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2007年9月29日 (土)

またまた「日の丸」「君が代」裁判

東京都の日の丸君が代関連事件の一つです。

卒業式・入学式の「君が代」斉唱の際に、「日の丸」に向かって起立して「君が代」斉唱せよとの職務命令に反して、起立しなかったことを理由に、定年後の再雇用職員の採用を拒否されたことが、違憲違法であると訴えた裁判の最終弁論をしました。

「君が代」強制・嘱託不採用訴訟 結審 「学校追放許されぬ」 原告陳述
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-09-28/2007092814_02_0.html

350頁にのぼる最終準備書面を提出し、9月27日に、最終弁論をしました。原告2名の意見陳述、原告代理人2名が弁論。私も、最後に次のような弁論をしました。

弁論要旨

東京地方裁判所民事19部合議B係 御中
                                                                      
                                                                     
1 国旗国歌を尊重することは当たり前ではないか。教師ならなおさらではないか、と多くの日本人がそう思っているのでしょう。フランス人は、自由・平等・友愛の象徴である三色旗と国歌「ラ・マルセイエーズ」を誇りに思っています。アメリカ人の多くも、自由と正義の象徴である星条旗と国歌「星条旗よ永遠なれ」を誇りに思っているのです。中国人も韓国人も、それぞれの価値観に基づき自国の国旗国歌を誇りに思っていることでしょう。

    しかし、原告らには残念なことに、わが日本の国旗国歌は「日の丸」「君が代」と法律で決められてしまいました。もし、わが国の国旗国歌が、日本国憲法の人権尊重と平和主義を象徴するようなものであれば、原告らは起立したのかもしれません。(それでも強制には反対するでしょうが。)

2 「日の丸」「君が代」は、原告らにとって、血なまぐさい過去の日本の侵略戦争に結び付くものです。いわばナチス政権時代のドイツ国旗であったハーケンクロイツの旗と同様の意味をもつのです。多くの日本人には理解しがたいでしょう。しかし、世界の人々、特にアジアの人々から見れば、「日の丸」「君が代」は日本の侵略戦争と不可分に結び付いています。日本人としては認めたくないと考えるのも当然かと思いますが、残念ながら、これが一般的には歴史的現実です。
    証拠で明らかにしたとおり、石原慎太郎都知事に任命された横山洋吉教育長は扶桑社版「新しい歴史教科書」の採択を推進する自民党主催の集会やシンポに何度も出席しております。また、横山氏と同じ考えを持つ、鳥海巌東京都教育委員会委員は、原告らを「がん細胞」と呼び、根絶やしにする旨を公言しました。「日の丸」「君が代」の暗い歴史は、戦後62年を経過しても、彼らを通じて連綿として続いているのです。このような人物らが10.23通達を企図し発令したのです。

3 原告らは、不幸なことに、わが国の国旗国歌を尊重するということと、自己の信念とが矛盾することになりました。「日の丸」に向かって起立し「君が代」斉唱せよとの命令は、原告らの思想良心の中核部分を侵害するものです。ピアノ伴奏拒否事件の最高裁判決の論理に立っても、本件は思想良心を侵害する場合に該当することを最終準備書面にて論じました。

4 さて、都教委は、教師が卒業式・入学式等で起立しないことは、「儀式の厳粛さ」や「学校の規律と秩序」を乱すと非難します。「教育には多少の強制がつきもの」、「教師が生徒に範を示すことは当然だ」と言います。また、少なくない人たちは、内心では反対しながら、「形式だけ、マナーの問題だから起立すれば良い。面従腹背で良いではないか」と起立しました。しかし、原告らにとっては思想良心に密接に関係した事柄なのです。英単語の暗記やスポーツ大会の入場行進とは話しが違います。ですから、原告らは、面従腹背をせずに、敢えて、静かに、ただ座ったのです。(なお、私が今の都立校の教師なら「悪法も法なり」と言い訳して、自己保身のため起立すると思います。とても、原告らのような勇気はありません。)

5 アメリカの憲法判決にラッソー事件があります。星条旗に対する敬礼と忠誠の誓いを「偽善だ」と拒んだ美術教師ラッソーが免職されました。連邦控訴裁判所の裁判官たちは、国旗忠誠のプログラムは維持されるべきであり、ラッソーの考えを共有しないと明言しました。がしかし、免職は違憲であるとしました。裁判官たちは「不快な考えであっても、憲法は保護を要求することを認識しなければならない」、「強制される愛国主義は、偽りの愛国主義である」、「信念が誠実で良心的なものである市民」が忠誠の誓いを拒むことを非難すべきではないと述べています。この考えは、わが国の日本国憲法においても同様だと考えます。

6 少数者の人権が保障されてこそ、本当の人権尊重なのではないでしょうか。みんなで決めることが民主主義ルールだとしたら、みんなで決めたからと言って強制してはいけないことがあるというのが人権尊重ルール。すなわち立憲主義です。立憲主義を実現するのが司法の使命だと確信しています。
  思想良心の自由をまもる判決を期待します。

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コメント

私も君が代というか天皇制そのものに反対ですが、この
学校の音楽教師であったらピアノを弾くと思います。保身
もあるでしょうが、世の中には様々な正義があり、卒業式の君が代をなくてはならないものと考えている人も多いのです。彼らの気持ちも考えてやってください。無宗教の音楽教師がミッション系の学校に勤務していて、キリスト教は植民地主義の背景思想だと言って演奏を拒否したら単なる笑いものです。 それとどこが違うでしょうか。君が代演奏は、国民の代表たる国会と民主的背景を有する政府の通達に基づくものです。 もちろん、個人の思想までを拘束するものでなく、卒業式の演奏は必要最小限な制約であると思います。反対意見の表明は、他のより適切な手段(議会陳情、マスコミ等)があるはずです。生徒に取っては、
音楽教師自体も権力者であります。考えようによっては、教師は自分の意見を彼らに押し付けているのです。


 

投稿: かずばんび | 2011年1月22日 (土) 16時34分

コメントありがとうございます。

「かずばんび」さんの考え方も理解できます。

ただ、ピアノ伴奏については、CD演奏によって代替することもできます(現に、都教委の2003年通達前は都教委が配布したCDで演奏していました)。信条に基づいて、どうしても演奏できないという音楽教師に伴奏を命じて、それを拒否した場合には懲戒処分を課すまでの必要性があるのでしょうか。

個人の思想良心の自由と、かずばんびさんのおっしゃる必要性とを調和する道は考えなくて良いのでしょうか。

国旗掲揚、国歌斉唱という卒・入学式プログラム自体を否定しているのではなく、そのようなプログラムの実施を、処分を背景して強制することが、憲法上、許容できるかという問題だと思っています。

音楽教師自体も権力者であり、生徒に自分の考えを押しつけることは許されないとの指摘はそのとおりです。

でも、音楽教師はそのような意見表明を卒業式などでしたいということでなく、自分は演奏できないというだけです。

他方、教職員が全員に対し起立斉唱とピアノ伴奏を強制するという措置は、生徒に対して、公権力側の考えを押しつけるという面のほうが強いのではないでしょうか。

かずばんびさんのような考え方と、信条を理由にして起立斉唱ができない、ピアノ演奏ができないという教職員との権利を調整する道を、憲法の人権保障のルールに基づいて真摯に考えるべきというのが私の意見です。


投稿: 水口 | 2011年1月25日 (火) 02時23分

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