■自由人権協会 裁判員裁判シンポジウム の傍聴
6月1日(土曜日) 自由人権協会の裁判員裁判シンポジウムを聞いてきました。
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http://www.jclu.org/file/2008soukai-simpo.pdf
シンポジストは、次の3人の法律家です。
裁判員裁判反対の急先鋒の【高山俊吉】弁護士!
受けてたつのは、日弁連裁判員裁判実現本部の【小池振一郎】弁護士!
そして、現職の神戸家裁の判事で30年以上刑事裁判官であった【伊東武是】判事
伊東判事は刑事裁判官であり、裁判官ネットワークの会員でもあります。
司会は、小宮悦子氏でした。
■三者の共通点
裁判員賛成論と反対論の論争は、擦れ違いのみが目立つのですが、このシンポでは一致した点があります。
それは、戦後60年、日本の刑事裁判が、自白偏重裁判、調書裁判であり、このような刑事司法は根本的に変革されなければならないという点が三者の共通認識だったということです。
著名な刑事訴訟法の泰斗である平野龍一教授が、「日本の刑事裁判は絶望的である」と論文に記載したように、代用監獄を使う自白強要、人質司法、調書裁判、無罪推定どころか有罪推定の原則が支配しているのが日本の刑事司法なのです。代用監獄廃止の運動に正面から取り組んできた小池弁護士がこの点を強調していました。
ところが、最高裁・法務省は、日本の従来の刑事司法は何も問題がなく、そのことを国民に理解してもらうために裁判員裁判があるとの認識です。この点は小池弁護士と全くスタンスが異なります。
この従来の日本刑事司法を抜本的に改善しなければならないという点は、シンポジスト三者の共通点でした。
■その上での、賛成論と反対論
戦後60年続いてきた調書裁判、自白偏重裁判を変える契機になるのが、裁判員裁判である、とする小池弁護士と伊東判事。
これに対して、そのような可能性があるなどと考えるのは「お人好しである」とする高山弁護士との論争でした。
日本の国民が裁判官に抗して人権を守る裁判なんかできるわけがないし、そのような制度的な担保はないということです。
高山弁護士は、現状の刑事裁判のもと、たたかう弁護士と国民の裁判批判の運動を強めるなかでこそ、つまり反権力闘争の中でこそ、刑事裁判を変革できると言います。
他方、小池弁護士は、有罪慣れした職業裁判官を変えるためには、国民が裁判員になることで刑事司法の改革に向けて局面を変える可能性があると強調します。
伊東判事は、職業裁判官は、多くの事件に接しているために、どうしても類型化した判断にこだわる。他方で、裁判員は、一つ一つの事件の特質を充分に検討して判断をするのではないか。その普通の国民を信頼して裁判員裁判を通じて、刑事司法を改善しようと発言されていました。
裁判官ネットワークに加盟する裁判官らは、最高裁からは覚え宜しくない方々です。物言う人間は、組織からは疎まれるのが日本の現状です。
現職の裁判官である伊東判事が、このようなシンポに参加されること自体、裁判官の組織では勇気のいることであり、最高裁や法務省におもねっての発言ではありません。
■裁判員裁判をどう考えるか
私は、裁判員裁判を通じて日本の刑事裁判を改革するという小池弁護士の意見に賛成です。裁判員裁判は、妥協の産物です。しかし、その裁判員裁判を最高裁や法務省の言うように官僚司法のイチジクの葉にするのか、それとも、刑事裁判を圧政の道具にするのではなく、国民の権利をまもる制度にするのか。これからの実践で答えを見つけるしかありません。
私は、中央大学で刑事訴訟法を渥美東洋という教授に習いました。渥美教授は、「古来、刑事裁判は政府の圧政の手段であった。しかし、刑事訴訟法は、政府の圧政から人民の自由を守るためにある」と論じていました(渥美教授は、後に司法試験委員になった方ですが、その後、その学説が随分変わったという印象です。)。
裁判員裁判が、「政府の圧政の手段になるのか、国民の自由をまもる手段になるのか」が、これからのたたかいにかかっていると思います。少なくとも、裁判員裁判に反対して、その実現を阻止したとしても、刑事司法は何も変わらないことは間違いありません。
なぜなら、裁判員裁判に反対する国民世論は、刑事司法を改善すべきだという問題意識は全くありません。ただただ「面倒なことに関わりたくない。」「職業裁判官におまかせしたい」という一点だけですから。裁判員裁判反対運動も、「国民世論が反対している」というだけです。刑事裁判の改善を国民に訴えるという志を持っていません。
このことは西野喜一新潟大学ロースクール教授の本を読めば良く判ります。彼は要するに「無責任な町のオジサン、オバサンらに裁判など無理。職業裁判官に任せておけ」」とか、「粗製濫造のロースクール出の粗末な刑事弁護人がやる裁判員制度などとんでもない」などと言っているのです。これこそが官僚裁判官たちの本音でしょう。
西野本の酷さについては、次のブログを見てください。
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http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2007/09/post_ece8.html
■「妥協はすべきでなかった」か?
小池弁護士が、司法制度改革のなかで、裁判員裁判が職業裁判官3名に裁判員2名という形で決まりかけたとき、陪審制を主唱していた日弁連が動いて、裁判員6名と押し返した。その意味で、政治的妥協の産物であると説明しました。
小宮氏は、「妥協しなければ良かったのではないですか」との意見を述べておられました。
しかし、現実の情勢を見れば、日弁連がただ「陪審制であるべきだ。」と突っ張っていても、結局、職業裁判官3名と裁判員2名というかたちで押し切られたでしょう。多数派である政府与党は裁判員裁判を導入したでしょう。そうなったとき、反対した日弁連は裁判員裁判の制度設計から完全に排除されます。そして、、影響力を行使することができなくなったでしょう。そうなると、最高裁・法務省のなすがままです。
その意味で、小宮氏の「妥協すべきでなかった」という意見には賛成できません。非妥協的な対応は、「最後までラッパを吹いていました」という破れかぶれの旧日本皇軍的な精神主義の「玉砕戦法」であり、無謀な特攻作戦でしかありません。
現実の刑事実務に責任を負う日弁連としては、黒か白かでなく、100%でなくとも、60%でも50%でも成果を獲得し、将来の足がかりを確保するという戦術をとるしかありません。ですから、現実の情勢を見れば、「妥協」は賢明な策でした。
■高山俊吉先生について
私が司法修習生(38期)のころ、高山先生は青年法律家協会事務局長でした。東京修習であった私たちは、高山先生にくっついて、刑事弁護(業務上過失事件、殺人事件)を傍聴し、勉強しました。交通事故事件の緻密な分析、警察官への反対尋問、法廷での弁論はすばらしく勉強になりました。いつもはマシンガン・トークの高山先生ですが、法廷では、速記官と呼吸をあわせながら、丁寧かつ、じっくりと証人尋問をされていたのが今でも印象に残っています。
ですから、本来、高山先生こそ、裁判員裁判で裁判員を説得できる刑事弁護人の一人だと私は確信しています。
高山先生の最後まで変わらない裁判員裁判阻止の弁舌を聞きながら、本当は、先生の裁判員裁判での刑事弁護を見てみたいと言いたかったです。こんなことを言うと、高山先生は、苦笑いされるでしょうね。
なお、私とは反対に裁判員裁判批判の見地からのwebがありましたのでご紹介しておきます。
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http://www.news.janjan.jp/living/0806/0806028550/1.php
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