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2008年2月22日 (金)

読書日記 「占領と改革」 岩波新書 雨宮昭一著

2008年1月22日第1刷発行
2008年2月18日読了

岩波新書の「シリーズ日本近現代史⑦」です。

■極めて強い違和感

占領改革は,今までサクセスストーリーとして語られてきたというトーンで書かれています。そして,そのサクセスストーリーを語ったのはジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」が典型だと言います。(同書前書きⅣ頁)

この著書に違和感を感じた部分を挙げると次のとおりです。

総力戦体制の中で女性の地位は,非常に向上していた。…だから占領軍に指摘されようとされまいと,女性の社会的な地位の向上と発言権の拡大がすでにあって,遅かれ早かれ婦人参政権の付与はありえたのである。(同書本文40頁)

1920年代に労働組合法をつくった内務省社会局と労働運動や農民運動…さらに総力戦体制の中で具体的な生産をおこなう労働者の地位向上ということを考え合わせると,占領がなくても遅かれ早かれ労働組合の結成ということはありえただろう。(41頁)

オイオイ,「遅かれ早かれ」って,どのくらいだよ? 

「歴史にイフはない。歴史家はイフを語ってはいけない」のではなかったっけ。歴史学は歴史現象の因果関係を語る学問である。歴史上の結果について,どのような事情や要素がどれほどの影響を与えたかを検討するのが歴史学である。イフを語るのは歴史学ではないっていう本を読んだことがあります(E.H.カーだっけ?)。この著者は全くそんな考えはないようです。

敗戦によって,神道の権威の凋落は明らかであった。したがって,これも国家と神道の分離の仕方が,GHQの指令したようになるかならないかはともかくとして,少なくとも戦時中のような形での癒着そのものは,GHQが神道指令を出そうと出すまいと,もう少し時間はかかったかもしれないけれども,分離がありえたと考えるべきではないか。(44頁)

オイオイ,どんな根拠でそう言うのでしょうかね? もう少し時間がかかったて,一体,何十年かかったのかね。

天皇の戦争責任について言うと,少なくとも占領期にはその意思があったにもかかわらず,アメリカによって阻止され,政治体としての自立性を奪われたといえる。

オイオイ,昭和天皇は,戦犯訴追を逃れるために退位を言ったのであって,訴追を逃れた後は,退位をするつもりは全く無くなったということではないのでしょうかね。

総動員体制の時代に社会国民主義派と国防国家派がかなりの程度その方向を追求していたものである。したがって,非常に奇妙なことに思えるかもしれないが,占領軍のニューディール派を中心とした占領改革と総力戦体制は実は同じ方向を向いた政策だったことがわかる(63頁)。

えー?私が大学時代に教わった教授(シュミットとHケルゼンの研究者でした)は,ナチズム・ファシズム国家体制,アメリカのニューディール体制,軍国日本の総動員体制,ヨーロッパ福祉国家体制,ソビエト社会主義体制をすべて<全体国家>という概念でくくっていましたっけ。(全体「主義」国家じゃないっすよ。)

現代国家論ってやつですかね。でも,それは政府と国家機能の肥大化を著すものであり,「戦争をめざす方向」(ナチズム,ファシズム,日本の国家総動員体制)と,「ニューディール体制」「福祉国家体制」が同じ方向を向いているなんてことはあり得ないのではないでしょうかね。

■日本国憲法も

この著者は,何だか占領の権力をできるだけ小さく見せて,そんでもって「日本人の誇り」をとりもどすという「心理的な願望」のために,事実を見る目がずれているでのはないでしょうか。

憲法制定プロセスもこんな調子です。

日本政府および日本の主要政党が,「旧態依然」「反動的」「保守的」だから,占領当局が憲法を押しつけたのはやむをえない,「正当」だったということがよくいわれてきたからである。この論理は,日本政府や正当が「旧態依然」であるとのGHQによる評価に依存していると思われるが,それが自明なのか検討してみよう。(85頁)

と言って,要するに,GHQの介入がなくても,敗戦国として民主的な憲法が作られたのだと主張したいようです。しかし,この著者の憲法論のレベルは次の部分のようなレベルです。

(毎日新聞がスクープした松本委員会試案の)「日本臣民は言論,著作,印行,集会及び結社の自由を有す,公安を保持する為に必要なる制限は法律の定むる所による」(第29条)のごとく,大日本憲法と異なって,その制限は明確な法律に基づく等々の条項もあった(72頁)。

「法律の留保」があれば,戦前総力戦体制が続く日本において,言論の自由などの精神的自由が守られるという著書の認識は,憲法学的には極めて保守的ですね。(「法律の留保」があれば人権尊重になるという見解ですが,日本国憲法は法律だからといって人権を簡単に規制できない仕組みです。人権を規制する法律の憲法適合性を司法に認めているという意味で、徹底した立憲主義です。法律の留保は、法律の範囲内でしか、人権を認めない結果になりがちなのです)。

■政治権力を握ることとの質的違い

この著者は,この本で,日本人の知識人や政治家や社会運動家らが,労働法や憲法や,教育などでモロモロ,良いアイデアや意見を出していることを一生懸命,列挙しています。しかし,問題は,そのような知識人や社会運動家,政治家の言説が,具体的な政治闘争を経て,政治権力を獲得して実現できたのか,ということこそを論ずべきでしょう。

リアルに見る限り,占領権力という当時の超越的権力がない限り,上記の思想・理想(婦人参政権,労働者の権利,政教分離,民主主義の徹底,人権尊重など)が,この日本社会で具体的制度として確立することはありえなかったと思います(遺憾ながら。でもそれが現実でしょう。)。この著作には,そういう政治権力をめぐる政治闘争のリアリティが全く欠如していると思います。

その心理的背景は,「占領改革で民主主義が成立した」という,日本の戦後民主主義の出生の秘密(生まれのいかがわしさ)に耐えきれないのでしょう。(岸田透氏の言うところの「強姦民主主義」って奴です。)

ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」や「容赦なき戦争」ではその暗喩がありますね。戦前日本は暴力的なオス・ゴリラやオス・ザルとイメージされたが,敗戦後は「芸者」「女」とイメージされていると言います。

そこで,この著者は,占領期日本に確かに存在した力の弱い民主派や自由派の知識人・運動家らを大きくとりあげて,心理的平衡を得たいということなのでしょう。

でも,事実をリアルに見れば,日本国憲法はGHQに押しつけられたのであり,旧支配層は天皇制の温存と権力の維持のために,日本国憲法を天皇制擁護の避雷針である「9条」とともに受け入れただけです。この点は護憲派のように,歴史をごまかさないで,はっきり認めるべきでしょう。

日本国内に,民主主義者や自由主義者がいようといまいと,その占領政策は貫徹されたと思います。つまり,それを武力を用いて抵抗するような勢力(所詮,今の右翼は米国に尻尾を振った連中)が日本にいなかったということです。(「反米」は,元皇軍の親米右翼ではなく,「愛国と平和」の左派勢力であった。-小熊英二著「民主と愛国」)。

■イフを語るべきではない

問題は,歴史のイフを語るのではなく,それがどのように日本的変容を受けたのかということであり,それには,どのような事情がどの程度,影響を与えたのかということを冷静に分析することでしょう。この著者のように,「占領がなくても,日本の民主化が進んだのだ」などと語るのは,結局,単なる歴史的自慰行為にしかすぎないように思います。

あの岩波書店が,このような新書を「占領と改革」として出版する世の中になったのですなあ。

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コメント

「占領と改革」には僕もひどくがっかりしました。
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」の中では,1巻の「幕末・維新」と5巻の「満州事変から日中戦争へ」が面白かったです。
1巻は,幕末,江戸幕府で米欧との外交交渉に携った役人達が,的確な国際情勢分析の上にたって,万国公法も武器にして毅然としてわたりあい,現実的な成果を勝ち取っていく姿が当時の資料をもとに紹介されていました。非現実的な原理論をふりかざす尊皇攘夷派,朝廷派との対比が印象的。
5巻は,あの加藤陽子教授の本。期待に違わぬ内容でした。国民が戦争を受入れていくまでに至ったのはなぜか?天皇,内閣,外務省,軍等々の当時の情勢認識を克明に追いながら,戦争になだれ込んでいく過程が実によく分析されていると思いました。
面白かった本も紹介しておかないと,岩波新書の編集者が気落ちしてしまったら気の毒なんで紹介してみました~。

投稿: す | 2008年4月 9日 (水) 05時42分

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