労働法の復権と「隔差社会」
■格差社会とワーキング・プア
2007年は、この労働契約法が制定されただけでなく、最低賃金法の改正や、ホワイトカラー・エグゼンプションの労基法改正が社会的に注目された1年であった。その社会的背景には、言うまでもなく、最近の格差社会とワーキング・プア問題がある。
労働法制の変容は、現実の<企業社会>、<雇用社会>の変動の結果でしかない。労働法の「弾力化」「雇用流動化」が、この10年間にわたり進められてきた。その結果が明らかになることで、「振り子」が元に戻るように、「格差」「貧困」がマスコミで大きく報道されて、政治的な課題として議論がされるようになった。
今から2年前、このようなマスコミ状況が生まれるとは、多くの人々は予測していなかったと思う。私のように労働者側に立つ弁護士たちや労働組合は、同じ問題を十数年前から、ずっと訴えてきたつもりであったが、なかなか受け容れられてこなかった。ところが、今や堰(せき)を切ったように報道されている。中には、ワーキング・プア時代を生きる処世術などのハウツー本まで登場している。
■格差社会と隔差社会
「格差」のない社会はない(小泉前首相の言うとおり。マルクスも近代以降は全て階級闘争だと言いました。)。日本では、高度経済成長時代にも「格差」はあった。しかし、ずっと今までも大企業と中小企業の間に横たわる労働条件の「二重構造」が是正されたこともなかった。
しかし、今の「格差社会」化は、日本を「隔差社会」化するものだとの指摘されている(橋本治『日本の行く道』集英社新書)。単なる格差でなく、「負け組」が「勝ち組」から隔絶されてしまうというのである。まさに、階層化にほかならない。
話しは飛ぶが、小・中学生の勉強時間を調査した文科省の調査結果を見て驚いたことがある。学校以外にまったく勉強時間をとらない小中学生が半数近くいるのである。深夜まで塾に通う「お受験組」は少数派なのである。つまり、勉強時間も二極化している。今の日本の子どもたちの問題は、学ばなくなったということなのだという(佐藤学『「学び」から逃走する子どもたち』岩波ブックレット)。
これは「ゆとり教育」の影響なのかもしれないが、しかし本当の理由は「努力してもしょうがない」という意識が社会全体に浸透しはじめている結果のような気がする。まさに、隔差社会の無力感を子どもたちが先取りしているかのように思える。もし、そうであれば社会にとって重大な事態であろう。
■労働法の復権
労働法は、対等の当事者が競争することを前提とした「自己責任の論理」の修正を目指すものだ。この原点を喪失するのであれば、労働法が労働法でなくなる。経済も社会も変動する。しかし、安定した雇用と公正な労働条件を決定する「労使の均衡点」を労働法という枠組みで探求することこそ必要である。市場原理主義への反省が語られる今、「労働法の復権」が望まれる。
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