのではないように思います。証拠に基づかない「推測」記事が公判前にあふれかえる事態こそが、裁判員裁判による適正な裁判にとってマイナスになるのではないでしょうか。

なお、公判が開始されれば、裁判の公開が憲法で保障されている以上、法廷での出来事については、マスコミは原則として自由に報道できるのですから。

■捜査機関の情報漏洩に対する規制強化を

現在、警察から漏れた(リークされた)と思われる、被疑者の自供(自白)の有無及び自供(自白)の内容などが詳細にマスコミで報道されます。いわゆるサツ回りという取材からの情報でしょう。多くは、「捜査関係者によると、」という枕詞で報道されていますが、一般には、報道された自供(自白)を真実のものとして受け止めているのではないでしょうか。

しかし、具体的な捜査情報を漏らすことは、本来、公務員の守秘義務に反しています。記者がいろいろ捜査情報をさくぐろうとすることは規制できないでしょうが、この情報源は公務員ですから、守秘義務違反として厳しく追求すべきです。戒告や停職などの懲戒処分の対象とすべきでしょう。特定することは難しいとしても、懲戒処分の対象とすることを鮮明にすれば抑止効果は期待できるでしょうし、情報が漏れた場合には守秘義務違反として警察内の独立した監督機関(監察官)が、関係者に事情聴取すべきです。捜査にもマイナスになるし、そのようなリスクをおかしてリークする者は少なくなるでしょう。

■弁護人の場合は

弁護人も依頼者の秘密について守秘義務を負っています。したがって、担当刑事事件の内容については、原則として公表できません。しかし、現在のように有罪視報道がなされている場合には、被疑者・被告人の利益のために言い分を公表したほうが良いこともあります。このような場合であっても、被疑者・被告人の承諾を得なければ公表できません。被疑者段階、公判が開始された被告人段階の違いもあります。被疑者・被告人の承諾を得ることを前提としても、何をどこまで公表すべきかは、弁護人にとって極めて難しい判断になります。

被疑者・被告人が否認をしている場合には、被疑者・被告人の了承を得た上、言い分を公表したり、また目撃証人を探すために積極的に記者会見をする場合もあります。これは、被疑者・被告人の権利を擁護するための正当な刑事弁護活動です。

時に、マスコミンに注目される事件については、弁護人が取材攻勢にあうことがあります。また、周知のとおり、マスコミや世論から弁護人が激烈な社会的なバッシングを受けることも珍しくありません。

裁判員裁判が開始した場合、社会的に注目される事件につき、マスコミにどう対応すべきか、弁護人は、より慎重に検討しなければならないですね。弁護人が一人だけで判断するのは困難でしょう。複数の弁護人が討議できる体制が必要だと思います。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年2月14日 (土)

ソマリア沖「海賊」対策としての海上自衛隊の派兵について

■なかなか難しい問題です。

「自衛隊は憲法9条違反であるから、ソマリア沖であろうと、瀬戸内海にいようと存在自体が違憲だ!」と切って捨てられれば、話しは簡単なのですが、そうもいきません。

自由法曹団が声明を発表しています。

http://www.jlaf.jp/jlaf_file/090203somaria-hehei-hantaiseimei.pdf

日本国憲法は、アジア・太平洋戦争の反省の上に立ち、非戦・非武装の恒久平和主義に立脚し、紛争の平和解決を目指している。したがって、たとえ日本船舶や日本向け物資を輸送している船舶が海賊に襲撃された場合であっても、軍事力によって海賊を制圧することは日本国憲法がおよそ予定していないものというべきである。

■う~ん。およそ予定していないって言えるか? 

憲法9条は、「国際紛争を解決する手段としては、戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を禁じただけですから、「ソマリア沖の海賊」が国際紛争(国家間の紛争)でない以上、「軍事力によって海賊を制圧することは日本国憲法がおよそ予定していない」と断言することはできないと思います。(もちろん、「軍事力を持たない日本国憲法だから、当然に予定していないのだ」と言えば、そのとおりですが、冒頭に述べたとおり、ここではそういう立場に立たないで、どう立論するかが問題なのです。)

例えば、日本沿岸で外国軍隊でない純粋な「民営海賊」が出没して日本船舶等を襲撃し、その海賊の武装・戦闘能力が海上保安庁の巡視船を凌駕している場合、海上自衛隊が制圧することは許されないのでしょうか。日本国憲法は、それを禁止するでしょうか。とても、そうは思えません。

自由法曹団でさえ、同声明の中で、次のように述べています。

海上警備行動は82条で「海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため特別の必要がある場合」になし得るものとしているが、自衛隊法3条の規定に照らせば、海上警備行動の範囲は、日本の沿岸付近に限定されているというべきである。

この部分を読めば、自由法曹団も、日本の沿岸であれば、自衛隊の海上警備行動を許容しているように読めますから、上記の「軍事力によって海賊を制圧することは日本国憲法がおよそ予定していないものというべき」との論述と矛盾しています。

となると海上自衛隊のソマリア海域への派兵は、憲法9条の問題ではなく、自衛隊法上の海外での海上警備行動の根拠がないという法律問題となるということになるのでしょうか。

■海外派兵を予定していない

私個人としては、自衛隊については、専守防衛に徹することで、憲法9条と折り合いをつけるしかないと思っていますが(現状の自衛隊の装備が専守防衛と言えるか、また日米安保条約という大問題があるのですが、それは今は措きます)、専守防衛である以上、日本の領海以外で軍事行動をとることは原則として許されません。

ですから、自由法曹団のいう「日本国憲法がおよそ予定していない」のは、「軍事力によって海賊を制圧する」ことではなく、「海上自衛隊を海外に派遣する」ことというべきでしょう。

ソマリア沖は、日本から遠く離れた海外ですから、海賊対策であっても、自衛隊を派遣して軍事行動はできません。相手は「海賊」ですから、憲法9条が禁止する「国際紛争」を武力で解決しようとするものではありませんが、自衛隊の軍事行動である以上、海外派遣は謙抑的でなければならないでしょう。

そこで、自由法曹団の声明は、冒頭の部分は次のように書き換えたほうが良いように私には思えます。

・・・したがって、たとえ日本船舶や日本向け物資を輸送している船舶が海賊に襲撃された場合であっても、海上自衛隊を海外に派遣して海賊を軍事的に制圧することは日本国憲法がおよそ予定していないものというべきである

■本音

現在の自民党政権は、憲法9条を改正を企図し、また、自衛隊を軍隊として米軍世界戦略に組み込もうとしています。しかし、将来、憲法9条1項を維持し、自衛隊を専守防衛に徹した組織として、中立政策を追求する政府(自衛・中立路線)ができた場合には、自衛隊法を改正し、海外での海上警備行動ができるようにすることに賛成します。しかし、今の自民党政権の下でのソマリア沖への海上自衛隊の派遣には反対です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月10日 (火)

信仰と裁判員裁判

■信仰と裁判員との衝突はありそうです

http://www.christiantoday.co.jp/main/society-news-806.html

今年5月21日から導入が始まる裁判員制度について、「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7:1、新改訳聖書)などと聖書に書かれていることもあり、自らの判断が他人の死刑に関与する可能性もある同制度にどのように対応するべきか、キリスト教会では一つの課題となりそうだ。

同制度が宗教界で議論を呼んでいると報じた読売新聞によれば、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団・神召キリスト教会(東京都北区)の山城晴夫牧師は、「様々な考え方があり得るが、非常に重い問題で、すぐには答えが出ない」と回答。まだ、明確な対応の仕方を見出せていないことを語った。

一方、カトリック中央協議会は同紙に対して、「私的な裁きは認められない」との立場を示したが、「法治国家の正式な裁判制度まで否定はしていない」と答えた。しかし、「被告の人権への配慮や国民の十分な理解が必要だと思う」と人権面での配慮の必要性を語った。

実際に裁判員が参加して行われる裁判は今年7月頃から始まる見通しで、同制度により国民が刑事裁判の審理・判決に参加することになる。同制度によって裁判所は今後、原則として裁判官3人、裁判員6人で構成されるようになり、裁判員は20歳以上の有権者から無作為に抽出して選任される。

同紙によれば、国民が刑事裁判に参加するという歴史が長い英国やドイツでは、聖職者の裁判への参加が法律で禁止されているという。一方、日本の同制度を定める「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)」では、宗教上の理由などにより「裁判参加で精神上の重大な不利益が生じる」と判断された場合は、辞退が認められることになっている。

アメリカ人、イギリス人、ドイツ人では、上記の聖書を根拠にして、陪審制や参審制に参加を拒否していないのでしょうねえ。そんな話は聞いたことがありません。キリスト教徒でもいろいろな考えがあるようです。

■法令上の義務と、信仰、思想良心の自由との衝突

この問題は、日の丸・君が代の卒業式等における教職員に対する起立斉唱命令と思想良心の自由の衝突と同じ問題といえます。

裁判員裁判への参加でなく、マリア像を踏めという義務であれば、当然、違憲です。これはマリア像を踏むという外形的行為が、信仰を直接否定する内容をもっているからです。

それでは、裁判員裁判に参加義務についてですが、裁判員裁判への参加義務は、直接的に信仰を否定せよとの内容とはいえません。しかし、上記聖書の一節を根拠とすれば、裁判員裁判への参加拒否は信仰の中核といえますから、その教義に反する行為を義務づけることになり(拒否に刑罰を科することは強制にほかなりません)、憲法20条を根拠に裁判員裁判の参加への義務は、この信者には免除されることになるでしょう。

とはいえ、これは個別の裁判員義務免除ですから、制度として裁判員裁判が違憲となるものではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 8日 (日)

読書日記 「格差はつくられた」ポール・クルーグマン著

早川書房 2008年6月25日発行 2009年1月31日読了

もう大変に有名な著作を、遅まきながら読みました。

41iacscrcql_sl500_aa240_

米国で、福祉国家や社会保障が制度化されないのは、人種種別が底流にあるからというビックリするような、でもあまりに単純なお話しにはやはり驚きます。

すべての根源は、アメリカの人種差別問題にあるということである。今でも残る奴隷制度の悪しき遺産、それはアメリカの原罪であり、それこそが国民に対して医療保険制度を提供していない理由である。先進諸国の大政党の中でアメリカだけが福祉制度を逆行させようとしているのは、公民権運動に対する白人の反発があるからなのだ。

であれば、オバマ氏が新大統領になったからには、米国もヨーロッパ並みの福祉国家になる方向に大きく舵を切るということになるわけでしょうか。

クルーグマンは同書で、「保守派ムーブメント」を打ち負かすために、労働組合運動の再活性化と進歩派ムーブメントの結集を呼びかけています。

■労働運動の力、大圧縮の時代と大格差社会の時代

1930~50年代の「大圧縮の時代」と、現在の「大格差社会」との労使関係の違いを、「デトロイト協定」の下でのGMのCEOと労働者の格差と、現在のウオルマートの格差を対比している。

GMのCEO チャールズジョンソンの報酬は約430万ドル(現在に換算)
GMの労働者の平均年収は約4万ドル(現在に換算)

ウオルマートの会長リースコットの報酬は約2300万ドル
ウオルマートの労働者の平均年収は約1万8000ドル

なぜ、このような格差が許容されてきたのか。クルーグマンは次のようなコメントを紹介しています。

あるヨーロッパの企業コンサルタントがこう指摘している。「ヨーロッパでは(CEOの巨額の報酬に対する)社会的な反発がかなり考慮されるが、アメリカには羞恥心というものがないのだ

クルーグマン教授は、この格差が技術革新やグローバリーゼーションの結果ではないと言います。なぜなら、ヨーロッパも技術革新やグローバリーゼーションの影響を強く受けているが、米国のような格差拡大はしていないからと言います。

つまるところ、技術やグローバリーゼーションよりも制度と規範がアメリカにおける格差拡大の大きな原因であるという強い状況証拠がある。制度的な変化の良いれは、アメリカの労働運動の崩壊である。

そして、格差拡大を阻止して、圧縮の方向に変えるために労働運動の再活性化の措置をとることを断言しています。

最も重要な方策は、30年間に及ぶ労働組合に対する政府の締め付け政策を終わらせることである。

クルーグマンによると、アメリカでのリベラル派と進歩派とは次のように定義されるそうです。

リベラル派とは不正や格差を抑制する制度を信じる人々のことである。進歩派とは、それらの制度を擁護し拡大しようとする政治組織に参加する人のことである。

■日本では

日本では、労働運動に期待を寄せると言っても、悲しいかな、労働組合こそが正社員の利益しか守らないなどと非難されています。

1985年の国鉄分割民営化による「労働運動つぶし」は政府・企業の一大政策でした。1989年、総評が解体し、連合が「全的統一」されることによって、戦後の左派労働運動が大縮小したことは間違いありません。この25年間、経営者や政府がコントロールできない労働運動は締め付けと排除の対象となってきました。

同時に、それは民間大企業の中軸をになってきた労働者たち(=大企業労組)が経営陣との妥協(企業主義的妥協)を選択した結果にほかなりません。

このような一時代をくぐった日本で、「労働運動の再生」とは、一工夫が必要なのでしょうねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »