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2007年11月18日 (日)

新「教育の自由」論争 堀尾輝久教授「世界」12月号論文

■堀尾輝久教授 「世界」12月号論文-「国民の教育権論と教育の自由」論再考

○西原博史教授「世界」5月号論文に対する堀尾教授の反論です。
教育の自由を,教師の教授の自由と同義として把握し,あろうことか,「教師集団の子どもに対する権力の行使にほかならない」と把握する立論に対して反論をされています。

私は,西原論文の難波判決批判は,法律家が守るべき判例評釈の基本ルールを逸脱したトンデモ部類に入ることを以前ブログで批判しました。http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2007/04/post_c33a.html

でも私は教育法学についてはまったくの素人です。その点からの批判は手に余ります。

今回,教育学・教育法学の泰斗の堀尾輝久教授が,「世界」12月号に,教育法学からの西原論文に対する徹底的に批判する論文を書かれています。西原論文を,抑えた筆致で丁寧に,かつ毅然と論破されています。

○「私事の組織化」と「教育の自由」
堀尾教授は,教育の自由を,公権力が内容に介入してはならないという意味で「私事」であると同時に,公教育は「私事の組織化」だと位置づけられています。

教育の自由とその自律性は,精神の自由を前提に,子どもの学習の自由,教師の研修と教育実践の自由,親の教育選択と参加の自由,教育行政の条件整備の責任,さらに国家権力の教育内容への不介入の原則を含んで成立する。

○広い意味での教育の自由

つまり,堀尾教授は「教育の自由」を狭い「教授の自由」の同義ではないことを強調されます。子どもの学習権・学習の自由を中心として,教師の自由,親の自由,それらの諸条件を整備する教育行政という全体の枠組(「自由な領域,空間」=freedom of education)を意味しているということです。「日の丸・君が代」訴訟原告団・弁護団の合宿でも強調されていました。

■樋口陽一教授の「教育の自由」論争のコメント
樋口陽一教授(憲法学)が,政教分離と公教育を論じる中で,日本における「教育権論争」について触れています(「国法学-人権原論」2004年有斐閣)。樋口教授は,公教育を「私事の組織化」としてとらえる堀尾教授とは,視点が違うようです。

○フランスにおける「政教分離」と「公教育」
フランスでは,大革命以後,強大なカソリック権力(宗教権力)に対して,共和派政権(世俗権力)が,宗教権力の教育権を奪取し,公教育の場から宗教色を排除し「市民」(自立する市民)を創出しようとしてきた(つまり,「共和派的価値感に基づく人民教育」ということ)。

だから,フランスでは「教育の自由」と言うと,「親の自由=信教の自由=自分の信仰に従って子を育てたい」という趣旨であったといいます。公教育は,この(私事としての)「教育の自由」との対決であったそうです。ですから,フランスでは「政教分離」を主張するのは国家権力の側であって,個人の側ではなかった。

○日本では
ところが,日本では宗教権力は常に世俗権力に従属してきた。国家(明治政府)によって作られた「国家神道」をイデオロギーとして利用してきた歴史だとします。靖国神社や護国神社は,「軍人の士気を高める」という目的のための宗教施設(イデオロギー装置)です。(だから西郷隆盛や会津藩士のように明治政府の敵(国賊)が合祀されていません)。

ですから,日本では「政教分離」を主張するのは個人の信仰の自由を主張する側であった。(フランスとは逆ですね。少数派である個人が政教分離を主張することになります-自衛官合祀事件,愛媛玉串料事件等々。)

以上のとおり,樋口教授は,「歴史的文脈」と「社会状況」に応じて,「政教分離」の法理も,まったく異なる様相を呈することを指摘しています。同じことが,「教育の自由」にもあてはまります。【※1】

【※1 堀尾教授の世界12月号論文の中で,田中耕太郎(当時の文部大臣)が次のように述べたことを紹介されています。

(田中は)教育の自由の原型を家庭教育への国家の不干渉に求め,「国家的立法を以て教育の目的に関する示す」のではなく,「教育に従事する者が良心と良識に従って教育の目的」を判断すべきである。この視点からすれば,「教基法1条の目的規定はその限界を超え,近代国家の常態からみれば,「変態的」なもので,教育が権力的に押しつけられてきたわが国の「固有の歴史的事情」に起因する「異例の」ものだ。

軍に都合の悪いことは教えないというわが国の「固有の歴史的事情」が現在も変わらないことは,未だに沖縄戦住民集団自決に日本軍が関与したとの教科書記述を削除した政府・文科省の措置を見れば明らかです。】

○日本における「教育の自由」と「教育権」論争
「国民の教育権」と「国家の教育権」の論争に関して,旭川学テ最高裁大法廷判決が,双方を「極端かつ一方的」としたことを樋口教授は評価しています。で,次のように記述しています。

もともと公教育は,家族の私事であった次世代の育成にかかわりをもつことであるから,その存在そのことがすでに,なんらかの「国家的介入」を意味するはずである。その意味で「自由かつ独立の人格の形成」をもって「介入」の目的と限度を画するものとするのは,日本国憲法下の公教育像として適切であろう。

「国民の教育権」論は,しばしば「教師の自由」として主張された【※2】。そこでは,自由の主張という形式がとられていても,公権力したがって公教育そのものからの自由が要求されたのではなく,あるべき教育内容を充填する権利が,問題であった。【※3】

その意味では,「国家の教育権」と「国民の教育権」の主張は,公教育のあるべき内容をめぐる対立にほかならなかった。

だからこそ現在の「沖縄戦における集団自決」を旧日本軍が強制したかどうかに関する教科書の記述に関する争いは,まさに,このような「公教育」の内容に関する意見の対立にほかならないということでしょうね。

【※2 この立論は,西原論文的理解と共通性がありますね。国民の教育権論=教師集団の教育の自由論が相当広く(誤解か正解かはともかく)浸透しているということです。これは「国民の教育権」の弱点なのでしょう。】

【※3 「但し,教師個人の例えば国旗・国家行事の拒否,などに対し,行政上の懲戒や
場合によっては刑事制裁が科されることに対する関係では,正真正銘の「からの自由」が問題なものもあった」ともされています。】

■「教育の自由化」(新「教育の自由」論争)
他方で,樋口教授は「教育の自由」には,「公教育」の存立そのものを争う立場があると指摘します(フランスの「親の自己の信ずる宗教教育をする自由」)。それは,日本では,「規制撤廃」,「開かれた学校」という「市場」の論理からの「公教育からの自由」が自己主張をすると指摘しています【※4】。

本当は,これこそが,今後の「教育の自由」論争の中心論点(新「教育の自由」論争)でしょうね。「日の丸・君が代」問題より重要だと思います。もちろん,「子ども中心」とか「教師中心」とか何とかは,コップの中の争いにしかすぎません。

【※4 堀尾教授も,新自由主義の「教育の自由化」は,受益者負担と親の選択の自由,市場原理の教育への導入が言われており,これは「公教育の否定」であると指摘されています(「教育は強制になじまない」2006年大月書店】

■堀尾論文の方向性
堀尾教授は,「国家の教育権論と国民の教育権論の対立としてとらえることに疑問を呈してきた」とされています。国民主権のもと,教育権が究極的には国民のあることは文科省にとっても,「自明のこと」であり,問題は国民の教育権の内容を,誰がどのように決めるかが問題だとされています。

そして,子ども中心主義とか教師中心主義とかという卑小な対立が論点ではなく,「国民の学習・教育権と教育の自由」論の再構築を目指すべきだとされています。

先述した原告団・弁護団合宿で,その視点での憲法の人権条項の読み直しを提唱されていました。例えば,「憲法23条の学問の自由は,学者と研究者の「学問の自由」と理解されてきたが,国民一人一人が「学問の自由」,自ら学び研究する自由を持っていると読み直すことができるのではないか」と提起されていました。

■古典的人権論の範疇
もっとも,現在,訴訟で争われている東京の「日の丸・君が代」起立斉唱の強制は,上記のような教育法学の難しい話しではなく,本来は伝統的な「国家からの自由」の問題だと思います。

「日の丸」「君が代」への起立斉唱を「指導」に対して,教師が,「皆さんには憲法19条に基づく思想・良心の自由があります」と学校で説明することを禁じ,これは「不適切な指導」であるとするのが東京都の主張です。(このことは何度も繰り返しブログで書いていますが,「内心の自由」を説明した教師は厳重注意や処分や研修命令を受けるのです)。

オイオイ,これが21世紀の日本かよ。 まるで戦前の軍国日本か,中華人民共和国か,朝鮮人民民主主義共和国じゃないか!(東アジア・家父長的=儒教的=全体主義的=権威主義国家という類型があるのかしらん?)

このような都教委の通達・命令が,「教師の教育の自由」に対する侵害になることは明白だと思うのです(儒教的・律令的・官僚裁判官奴はそうは思わないようですが)。

これに対して,教師個人の不起立・不斉唱自体は,「教師の教育の自由」の問題ではなく,教師個人の思想良心の自由の問題だと思います。ただし,堀尾教授は,広い意味での「教育の自由」に含まれるとされています。

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