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2007年9月30日 (日)

犯罪報道の在り方

裁判員制度の導入を迎えて,最高参事官がマスコミの犯罪報道の在り方について配慮を要請しました。

事件報道に配慮を 最高裁参事官要請 マスコミ倫理懇(朝日新聞)http://www.asahi.com/national/update/0927/TKY200709270661.html

裁判員制度下での事件報道などをテーマにした、報道各社の「マスコミ倫理懇談会全国協議会」全国大会が27日、福井市で始まり、講演した最高裁刑事局の平木正洋総括参事官は、裁判員に「容疑者は犯人だ」という予断を与える報道をしないよう配慮を求めた。

 平木氏は、裁判員の選任などの制度設計を担当。「裁判官である一個人としての発言」としたうえで、「報道された事実と、裁判で証明された事実を区別するのは一般市民である裁判員には難しい」との見方を示し、現状の事件報道のあり方に懸念を示した。

 平木氏が具体的に問題があるとしたのは、▽容疑者が自白していることやその内容容疑者の弁解の不合理性を指摘すること犯人かどうかにかかわる状況証拠前科・前歴容疑者の生い立ちなど事件に関する有識者のコメント――の6項目。これらを報道することについて、裁判員に対し、容疑者が犯人だという予断を与える可能性があるとして、「公正な裁判のためには一定の配慮が必要だ」と述べた。

マスコミの有罪を前提とした犯罪報道は目に余ります。なお,朝日新聞は報道していませんが,東京新聞の報道http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007092802052145.htmlでは,平木氏は,「有罪前提とした報道を問題にした」と報道されています。

冒頭「最高裁としての考えではなく個人的な意見」と断った上、懸念する事件報道として自白など三点のほか(1)捜査機関から得た情報を確定した事実のように伝える記事(2)容疑者の弁解の不合理性を指摘する記事(3)捜査機関側の証拠を報じる記事(4)有罪前提の有識者コメント-を挙げた。

いずれも「容疑者が犯人という強い予断を与える危険性がある。公正な裁判であるためには、予断や偏見の排除が必要」と訴えた。

朝日新聞は,ぼかして(意図的な?)報道しており,極めて不誠実な報道だと思います。東京新聞の記者は良いバランス感覚をもっていると思います。

裁判員制度が導入される以上,マスコミが自主的に是正できな場合には法的規制をする必要があると思います。(アホウなTVワイドショーとアホウな弁護士コメンテーターを見ているとマスコミの自主的ルールによる改善は不可能に思えます。朝日新聞の不誠実な報道ぶりを見ても是正は無理なのかと思います。)

裁判になってからは公開の法廷で,被告人の言い分もだされた上で,審理されます。その段階で報道すれば良いことで,逮捕起訴前の段階で,報道する必要性はまったくないと思います。(実名の被疑者逮捕が一刻も早く報道すべき事項とは思えません)

マスコミの下記の批判は,現状のような被疑者・被告人を有罪前提としたむちゃくちゃな犯罪報道がある以上,まったく説得力を持たないと思います。当局の捜査のチェックをマスコミがする利益(小)よりも,有罪を前提とする報道の害悪(大)の方が大きいことは間違いないでしょうね。

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2007年9月29日 (土)

またまた「日の丸」「君が代」裁判

東京都の日の丸君が代関連事件の一つです。

卒業式・入学式の「君が代」斉唱の際に、「日の丸」に向かって起立して「君が代」斉唱せよとの職務命令に反して、起立しなかったことを理由に、定年後の再雇用職員の採用を拒否されたことが、違憲違法であると訴えた裁判の最終弁論をしました。

「君が代」強制・嘱託不採用訴訟 結審 「学校追放許されぬ」 原告陳述
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-09-28/2007092814_02_0.html

350頁にのぼる最終準備書面を提出し、9月27日に、最終弁論をしました。原告2名の意見陳述、原告代理人2名が弁論。私も、最後に次のような弁論をしました。

弁論要旨

東京地方裁判所民事19部合議B係 御中
                                                                      
                                                                     
1 国旗国歌を尊重することは当たり前ではないか。教師ならなおさらではないか、と多くの日本人がそう思っているのでしょう。フランス人は、自由・平等・友愛の象徴である三色旗と国歌「ラ・マルセイエーズ」を誇りに思っています。アメリカ人の多くも、自由と正義の象徴である星条旗と国歌「星条旗よ永遠なれ」を誇りに思っているのです。中国人も韓国人も、それぞれの価値観に基づき自国の国旗国歌を誇りに思っていることでしょう。

    しかし、原告らには残念なことに、わが日本の国旗国歌は「日の丸」「君が代」と法律で決められてしまいました。もし、わが国の国旗国歌が、日本国憲法の人権尊重と平和主義を象徴するようなものであれば、原告らは起立したのかもしれません。(それでも強制には反対するでしょうが。)

2 「日の丸」「君が代」は、原告らにとって、血なまぐさい過去の日本の侵略戦争に結び付くものです。いわばナチス政権時代のドイツ国旗であったハーケンクロイツの旗と同様の意味をもつのです。多くの日本人には理解しがたいでしょう。しかし、世界の人々、特にアジアの人々から見れば、「日の丸」「君が代」は日本の侵略戦争と不可分に結び付いています。日本人としては認めたくないと考えるのも当然かと思いますが、残念ながら、これが一般的には歴史的現実です。
    証拠で明らかにしたとおり、石原慎太郎都知事に任命された横山洋吉教育長は扶桑社版「新しい歴史教科書」の採択を推進する自民党主催の集会やシンポに何度も出席しております。また、横山氏と同じ考えを持つ、鳥海巌東京都教育委員会委員は、原告らを「がん細胞」と呼び、根絶やしにする旨を公言しました。「日の丸」「君が代」の暗い歴史は、戦後62年を経過しても、彼らを通じて連綿として続いているのです。このような人物らが10.23通達を企図し発令したのです。

3 原告らは、不幸なことに、わが国の国旗国歌を尊重するということと、自己の信念とが矛盾することになりました。「日の丸」に向かって起立し「君が代」斉唱せよとの命令は、原告らの思想良心の中核部分を侵害するものです。ピアノ伴奏拒否事件の最高裁判決の論理に立っても、本件は思想良心を侵害する場合に該当することを最終準備書面にて論じました。

4 さて、都教委は、教師が卒業式・入学式等で起立しないことは、「儀式の厳粛さ」や「学校の規律と秩序」を乱すと非難します。「教育には多少の強制がつきもの」、「教師が生徒に範を示すことは当然だ」と言います。また、少なくない人たちは、内心では反対しながら、「形式だけ、マナーの問題だから起立すれば良い。面従腹背で良いではないか」と起立しました。しかし、原告らにとっては思想良心に密接に関係した事柄なのです。英単語の暗記やスポーツ大会の入場行進とは話しが違います。ですから、原告らは、面従腹背をせずに、敢えて、静かに、ただ座ったのです。(なお、私が今の都立校の教師なら「悪法も法なり」と言い訳して、自己保身のため起立すると思います。とても、原告らのような勇気はありません。)

5 アメリカの憲法判決にラッソー事件があります。星条旗に対する敬礼と忠誠の誓いを「偽善だ」と拒んだ美術教師ラッソーが免職されました。連邦控訴裁判所の裁判官たちは、国旗忠誠のプログラムは維持されるべきであり、ラッソーの考えを共有しないと明言しました。がしかし、免職は違憲であるとしました。裁判官たちは「不快な考えであっても、憲法は保護を要求することを認識しなければならない」、「強制される愛国主義は、偽りの愛国主義である」、「信念が誠実で良心的なものである市民」が忠誠の誓いを拒むことを非難すべきではないと述べています。この考えは、わが国の日本国憲法においても同様だと考えます。

6 少数者の人権が保障されてこそ、本当の人権尊重なのではないでしょうか。みんなで決めることが民主主義ルールだとしたら、みんなで決めたからと言って強制してはいけないことがあるというのが人権尊重ルール。すなわち立憲主義です。立憲主義を実現するのが司法の使命だと確信しています。
  思想良心の自由をまもる判決を期待します。

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2007年9月28日 (金)

民主党の労働契約法案提出

民主党は、労働契約法案を衆議院に提案したそうです。

http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=11890

えっ 衆議院って? 参議院じゃないのですか?

提出後の記者会見で、山田ネクスト大臣は、政府案の対案となっているもので、衆議院に提出したと説明した。

衆議院では、与党が多数派だから政府案が通るのでしょう。
えっと、でも、参議院では、政府案を否決になるのでしょう。

とすると、修正路線はまだ生きているということなのでしょうかね。

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2007年9月22日 (土)

参議院野党過半数と労働契約法

巷のマスコミでは、福田 VS 麻生 で盛り上がっています。

安倍さんの引退は目が点になりましたが・・・(トンネルじん肺を解決の決断した総理なので・・・ちょと可哀想に感じます。メンタル・ヘルスの対応は労働者も政治家も一緒です)。

とはいえ、労働契約法案はどうなるのでしょうか。

民主党案が出ています。

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2006/12/post_d415.html

昨年12月にちょっと揶揄してブログを書いてしまいました。当時は、政府案であろうと、労働契約法が創設されることを評価すべきだというスタンスでした。民主党さん、偉そうなことを言うなら、政権とってみろということでした。

ところが、その民主党が参院議院で過半数をとってしまった(敵失か、実力かはともかく)。これって、政治的には凄いことです。日本の政治構造にとって初めての経験です。

フランスの保革共存は、大統領と議会との保革対立でした。外交は大統領、内政は首相という関係ですから、牽制しながらも統一的な政府運営ができた。

ところが日本では議会が民主党と、自民党に別れたのです。国会が分裂しているということは、国家意思が分裂しているということです。しかも、あと6年は、この参議院の勢力は変わらない。一般意志(法律)が統一できない。これって、国家運営にとって大変なことだと思います。

自民党の衆議院 VS 民主党の参議院という関係では、統一的な国家意思が、すくなくともあと6年は形成できない。

このような事態が明らかになれば、結局、民主党に政権をとらせるという国民世論が強まることになるのではないでしょうか。

他方、保守的な人々は自民・民主の大連立を希望するのでしょう(「読売」社説等)。でも、大連立すると、日本には本当の民主主義が育たない。小沢一郎の目が黒いうちには、それは許さないでしょう。(ここで妥協するなら、自民党を出た意味がない。リスクをとった点では、戦後もっとも素晴らしい政治家です)。それとも政界大再編という大ばくちか。

私も、今の労働契約法案よりも、民主党の労働契約法案のほうが良いに決まっていますから。総選挙の結果を期待しましょう。

民主党が、次の総選挙に勝利して政権をとれば、厚労省の労働契約法案でなくて、自分の労働契約法案を成立させることができます。総理が福田さんであろうと、麻生さんであろうと、民主党の勝機は十分ありましょう(共産党も全選挙区立候補を変更するそうですから面白くなります)。

ということで、労働契約法は、政権が変わってからの課題なんでしょう。(君子豹変 スンマセン)。

ただし、今のような民主党のまま政権につくことを、財界と米国は許さないでしょうね。民主党への財界と米国の攻勢はすさまじいでしょう。元々、小沢一郎は親米・新自由主義ですから、その路線にもどらせる圧力をかけるのでしょう。小沢民主党は、自民党相手、米国相手に、大変な政治的綱渡りをしているといえます。

もし、小沢民主党がテロ特措法の延長を阻止しきれば、それこそ戦後初めて、米国の軍事圧力を跳ね返した政治家になります。まさに、「戦後レジュームからの脱却」にほかなりません。新しい日米関係を築くことになります。(下手をすれば、小沢一郎も、田中角栄みたいに、米国につぶされるかもしれませんがね。)

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2007年9月14日 (金)

労働審判-司法修習生向け研修

新61期の司法修習生向けの選択型講習というのが8月にありました。

第二東京弁護士会で用意した実務民事系の選択プログラムは、民事訴訟の実務(相談、本訴、証人尋問の方法)、倒産処理実務(会社更生、破産、民事再生)が5日間にわたり用意され、その中の2コマが労働法実務でした。

ところで、この二弁のプログラムを選択したのはたったの4名でした。
4名のうち、3名が司法試験で労働法選択者でした。不人気でしたね。
弁護士会のプログラムに問題があるのでしょうか。同じ時期に裁判所や検察庁の選択型修習もあったためでしょうか。

21日に、東京地裁19部で労働審判手続があったのですが、こちらは、修習生5名位が傍聴していました。労働部での選択修習は人数が多かったようです。

この二弁の講座では、労働法の事例研修を解説して、労働審判の実務を話ししました。このとき使った、労働審判手続の方のパワーポイントは次のようなものです。

「07820.ppt」をダウンロード

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2007年9月 9日 (日)

読書日記「裁判員制度の正体」西野喜一著

         2007年8月20日発行
          講談社現代新書
          2007年9月10日読了
         
■裁判員制度 廃止論

著者は元裁判官で、法科大学院の教授です。裁判員制度を徹底的に批判しています。著書の批判のスタンスは極めて判りやすい。要するに、「素人には裁判は無理で、専門家の裁判官を信頼してまかせろ」ということです。官僚裁判官の本音なんでしょうね。

裁判官は、専門的な訓練を受けているだけでなく、職業上膨大な数の事件、犯罪を見て、これを証拠にもとづいて判断し、その判断の過程を合理的に文章で表現するという仕事を何十年もやっています。また、ある判決が上級審で破棄されれば、その判決を見て、自分の判断の不備を確認することもでき、そうやって経験を重ねているのです。ですから、義務教育終了だけを条件として抽選で集められた素人の一回かぎりの判断とは信頼性がまったくちがうといえるでしょう。(まえがき9頁)

(裁判官以外の裁判員)6人は裁判官でも何でもなく、ただ抽選で選ばれた町なかのおじさん、おばさんで名前もわからない。判決に署名することもないし、その判決の責任を取る気もまったくない。(87頁)

(裁判員は)どんな誤判をやってしまっても、いかなる責任も負わないという前提ではじめた制度で所詮ロクなものはないし、そういうシステムがまともに機能するはずがないのです。(113頁)

著書は、素人関与の司法制度を徹底して否定し、陪審制は誤った制度と決めつけます。わが国の従前の刑事司法制度を根本的に是正する必要は全くないというわけです。上記の「どんな誤判をしてしまっても、いかなる責任を負わない」というのは、今までの日本の刑事司法制度も同じですけどね。死刑再審無罪となった事案で、裁判官・裁判所が責任を取ったことはありません。辞任した裁判官がいたなども聞いたことがありません。最高裁長官も責任をとって辞職するとか,せめて,冤罪事件の原因を徹底究明する研究チームを発足して発表するとか,司法研修所では無罪記録を使った起案をするとかくらいはできるんじゃないのかね。

■裁判員制度への不安

しかし、この著書が指摘する裁判員制度の問題点、短期の集中審理を実施せざるをえないためにラフ・ジャッジ(粗雑司法・拙速司法)に陥る危険、弁護人の対応力への不安などは、そのとおりですね。特に、弁護体制への不安は、私も同じ気持ちです。もっとも次の意見には与しませんが。

すぐにも、そして安く、弁護してくれる弁護士がみつかったけれども、それは法科大学院で粗製乱造された未熟な若手で、粗末な弁護活動しかできないということになる恐れもじゅうぶん考えられるのです(116頁)

現役の新潟大学のロースクール教授が、法科大学院が粗末な弁護士を粗製乱造している、と言うのは結構、思い切った発言ですね。私の今までの経験ではそんな感じはしませんでしたけど。もっとも、著書と違って、ごく少人数しか知りませんから、私の実感が間違っているのでしょうか。(著者は、「司法改革」の2本柱の裁判員制度とロースクール・システムに対して、絶望しているということなのでしょうね。)

著者は、ラフ・ジャッジに陥らないための対策、例えば、取調べの録音録画制度の導入、証拠開示制度の強化、人質司法の改善などの具体的な提案はされていません。現段階では消極的な姿勢をとられているのかもしれません。この点も私とは見解が違います。

■裁判員制度 違憲論

著書は裁判員制度違憲論を展開します。傾聴に値する意見ではあります。ただし,裁判官出身でありながら,粗雑さが目立ちます。

裁判員が加わった裁判所は、「公平な裁判所」でないから、憲法37条1項違反だ、というのはちょっと成り立たないでしょうね。裁判員と裁判官の構成した合議体が「公平な裁判所」と法律で定めるわけですから。

憲法76条3項が「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めているのに、裁判員全員が裁判官の結論に異論を唱えたら裁判官らの結論が通らないとするのは、「裁判官の独立」に反するともされています。そうなると陪審制も違憲ということになります(著書はその立場です)。裁判員制度は、評議の中で意見交換して多数決で決めるのですから、「裁判官の独立」に反するとはいえないのではないでしょうか。現在でも合議裁判では,少数派の裁判官の意見が通らない制度になっっています。著書の意見だと,これも裁判官の独立に反するということになっちゃいます。それはおかしいでしょう。

また、裁判員になるのは「意に反する苦役」にあたり、憲法18条違反だとも言います。苦役であるかどうかは、客観的・一般的に見て苦役だと言えなければならないでしょう。裁判員としての職務は、本人の意に反していたとしても、苦役とは言えないと思います。おそらく著者は,現役裁判官時代,裁判を「苦役」だとおもって職務を遂行していたからなのでしょうか。他方,ローススクールの授業は「苦役」ではないのでしょう(ロースクール生の粗製濫造の答案を採点するのも相当な「苦役」のようにも見えますがね)。

憲法19条の「思想・良心の自由」に反するという主張は成り立ちます。ただし、それは制度として裁判員手続が違憲となるわけではありません。憲法20条の宗教上の教義に従うというような(裁判を否定する宗教があるかどうかは知りませんが・・・)、その者の真摯な思想・良心の中核部分に反している場合にのみ、当該国民を裁判員を拒否したことで処罰する場合には違憲となりうるのでしょう(そういう思想・良心があるかどうか知りませんが・・・)。

ただし、単に仕事が忙しいのに面倒だと言うだけでは、憲法19条違反にはなりません。これは教師への「日の丸・君が代」起立斉唱強制と同じ問題でしょう。真摯な思想・良心、信仰に反しているかどうかが焦点です。その点、著者が授ける「裁判員逃れ」の手練手管は、思想・良心の自由、信仰の自由とは全く別な話しですね。

■裁判員制度の運命

もっとも、著者が指摘するように、具体的な事件で裁判員制度が実施されるのにいくつもの課題があることは否定しません。特に、著者が心配される超弩級「難」事件(連続複数殺人事件など)について、一般の国民が審理に十分に関与できるのかは大きな課題だと思います。そして、国民に歓迎されない刑事司法は、裁判員制であろうと、陪審制であろうと定着しないという指摘は、そのとおりでしょう。

これらの反対論が国民世論を説得するとなれば、陪審制も参審制も、日本人には向かないということですね。

結局、日本人の意識は「官僚支配が一番よい」ということですかね。「民主主義よりも、賢人統治を良しとする」の日本人の意識は、強固な儒教的伝統の帰結ということなのでしょうか。

本来取りくむべき改革は,裁判員制度導入反対運動ではなく,裁判員制度の導入を機に,犯罪報道の法規制(匿名報道原則の導入,有罪を前提とした報道の禁止等),取調の録画録音制度の導入,証拠開示制度の拡充・充実,人質司法の是正などの刑事司法制度の改革こそを要求していくことだと思います。

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2007年9月 8日 (土)

【21世紀の左派に告ぐ】 ジャン・ブリクモン(Jean Bricmont)(訳・土田修)

ジャン・ブリクモン(Jean Bricmont)は、ルーヴァン大学(ベルギー)理論物理学教授だそうです。 2007年8月28日に、ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版で送信されていました。大統領選で敗北したフランス左派を鼓舞するためのような論文です。

http://www.diplo.jp/articles07/0708-2.html

理系の方が、直球勝負の人が多いですよね。こんなことを書いたら、日本では、生きた化石、あるいは、成仏できない幽霊のように扱われるでしょうな。

政治的運動体が成功を収めることができるのは、自己の主張を信じている場合に限られる。右派の場合に勝利したのは、サッチャー言うところの「ぬるい」保守派、つまり多かれ少なかれケインズ主義的な立場の保守派ではなく、がちがちの強硬右派路線を取る勢力だった。左派の場合、穏健右派の政策を主張するにとどまる限り、勝利のチャンスはない。事態を変えるためには、左右の対立の根本に立ち戻らなければならない。対立の根本は「価値観」の問題、とりわけフェミニズムや反人種差別のように、現代の右派が完全に受け入れる準備ができている問題にはない。左右を分かつのは、経済の統制という基本問題である

日本の場合には、左右を分かつ根本問題は、「格差問題」でしょうね。(「格差問題」って、左派からすれば「階級問題」ですからね)。雨宮処凛さんらの出番です。

次を読むと、フランスの「自由主義者」も、日本とまったく同じ考えののようです。

もし生産手段に加え、20世紀に起きたように情報伝達手段も少数の人々の手に握られれば、彼らは他の人々に対し、封建体制の権力と大差ない巨大な権力を持つことになる。現代において、古典派自由主義思想を真に継承しているのは、社会主義の立場を取る者たちである。今日、フランスで「自由主義者」を名乗る人々が信奉しているのは、ある種の専制政治や企業経営者でしかない。その上、彼らのほとんどは、ある種の暴力的な国家主義、すなわち世界に対するアメリカの軍事支配の信奉者でもある

「人間の自律や自由」こそ、社会主義の問題だと言っています。フランス左翼の好きな「人間の尊厳」ってやつですかね。      

社会主義の問題は、資本主義の危機や、自然の破壊(現実上か想定上かは問わない)、労働者階級の小市民化(現実上か想定上かは問わない)といった問題とは無関係である。自己の生を管理することが人間の基本的な願いである以上、社会主義の問題は生活水準が向上しても消滅することはない。社会主義の問題が提起されるために、(2度の世界大戦のような)破滅的な出来事が起こる必要もない。生物学的な欲求、すなわち生命を存続させるという欲求が充足されればされるほど、自律や自由という人間に固有の欲求の充足が、いっそう強く求められるようになるのである。

社会主義がもはや、だれの興味も引かないと考えるのは間違いである。今なお左派が支持される分野があるとすれば、公共サービスの擁護や労働者の権利の擁護にほかならない。それこそが、資本所有者の権力に対する今日最大の闘争手段であるからだ。ヨーロッパ建設に暗黙のうちに含まれている政策プログラムは、民主主義的な見かけだけは残しながら、社会保障や普通教育、公的医療からなる「社会民主主義の楽園」の破壊をもたらすに至ったが、これらの制度は社会主義の萌芽的形態であり、現在も人々に大きく支持されているものだ。

もっとも、日本でこれを社会主義として主張するのは政治的には下策なんでしょうね。(おっと、「政治的運動体が成功を収めることができるのは、自己の主張を信じている場合に限られる」でした!)。このブリクモン先生、マルクスをも、しっかり擁護しています。

「自由主義的」思想家たちは、社会主義への移行が先進資本主義国家で予定通りには起きなかった、と指摘することで、カール・マルクスを批判してやまない。彼らへの反論は、われわれのシステムが単に資本主義であるばかりでなく、帝国主義でもあるということだ。ヨーロッパの発展は、広大なヒンターランド(後背地)の存在なくしてはありえなかった。このことの意味を理解するには、ヨーロッパが地球上に出現した唯一の陸地であり、アフリカ、アジア、アメリカなど残りすべてが大海だったと想定してみればよい。そうなれば黒人奴隷貿易も、ラテンアメリカの金鉱も、北米への移民もなかったことになる。われわれの社会が、労賃の安い国からの輸入や移民という形で原料や安価な労働力の恒常的な流入を得ることも、南の頭脳が北へと流出し、崩れゆく教育システムの穴埋めをすることもない。 その場合、われわれの社会はどうなっていただろうか。

社会主義の実現が20世紀中に達成しなかった最大の理由は次の通りである。資本主義の下で一定の文化的、経済的発展を遂げ、民主主義的な要素が生まれ、したがって資本主義の超克が可能であり必要でもあった国々は、同時に帝国主義システムにおける支配的諸国であった。

この帝国主義は二重の帰結をもたらした。ひとつは経済的な帰結である。支配的な国々は、もし存在しないとしても今後出現する可能性のある問題の一部を「周縁国」に移転することができた。もうひとつは、世界規模での労働者の分断という帰結である。西欧の労働者たちは、南の労働者よりも常に良い生活条件を得ることで優越感を持つようになり、それがシステムの安定化に寄与してきた。

このように帝国主義論をぶちかまして周縁からの反撃を期待しています。周縁革命って古いけど。

しかし、変化はしばしば周縁からもたらされるものである。1917年のロシア革命と、第二次世界大戦の枢軸国に対する勝利へのソ連の加担は、植民地独立の動きに向け、また「社会民主主義の楽園」づくりの可能性に向けて、きわめて大きな影響を与えた。そして植民地の人々の勝利は、1960年代のヨーロッパで数多くの進歩主義的な変化を促した。現在ラテンアメリカや中東で起きている反乱もまた、その意味を理解し、よくよく考慮するならば、支配者たちに厳しい軌道修正を迫るものとなるかもしれない。それは他の人々には、少しばかり明るい未来をもたらすものになりうるだろう。

何だか二十年か前にタイムスリップしたかのような、胸がすくような論考ですが、これは素朴マルクス主義から抜け出せない私の、単なるノスタルジイなんでしょう。

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2007年9月 2日 (日)

読書日記「格差社会ニッポンで働くということ」熊沢誠著・・・・と、雨宮処凛の「叫び」

                               岩波書店      2007年6月   発行
                               2007年9月1日 読了

熊沢誠教授が甲南大学を退職されてから、大阪の市民講座「格差社会ニッポンの労働」(全10回連続講座)の講演をもとにして書かれた著作です。現在の格差社会ニッポンの労働の有り様の全体を見渡したものになっています。

著者らしく、あくまで一人一人の下積みの労働者の目線から、働く現場から、格差と不平等を分析しています。「格差」を示す統計数値も整理されており、判りやすいです。

■非正規雇用と女性労働者
さすがに現在は「男は仕事・、女は家庭」という古典的な性別役割分担はなくなったが、しかし、「女は仕事を持つのは良いが、家事・育児はきちんとすべきだ」とする意見が男89%、女85%を占めるそうです(同書121頁。総理府1997年「男女共同参画社会に関する世論調査」)。

男性総合職の労働者らの長時間・過密労働(働きすぎ)を「標準」とし、上記の女は家事・育児もきちんとすべきという社会的意識の中で、女性総合職、一般職、主婦パートへと(既婚女性)は「非正規雇用」へと選択していくとしています。

ワークライフバランスは結構だが、それが企業の側の「選別」でなく、労働者側の「権利としての選択」でなければならないと指摘されています。

もっともなことです。(「上質な市場社会に向けて~公正、安定、多様性~」研究会報告書は、この「権利としての選択」という観点はないよね。)

■若者たち
若者たちは非正規雇用はもちろん、正規雇用であってさえ、大きな困難に直面していることを指摘してます。「勝ち組」とされる正規雇用の若者であっても、働きすぎ、燃え尽きや職場の人間関係上の困難から早期退職に追い込まれていると言います。しかし、「袋小路」に入って出口がないのは、非正規雇用の若者たちです。著者は、ここに新しい労働運動の息吹を感じているようです。

そしていま2007年春、私たちはようやく、これまで組合というものにほとんど感心もたなかった非正規雇用の若者たちの間に、さまざまな組合運動の芽生えを確認することができます。従来のコミュニティユニオンに加えて、「全国ユニオン」が「派遣ネットワーク」が「ガテン系連帯」が、「首都圏青年ユニオン」が、派遣労働者やフリーターたちに、見失った「隣」・なかまを発見させ、ひどすぎる使い捨ての状況にユニオニズムを対置し始めました。

■若者たちの反撃
雨宮処凛氏は、「生きさせろ!-難民化する若者たち」(太田出版)で次のように叫んでいます。http://www3.tokai.or.jp/amamiya/

我々は反撃を開始する。
若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングするすべての者に対して。

これらの若者たちが、企業横断的な労働組合を結成し大きく成長することで、労働組合運動が、「正社員の既得権擁護」だけでなく、「公正」と「安定」を実現する運動であることを証明して欲しいと思います。そこから労働組合運動が、再生していくしかないと思います。

■既成労組はカネくらい出せ

既存の大手労働組合こそ、若者の組織拡大のために専従オルグを抱えるために財政援助をすべきでしょう。(20万組織の労組の組合員が1人年500円カンパすれば1億円になる!。)それくらいができない労働運動は「右派」とか「左派」とかを問わず、未来はないでしょう。

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