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2007年4月14日 (土)

「世界」5月号 西原博史「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」論文を批判する

西原博史氏(早大・憲法学教授)の「予防訴訟判決批判」に目を疑う。

「世界」2007年5月号で,西原博史氏(早大・憲法学)が「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判-『子どもの心の自由』を中心に」と題する論文を発表している。私も同氏の「良心の自由」(成文堂),「良心の自由と子どもたち」(岩波書店)も読んでいたので,その内容に期待して読みはじめた。ところが,その内容の酷さに目を疑いました。

この論文の表題は誤っています。西原氏が力を入れて批判しているのは,予防訴訟判決です。論文の表題は,「『日の丸・君が代』東京地裁予防訴訟判決批判-日教組御用法学批判を中心として」とでもすべきです。

■教師が起立しないと,子どもの思想・良心を侵害する だそうです。

冒頭に西原氏の知人であるというY氏の経験が語られる。

小学校で教職員組合の分会(教師集団)が,子どもたちに「君が代」は差別と侵略を象徴する歌であり,決して歌ってはいけないという教育をたたき込んできた。それに抗してY氏が起立して斉唱すると,教師らは「幼い小学生」に対して,裏切り者をそしる目を向けられた。(適宜要約-引用者)

西原氏は,これが過去にあった現実であり,それを正当化する教育法理論が通用していたと主張します。この教師たち(存在していたとしても,数十年前でしょう。また,東京ではないでしょう。)は当然に非難されるべきです。教師として許されない態度・行為です。この点は全く意見は一致します。

ところが,西原氏は,さらに教師の思想・良心の自由を擁護する主張に対して次のように批判するのです。

教職員が集団として,教育公務員としての職権を濫用し,国家シンボルの評価に対する特定の評価を子どもに押しつけた。卒業式は,教師たちに対する忠誠の証として座り続けられるかどうかを問う,子どもたちの踏み絵だった。(「世界」5月号138頁)
   …
過去にこうした現実があり,それを正当化する教育法理論が通用していたことを考えた場合,教師が思想・良心の自由という基本的人権を口にすること自体が悪い冗談のように響く。(同書138頁)

■教師が思想・良心の自由を説くことは,悪い冗談  だそうです。

曲がりなりにも憲法学者である大学教授が,人権の享有主体であることは間違いない「教師」が「思想・良心の自由という基本的人権を口にすること」を「悪い冗談」だと揶揄することに少なからず驚かされます。

西原氏は,自分と政治的に立場が違う人間が「思想・良心の自由」を主張すると,「悪い冗談」として切り捨てるを明確にされたことになります。憲法学者としての品位を疑わざるを得ません。

■「子ども中心主義」と「教師中心主義」   だそうです。
西原氏は,「子ども中心主義」と「教師中心主義」との両論を対置させます。「子ども中心主義」は,国家権力といえども子どもの思想・良心の自由を踏みにじってはならない,という認識」であると言う(何も,改めて「子ども中心主義」などと名付けなくとも人権論の基本だと思いますが…)。

他方で,教師中心主義とは,「日教組御用法学」学者が書く文章としては下品ですね。…本当は「日教組御用法学者」と書きたかったんでしょうね。)で,「子どもの前における教師の行為が子どもの成長・発達に対して及ぼす影響をすべて教師の善に解消し,教師の個人としての思想・良心の自由に対する侵害だけを問題とする」という立場だとされます。

(何だか昔の,懐かしの「国民の教育権論」と「国家の教育権論」の現代版の繰り返し(二度目は喜劇として)ですね。発想が図式的なんだよ,まったく。 「両者とも極論で採用し難い」ですな。)

■予防訴訟判決は教師中心主義であり,子どもの自由の保障を無視した判決。 だそうです。

この教師中心主義の実践が,予防訴訟提訴の運動であり,予防訴訟判決だと言って,次のように口を極めて非難されています。

 偏狭な集団エゴとしての側面を含めて教師中心主義へと立場決定することを意味し,もはや子ども中心主義とは相容れるものではなくなる。… 子どもの自由の保障が真剣に追求されているわけではなく,単に運動論的な名目として利用されているに過ぎなくなる(堀尾輝久「教育に強制はなじまない」岩波書店2006年)

 そして原告団の主張に対応する形で書かれたのが,2006年9月21日の東京地裁判決である。国歌斉唱義務不存在をおおっぴらに宣言するこの判決は,教師の思想・良心の自由を極限までに拡大した

 判決は,「国旗掲揚,国歌斉唱に反対する」ことを「世界観,主義,主張」と同視する。こうした論法を採れば,好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心の自由の下で不可侵となってしまうだろう。実際に判決は,個々の原告ごとの侵害認定を行っていない。イヤなことをやらされたら良心の自由の侵害,自分たちの政治信条とずれることをさせられたら思想の自由の侵害,という論理だが,これが法的に通用する命題であるはずはない。(以上「世界」5月号140頁)

 予防訴訟判決は,教師の思想良心の自由の主張の前に再び学校における子どもの無権利状態を確立しようとするものである。(同書143頁)

■西原氏にとって主敵は「日教組と日教組御用法学」   のようです。

西原氏は,「日教組は子どもの自由と言いながら『教師中心主義』で誤っている。子ども中心主義に立つべきだ」と強調されています。この点は西原氏の価値観ですし,私は日教組なんかには,縁もゆかりもありませんので問題にしません。

確かに,最高裁伝習館高校事件判決を見ると,40年近く前の学園紛争時代には,極端なイデオロギー教育を一部の教師が実践していたという現実はあったのでしょうね。でも,それを安易に現代に一般化するべきではありませんそれでは都教委や産経新聞,読売新聞と一緒です。

(私が東京都の代理人弁護士なら,この西原論文を東京都・都教委側の書証(証拠書類)として提出します。おそらくそうなるでしょう。もちろん,西原氏は覚悟のうえでしょう。もし,予想していないとしたら世間知らずですな。)

■西原氏は,「判決批判」の最低限のルールを守っていない と思います。

私が,西原氏の論文を批判すべきだと考える点は,予防訴訟判決をして,「好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心の自由の下で不可侵となってしまう」とか「イヤなことをやらされたら良心の自由の侵害」などと決めつけて非難する部分です。

予防訴訟判決を読めば明らかなとおり,憲法19条の思想・良心の自由として保障される内面的精神作用を,「宗教上の信仰に準じる世界観,主義,主張等を全人格的に持つこと」と定義しています。すなわち,内面的精神作用一般でなく,「宗教上の信仰に準じたもの」で,憲法学説上の通説である狭義説にたっています。したがって,「好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心に含まれる」ものではないのです。そのような記述がないのに,西原氏が上記のように決めつけるのであれば,法律家である以上,十分な論証が必要です。ところが,その論証は全く欠落しています。(単なる時事評論レベル「世界」の論文なら許されるんでしょうか。「ジュリスト」だとこれでは掲載は無理ではないでしょうか。)

■判決批判の際には,ちゃんと主文と理由を読みましょう。

次に,西原氏は,予防訴訟判決について,まるで「ありとあらゆる場合に起立義務が存在しない」ことを認めたかのように論じています(同書140頁)。しかし,これは間違っています。西原氏は,法律家として初歩的な誤りを犯しています。このことは予防訴訟判決の判決主文を読めば一目瞭然です。

判決は,「10.23通達に基づく校長の職務命令に基づき,学校の卒業式,入学式等の式典において,会場の定められた席にて国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務のないことを確認する」(ピアノ伴奏義務も同じ)と判示しています。予防訴訟判決はその理由も述べています。

上記で検討したとおり,本件通達及びこれに基づく各校長の職務命令が違法なのであって,原告らの請求は,本件通達及びこれに基づく各校長の職務命令に従う義務がないことを求め,また上記職務命令に違反したことを理由に処分されないことを求める限度で理由があるので,その限度で認容し,その余は理由がなく棄却するのが相当である。

しかも,原告らは,この主文を受け入れて予防訴訟判決に対しては,控訴していないのです。西原氏が,もし批判するのであれば,上記の明白な事実関係を踏まえた上で,論述を組み立てるべきです(法律家なら)。

「世界」の読者の多くは,予防訴訟判決の全文を読むことはないでしょう。そうである以上,法律家として「判決批判」を行うのであれば,最低限,判決の趣旨を正確に紹介するよう心がけるべきです。自己の学説や政治的主張に都合の良いように判決を歪曲して引用することは,法律家はしてはなりません。法律家の最低限のルールです。(それとも憲法学会では,これが普通なんでしょうか。労働法学ではこんな乱暴な判例評釈は見たことがないです。非法律家のジャーナリストの文章ではよく見かけますが。)

■思想・信条の自由についての西原説は「人格崩壊説」   です。

ちなみに,西原氏の「思想・良心の自由」の定義は次のような内容です。おそらく現在の憲法学説の中でも,特異な最狭義説ということになるでしょう。

「思想・良心の自由は,高度に個人的な精神作用を管轄する。思想・良心は,自分が自分であるために守らなければならない純粋に個人的な規範体系を設定し,その観点から自らの行動を監視するもの」

「自らの良心に反する行為を強制され,そのことによって良心本体が回復困難な損害を被り,もはや自分が自分でなくなってしまうような人格崩壊に直面するギリギリの場面で初めて,具体的な行動に関する法や国家の命令が良心の自由に対する侵害と構成される」

この西原説に対して,法律家として浮かぶ疑問は,「自分が自分でなくなる」ってどうやって客観的・一般的に判断するのでしょうかね。また,「人格崩壊」とは何を意味するでしょうか。(精神医学上の概念なのでしょうか。)それは裁判官でなく,精神医学者が判定するものなのでしょうか。文学者の表現なら許容されると思いますが,実用法学を指向する法律家にとっては,あまりに「文学的」・「哲学的」(?)すぎる定義であり,私には到底理解できません。裁判実務の実用に耐える概念・定義ではないですね。(きっと格好いいと思っているんでしょうな。)

■最高裁ピアノ伴奏判決を予防訴訟判決を軌道修正する試みとして評価する

,そうです。

西原氏は,ピアノ伴奏最高裁判決を,「予防訴訟判決を意識して軌道修正を試みるものだった」とします。そして,「対極において思想・良心の自由を叫んですべての法的コントロールを無効化しようとするかのごとき乱暴な議論が下級裁判所の判例の中にも地歩を築きつつあった現状(予防訴訟判決のことを意味している-引用者)に対する最高裁の回答であった」として,予防訴訟判決を否定する側面を評価するのです。(これもびっくり)。

その上で,氏の言う「子ども中心主義」を基本としつつ,最高裁判決多数意見を批判し,19条論を展開すべきだと言っています。しかし,この論文には,その立論は書かれていない。この点は,また論じてみたいと思います。私見では,西原氏の論理の延長線上には,ピアノ伴奏最高裁判決を批判する”実用的な法理”は出てこないと思います。

■予防訴訟判決をちゃんと読みましょう

最後に,予防訴訟判決の結論部分の一部を引用しておきます。西原氏は,この論述を読み飛ばしたのでしょうか。(きっと,日教組御用学者たちとの論争に目を奪われて,法律家としての客観的な判決分析が出来ないのでしょう。)

 原告ら教職員は,…(中略)…生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うもとの解されるから,入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努力するべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは許されないものといわなければならない。
 しかし,原告ら教職員は…(中略)…思想,良心の自由に基づき,これらの行為を拒否する自由を有しているものと解するのが相当である。

 原告ら教職員が入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し斉唱すること,ピアノを伴奏することを拒否した場合に,これとは異なる世界観,主義,主張等を持つ者に対し,ある種の不快感を与えることがあるとしても,憲法は相反する世界観,主義,主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めるものであって(憲法13条等参照),このような不快感等により原告ら教職員の基本的人権を制約することは相当と思われない。

この部分は,価値観の多様性を尊重する「立憲主義」の基本思想を押し出した判断であり,予防訴訟判決の全体を貫く考え方だと思います。

西原氏が,何故に,上記判示をも無視して,「予防訴訟判決は,教師の思想・良心の自由の主張の前に再び学校における子どもの無権利状態を確立しようとするものである」などと決めつけるのか理解に苦しみます。何か政治的な理由(悪意)があるのでしょうか。

「教師の教育の自由」と,「子どもの自由」を,西原氏のように,極端に敵対的に把握して,両者を並立しないものとして,徒に対立させる考え方は,「青臭い極論」であるか,あるいは「政治的他意がある」と思われます。

心ある人たちは,両者をどう調整するのかを頭を悩ませているのでしょうに。

西原氏は,自分の教室では,さぞや,学生の思想・良心の自由を侵害しないよう配慮しつつ,自説に固執せず,客観的な法令及び判例の解釈の仕方を教えられていることでしょう。司法試験合格のためには,その方が良いですし。(スミマセン。大人げないですが,「嫌み」を言いたくなりました…。)

■【蛇足の補論】
ひょっとして,西原氏は,現実の裁判の構造(民事訴訟制度,行政訴訟制度)を全く理解していないのではないでしょうか

子ども(ないし,その親権者)が,子どもの思想・良心の自由の侵害を主張すれば,西原説はぴったり収まるでしょう。しかし,教師が原告になる場合には,子どもの権利は背景に引き,間接的な事実関係にならざるをえない。

子どもの「思想・良心の自由」を侵害すると教師が訴訟上,主張して,裁判所が,そうだと判断してくれるほど単純であれば,誰も苦労しないのです。

ピアノ伴奏拒否訴訟では,第1審も控訴審も最高裁でも,「子どもの思想・良心の自由が保障される状態がない限り,国旗国歌を起立し斉唱させる措置は違憲・違法である」という単純な立論は排斥されたのです(残念ながら)。藤田少数意見も,この立場にはたっていません。

予防訴訟の審理では,堀尾輝久教授の証言が行われました。堀尾証人は,「子どもの学習権」,「子どもの思想・良心の自由」を強調した証言をしました。(西原氏は,堀尾輝久教授を「教師中心主義」の「日教組御用法学」として論難しているようですが。)

難波裁判長は,「子どもの思想・良心の自由を守らねばならないということは判った。しかし,本件職務命令は,子どもに立って歌えと言っているわけではない。教師に起立して斉唱せよと命じているだけだ。子どもの思想・良心の自由とどう関係しているのか?」という趣旨の質問を堀尾証人にしました。

つまり,裁判所から見れば,原告(教師)にとって,子どもの権利は,あくまで「第三者の権利」であって,原告(教師)が,第三者に対する権利侵害を援用して違憲性を主張できるのか訴訟適格上の問題が生じます西原説の「子ども中心主義」の立場から見れば,教師が第三者(子ども)の権利を主張するという関係になるのは当然の帰結のはずです。この場合に,西原氏は第三者の権利侵害を援用できるという解釈なのでしょうか。「教師中心主義」と,「子ども中心主義」を対立させる西原説では,論理的にも倫理的にも,教師が子どもの権利侵害を主張することは許されないということになるはずです。

また,これをクリアしたとしても,現実に子どもの権利が侵害されたという具体的事実を立証しなければならない。これが相当に高いハードルだということは法律家には判るはずです。そのように権利主張をして裁判に協力(証人で出て)くれる子どもと親を捜さないといけませんよね。それはほぼ不可能でしょう。(立証が著しく困難で,負けそうな理論をこねくりまわして,予防訴訟判決を批判して,どうする気かね? この西原論文は自ら「袋小路」に落ち込んでいるという印象です。)

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