読書日記 「下流志向」-学ばない子どもたち 働かない若者たち- 内田樹著
2007年1月30日発行(講談社)
2007年4月20日読了
■<学ばない子どもたち, 働かない若者たち>
昔,アエラで,<働かない長男,結婚しない長女>と現代を切り取るフレーズがありましたが,それと同じくらいに「現代」を言い得ていますね。
■現代の子どもたちは「オレ様化している」!
教師が小学生にひらがなを教えようとすると,小学生が「先生,これは何の役に立つんですか?」と何のてらいもなく質問してくるのが現代です。「どうして教育を受けなければならないのか?」と根本的な質問をするというのです。
内田氏は,その理由を諏訪哲二氏の「オレ様化する子どもたち」の中の文章を引用し説明をしています。
子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも,そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」として確信を持つからであろう。
学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに,すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。
これを受けて内田氏は,さらに次のように展開します。
僕たちの世代で,生まれてはじめての社会的活動が労働でなくて消費であった,家事労働の手伝いを経験するより先に,まずお金を使ったことがあるという子どもはほとんどいなかった。
今の子どもたちは,もしかすると,その過半が生まれて初めての社会経験が買い物だったということになっているのではないでしょうか。この最初の経験の違いはかなり決定的なもののように思われます。
そして,内田氏は,その決定的な違いは,子どもたちが「教育のサービスの買い手」として学校にあらわれるということだと言います。
彼らはまるでオークションに参加した金満家のように,ふところ手をして,教壇の教師をながめます。
「で,キミは何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ」
■教育と「消費サービス」
「消費主体」という言葉で,例の著名な八代尚宏氏(国際基督教大学・労働経済)の「『健全な市場社会』への戦略」という著書の中で,八代氏が「消費者主体の義務教育改革」を訴えていたのを思い出しました。
消費者のニーズに応えて多様な「教育サービス」の選択肢を提供するという,市場社会の基本的なルールを対応した政策が実現していない。
公立や私立の違いを問わず,生徒や保護者のニーズに沿った教育を行う学校が選択され,そうでない学校が淘汰されるという,当たり前の競争原理を,教育の世界にも導入する必要がある。
教育に功利主義的観点を持ち込むことが適切であれば,消費者として,如何に教育サービスをいかに効率良く享受できるかを考えるのは当然ということになります。
■学びとは何か
内田氏は,学び,教育をサービスの買い手や受け手という発想をはっきりと批判します。子どもの学習権を強調してきた教育(法)学者は怒るでしょうね。
子どもは学習の主権的で自由な主体であるのではありません。
学びとは,学ぶ前に知られていなかった度量衡によって,学びの意味や意義が事後的に考量される,そのようなダイナミックなプロセスです。学び始めたときと,学んでいる途中と,学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である,というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命です。
内田氏の説明はちょっと判りにくいのですが,私になりに言い換えると次のようなことになるのではないでしょうか。
学びとは,相手との関係で,自分では意味が分からない未知なモノを受け取り,投げ返していく過程の中で,そのモノを手触りで確認して,その過程の中で自分(主体)も変化していく(成長していく)
すでに正体や価値が判ったもの(値札が付いた商品)を等価交換していく関係の中では,その主体(人間)に成長や変化は生まれない,ということを言いたいのでしょう。
内田氏は,消費主体として教育に投資したものを回収しようとする子ども(親)たちを次のように言います。
捨て値で未来を売り払う子どもたち
実際には,八代流の「消費者主体の義務教育改革」に身を委ねて,子どもたちの未来を売り払うのは,親たちなんでしょうが。
| 固定リンク
「読書日記」カテゴリの記事
- われらはレギオン 1~3 AI 恒星間探査体(2018.12.11)
- 明治から変わらぬ「洋学紳士 V.S 豪傑」-現代「洋学紳士君」V.S「洋学豪傑君」(2018.03.10)
- ガルブレイス -「労働組合是認論」(あるいは解雇規制)の経済学的根拠(2016.04.10)
- 読書日記「人類進化論」 山極寿一著(2015.10.18)
- 「終戦」通説に対する異説 「終戦史」吉見直人著(2015.08.15)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント