« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月30日 (月)

ブログ・アクセス数

昨年3月からブログをオープンにしてからのアクセス数が5万3800件を超えました。ありがとうございます。

今年1月1日から4月29日までのアクセス数は2万0014件です。ページごとのアクセス順位のトップ20は次のとおりです。

1  読書日記「脱格差社会と雇用法制」福井秀夫・大竹文雄編著 761
2  後藤田正純議員 「労働ビッグバン」への宣戦布告! 609
3  弁護士大増員時代-ドイツ弁護士事情 572
4  Not guilty - 富山のえん罪事件に思う 452 
5  成果主義賃金による降級・減額措置を違法とした東京高裁判決
       -マッキャンエリクソン事件 381
6  会社分割・労働契約承継法と「在籍出向」362
7  日本の自殺率-驚愕の国際比較 285
8  今,解雇規制を緩和すれば,
        
さらに格差が拡大し雇用が破壊される  276
9  労働市場改革専門家調査会
               小嶌典明教授(阪大大学院・労働法)の発言   260
10  民事裁判の証人尋問  253
11  「世界」5月号 西原博史論文批判
            「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」論文  231
12 労働政策審議会労働条件分科会の紛糾!中断か? 210
13 労働契約法,労基法改正の法律案要綱について① 200
14 裁量労働みなし時間制も見送り
              労働契約法案要綱及び労基法改正法案要綱④ 194
15 「労働者性」について  191
16 労働契約法案に関する日弁連意見   176
17 「労働契約法制及び労働時間法制の在り方
          について」の中間とりまとめ素案  174
18 新年早々「ホワイトカラー・エグゼンプション」
               導入を巡る政治家の動き   162
19 「労働市場改革専門調査会」第一次報告(案)を読んで 157
20 新人弁護士用 労働事件の研修 155

労働関係が多いのは当たり前ですが,「弁護士大増員時代-ドイツ弁護士事情」の3位は意外です。同業者が見ているのでしょうか。また,「日本の自殺率-驚愕の国際比較」は昨年から長く多くのアクセスがあるページです。(日本の自殺率が先進国ではトップということを知ったときには本当に驚愕しました)

ブログ先輩の同期の井上直行弁護士に「三ヶ月続いたら止められない」と言われましたが,本当でした。これからもお立ち寄りのほどお願いします。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年4月25日 (水)

読書日記 「下流志向」-学ばない子どもたち 働かない若者たち- 内田樹著

  2007年1月30日発行(講談社)
 2007年4月20日読了
 
■<学ばない子どもたち, 働かない若者たち>
昔,アエラで,<働かない長男,結婚しない長女>と現代を切り取るフレーズがありましたが,それと同じくらいに「現代」を言い得ていますね。

■現代の子どもたちは「オレ様化している」!
教師が小学生にひらがなを教えようとすると,小学生が「先生,これは何の役に立つんですか?」と何のてらいもなく質問してくるのが現代です。「どうして教育を受けなければならないのか?」と根本的な質問をするというのです。

内田氏は,その理由を諏訪哲二氏の「オレ様化する子どもたち」の中の文章を引用し説明をしています。

子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも,そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」として確信を持つからであろう。

学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに,すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。

これを受けて内田氏は,さらに次のように展開します。

僕たちの世代で,生まれてはじめての社会的活動が労働でなくて消費であった,家事労働の手伝いを経験するより先に,まずお金を使ったことがあるという子どもはほとんどいなかった。

今の子どもたちは,もしかすると,その過半が生まれて初めての社会経験が買い物だったということになっているのではないでしょうか。この最初の経験の違いはかなり決定的なもののように思われます。

そして,内田氏は,その決定的な違いは,子どもたちが「教育のサービスの買い手」として学校にあらわれるということだと言います。

彼らはまるでオークションに参加した金満家のように,ふところ手をして,教壇の教師をながめます。

「で,キミは何を売る気なのかね?気に入ったら買わないでもないよ」

■教育と「消費サービス」
「消費主体」という言葉で,例の著名な八代尚宏氏(国際基督教大学・労働経済)の「『健全な市場社会』への戦略」という著書の中で,八代氏が「消費者主体の義務教育改革」を訴えていたのを思い出しました。

消費者のニーズに応えて多様な「教育サービス」の選択肢を提供するという,市場社会の基本的なルールを対応した政策が実現していない。

公立や私立の違いを問わず,生徒や保護者のニーズに沿った教育を行う学校が選択され,そうでない学校が淘汰されるという,当たり前の競争原理を,教育の世界にも導入する必要がある。

教育に功利主義的観点を持ち込むことが適切であれば,消費者として,如何に教育サービスをいかに効率良く享受できるかを考えるのは当然ということになります。

■学びとは何か
内田氏は,学び,教育をサービスの買い手や受け手という発想をはっきりと批判します。子どもの学習権を強調してきた教育(法)学者は怒るでしょうね。

子どもは学習の主権的で自由な主体であるのではありません。

学びとは,学ぶ前に知られていなかった度量衡によって,学びの意味や意義が事後的に考量される,そのようなダイナミックなプロセスです。学び始めたときと,学んでいる途中と,学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である,というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命です。

内田氏の説明はちょっと判りにくいのですが,私になりに言い換えると次のようなことになるのではないでしょうか。

学びとは,相手との関係で,自分では意味が分からない未知なモノを受け取り,投げ返していく過程の中で,そのモノを手触りで確認して,その過程の中で自分(主体)も変化していく(成長していく)

すでに正体や価値が判ったもの(値札が付いた商品)を等価交換していく関係の中では,その主体(人間)に成長や変化は生まれない,ということを言いたいのでしょう。

内田氏は,消費主体として教育に投資したものを回収しようとする子ども(親)たちを次のように言います。

捨て値で未来を売り払う子どもたち

実際には,八代流の「消費者主体の義務教育改革」に身を委ねて,子どもたちの未来を売り払うのは,親たちなんでしょうが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月14日 (土)

「世界」5月号 西原博史「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」論文を批判する

西原博史氏(早大・憲法学教授)の「予防訴訟判決批判」に目を疑う。

「世界」2007年5月号で,西原博史氏(早大・憲法学)が「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判-『子どもの心の自由』を中心に」と題する論文を発表している。私も同氏の「良心の自由」(成文堂),「良心の自由と子どもたち」(岩波書店)も読んでいたので,その内容に期待して読みはじめた。ところが,その内容の酷さに目を疑いました。

この論文の表題は誤っています。西原氏が力を入れて批判しているのは,予防訴訟判決です。論文の表題は,「『日の丸・君が代』東京地裁予防訴訟判決批判-日教組御用法学批判を中心として」とでもすべきです。

■教師が起立しないと,子どもの思想・良心を侵害する だそうです。

冒頭に西原氏の知人であるというY氏の経験が語られる。

小学校で教職員組合の分会(教師集団)が,子どもたちに「君が代」は差別と侵略を象徴する歌であり,決して歌ってはいけないという教育をたたき込んできた。それに抗してY氏が起立して斉唱すると,教師らは「幼い小学生」に対して,裏切り者をそしる目を向けられた。(適宜要約-引用者)

西原氏は,これが過去にあった現実であり,それを正当化する教育法理論が通用していたと主張します。この教師たち(存在していたとしても,数十年前でしょう。また,東京ではないでしょう。)は当然に非難されるべきです。教師として許されない態度・行為です。この点は全く意見は一致します。

ところが,西原氏は,さらに教師の思想・良心の自由を擁護する主張に対して次のように批判するのです。

教職員が集団として,教育公務員としての職権を濫用し,国家シンボルの評価に対する特定の評価を子どもに押しつけた。卒業式は,教師たちに対する忠誠の証として座り続けられるかどうかを問う,子どもたちの踏み絵だった。(「世界」5月号138頁)
   …
過去にこうした現実があり,それを正当化する教育法理論が通用していたことを考えた場合,教師が思想・良心の自由という基本的人権を口にすること自体が悪い冗談のように響く。(同書138頁)

■教師が思想・良心の自由を説くことは,悪い冗談  だそうです。

曲がりなりにも憲法学者である大学教授が,人権の享有主体であることは間違いない「教師」が「思想・良心の自由という基本的人権を口にすること」を「悪い冗談」だと揶揄することに少なからず驚かされます。

西原氏は,自分と政治的に立場が違う人間が「思想・良心の自由」を主張すると,「悪い冗談」として切り捨てるを明確にされたことになります。憲法学者としての品位を疑わざるを得ません。

■「子ども中心主義」と「教師中心主義」   だそうです。
西原氏は,「子ども中心主義」と「教師中心主義」との両論を対置させます。「子ども中心主義」は,国家権力といえども子どもの思想・良心の自由を踏みにじってはならない,という認識」であると言う(何も,改めて「子ども中心主義」などと名付けなくとも人権論の基本だと思いますが…)。

他方で,教師中心主義とは,「日教組御用法学」学者が書く文章としては下品ですね。…本当は「日教組御用法学者」と書きたかったんでしょうね。)で,「子どもの前における教師の行為が子どもの成長・発達に対して及ぼす影響をすべて教師の善に解消し,教師の個人としての思想・良心の自由に対する侵害だけを問題とする」という立場だとされます。

(何だか昔の,懐かしの「国民の教育権論」と「国家の教育権論」の現代版の繰り返し(二度目は喜劇として)ですね。発想が図式的なんだよ,まったく。 「両者とも極論で採用し難い」ですな。)

■予防訴訟判決は教師中心主義であり,子どもの自由の保障を無視した判決。 だそうです。

この教師中心主義の実践が,予防訴訟提訴の運動であり,予防訴訟判決だと言って,次のように口を極めて非難されています。

 偏狭な集団エゴとしての側面を含めて教師中心主義へと立場決定することを意味し,もはや子ども中心主義とは相容れるものではなくなる。… 子どもの自由の保障が真剣に追求されているわけではなく,単に運動論的な名目として利用されているに過ぎなくなる(堀尾輝久「教育に強制はなじまない」岩波書店2006年)

 そして原告団の主張に対応する形で書かれたのが,2006年9月21日の東京地裁判決である。国歌斉唱義務不存在をおおっぴらに宣言するこの判決は,教師の思想・良心の自由を極限までに拡大した

 判決は,「国旗掲揚,国歌斉唱に反対する」ことを「世界観,主義,主張」と同視する。こうした論法を採れば,好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心の自由の下で不可侵となってしまうだろう。実際に判決は,個々の原告ごとの侵害認定を行っていない。イヤなことをやらされたら良心の自由の侵害,自分たちの政治信条とずれることをさせられたら思想の自由の侵害,という論理だが,これが法的に通用する命題であるはずはない。(以上「世界」5月号140頁)

 予防訴訟判決は,教師の思想良心の自由の主張の前に再び学校における子どもの無権利状態を確立しようとするものである。(同書143頁)

■西原氏にとって主敵は「日教組と日教組御用法学」   のようです。

西原氏は,「日教組は子どもの自由と言いながら『教師中心主義』で誤っている。子ども中心主義に立つべきだ」と強調されています。この点は西原氏の価値観ですし,私は日教組なんかには,縁もゆかりもありませんので問題にしません。

確かに,最高裁伝習館高校事件判決を見ると,40年近く前の学園紛争時代には,極端なイデオロギー教育を一部の教師が実践していたという現実はあったのでしょうね。でも,それを安易に現代に一般化するべきではありませんそれでは都教委や産経新聞,読売新聞と一緒です。

(私が東京都の代理人弁護士なら,この西原論文を東京都・都教委側の書証(証拠書類)として提出します。おそらくそうなるでしょう。もちろん,西原氏は覚悟のうえでしょう。もし,予想していないとしたら世間知らずですな。)

■西原氏は,「判決批判」の最低限のルールを守っていない と思います。

私が,西原氏の論文を批判すべきだと考える点は,予防訴訟判決をして,「好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心の自由の下で不可侵となってしまう」とか「イヤなことをやらされたら良心の自由の侵害」などと決めつけて非難する部分です。

予防訴訟判決を読めば明らかなとおり,憲法19条の思想・良心の自由として保障される内面的精神作用を,「宗教上の信仰に準じる世界観,主義,主張等を全人格的に持つこと」と定義しています。すなわち,内面的精神作用一般でなく,「宗教上の信仰に準じたもの」で,憲法学説上の通説である狭義説にたっています。したがって,「好き嫌いを含むあらゆる意思決定が思想・良心に含まれる」ものではないのです。そのような記述がないのに,西原氏が上記のように決めつけるのであれば,法律家である以上,十分な論証が必要です。ところが,その論証は全く欠落しています。(単なる時事評論レベル「世界」の論文なら許されるんでしょうか。「ジュリスト」だとこれでは掲載は無理ではないでしょうか。)

■判決批判の際には,ちゃんと主文と理由を読みましょう。

次に,西原氏は,予防訴訟判決について,まるで「ありとあらゆる場合に起立義務が存在しない」ことを認めたかのように論じています(同書140頁)。しかし,これは間違っています。西原氏は,法律家として初歩的な誤りを犯しています。このことは予防訴訟判決の判決主文を読めば一目瞭然です。

判決は,「10.23通達に基づく校長の職務命令に基づき,学校の卒業式,入学式等の式典において,会場の定められた席にて国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務のないことを確認する」(ピアノ伴奏義務も同じ)と判示しています。予防訴訟判決はその理由も述べています。

上記で検討したとおり,本件通達及びこれに基づく各校長の職務命令が違法なのであって,原告らの請求は,本件通達及びこれに基づく各校長の職務命令に従う義務がないことを求め,また上記職務命令に違反したことを理由に処分されないことを求める限度で理由があるので,その限度で認容し,その余は理由がなく棄却するのが相当である。

しかも,原告らは,この主文を受け入れて予防訴訟判決に対しては,控訴していないのです。西原氏が,もし批判するのであれば,上記の明白な事実関係を踏まえた上で,論述を組み立てるべきです(法律家なら)。

「世界」の読者の多くは,予防訴訟判決の全文を読むことはないでしょう。そうである以上,法律家として「判決批判」を行うのであれば,最低限,判決の趣旨を正確に紹介するよう心がけるべきです。自己の学説や政治的主張に都合の良いように判決を歪曲して引用することは,法律家はしてはなりません。法律家の最低限のルールです。(それとも憲法学会では,これが普通なんでしょうか。労働法学ではこんな乱暴な判例評釈は見たことがないです。非法律家のジャーナリストの文章ではよく見かけますが。)

■思想・信条の自由についての西原説は「人格崩壊説」   です。

ちなみに,西原氏の「思想・良心の自由」の定義は次のような内容です。おそらく現在の憲法学説の中でも,特異な最狭義説ということになるでしょう。

「思想・良心の自由は,高度に個人的な精神作用を管轄する。思想・良心は,自分が自分であるために守らなければならない純粋に個人的な規範体系を設定し,その観点から自らの行動を監視するもの」

「自らの良心に反する行為を強制され,そのことによって良心本体が回復困難な損害を被り,もはや自分が自分でなくなってしまうような人格崩壊に直面するギリギリの場面で初めて,具体的な行動に関する法や国家の命令が良心の自由に対する侵害と構成される」

この西原説に対して,法律家として浮かぶ疑問は,「自分が自分でなくなる」ってどうやって客観的・一般的に判断するのでしょうかね。また,「人格崩壊」とは何を意味するでしょうか。(精神医学上の概念なのでしょうか。)それは裁判官でなく,精神医学者が判定するものなのでしょうか。文学者の表現なら許容されると思いますが,実用法学を指向する法律家にとっては,あまりに「文学的」・「哲学的」(?)すぎる定義であり,私には到底理解できません。裁判実務の実用に耐える概念・定義ではないですね。(きっと格好いいと思っているんでしょうな。)

■最高裁ピアノ伴奏判決を予防訴訟判決を軌道修正する試みとして評価する

,そうです。

西原氏は,ピアノ伴奏最高裁判決を,「予防訴訟判決を意識して軌道修正を試みるものだった」とします。そして,「対極において思想・良心の自由を叫んですべての法的コントロールを無効化しようとするかのごとき乱暴な議論が下級裁判所の判例の中にも地歩を築きつつあった現状(予防訴訟判決のことを意味している-引用者)に対する最高裁の回答であった」として,予防訴訟判決を否定する側面を評価するのです。(これもびっくり)。

その上で,氏の言う「子ども中心主義」を基本としつつ,最高裁判決多数意見を批判し,19条論を展開すべきだと言っています。しかし,この論文には,その立論は書かれていない。この点は,また論じてみたいと思います。私見では,西原氏の論理の延長線上には,ピアノ伴奏最高裁判決を批判する”実用的な法理”は出てこないと思います。

■予防訴訟判決をちゃんと読みましょう

最後に,予防訴訟判決の結論部分の一部を引用しておきます。西原氏は,この論述を読み飛ばしたのでしょうか。(きっと,日教組御用学者たちとの論争に目を奪われて,法律家としての客観的な判決分析が出来ないのでしょう。)

 原告ら教職員は,…(中略)…生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うもとの解されるから,入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努力するべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは許されないものといわなければならない。
 しかし,原告ら教職員は…(中略)…思想,良心の自由に基づき,これらの行為を拒否する自由を有しているものと解するのが相当である。

 原告ら教職員が入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し斉唱すること,ピアノを伴奏することを拒否した場合に,これとは異なる世界観,主義,主張等を持つ者に対し,ある種の不快感を与えることがあるとしても,憲法は相反する世界観,主義,主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めるものであって(憲法13条等参照),このような不快感等により原告ら教職員の基本的人権を制約することは相当と思われない。

この部分は,価値観の多様性を尊重する「立憲主義」の基本思想を押し出した判断であり,予防訴訟判決の全体を貫く考え方だと思います。

西原氏が,何故に,上記判示をも無視して,「予防訴訟判決は,教師の思想・良心の自由の主張の前に再び学校における子どもの無権利状態を確立しようとするものである」などと決めつけるのか理解に苦しみます。何か政治的な理由(悪意)があるのでしょうか。

「教師の教育の自由」と,「子どもの自由」を,西原氏のように,極端に敵対的に把握して,両者を並立しないものとして,徒に対立させる考え方は,「青臭い極論」であるか,あるいは「政治的他意がある」と思われます。

心ある人たちは,両者をどう調整するのかを頭を悩ませているのでしょうに。

西原氏は,自分の教室では,さぞや,学生の思想・良心の自由を侵害しないよう配慮しつつ,自説に固執せず,客観的な法令及び判例の解釈の仕方を教えられていることでしょう。司法試験合格のためには,その方が良いですし。(スミマセン。大人げないですが,「嫌み」を言いたくなりました…。)

■【蛇足の補論】
ひょっとして,西原氏は,現実の裁判の構造(民事訴訟制度,行政訴訟制度)を全く理解していないのではないでしょうか

子ども(ないし,その親権者)が,子どもの思想・良心の自由の侵害を主張すれば,西原説はぴったり収まるでしょう。しかし,教師が原告になる場合には,子どもの権利は背景に引き,間接的な事実関係にならざるをえない。

子どもの「思想・良心の自由」を侵害すると教師が訴訟上,主張して,裁判所が,そうだと判断してくれるほど単純であれば,誰も苦労しないのです。

ピアノ伴奏拒否訴訟では,第1審も控訴審も最高裁でも,「子どもの思想・良心の自由が保障される状態がない限り,国旗国歌を起立し斉唱させる措置は違憲・違法である」という単純な立論は排斥されたのです(残念ながら)。藤田少数意見も,この立場にはたっていません。

予防訴訟の審理では,堀尾輝久教授の証言が行われました。堀尾証人は,「子どもの学習権」,「子どもの思想・良心の自由」を強調した証言をしました。(西原氏は,堀尾輝久教授を「教師中心主義」の「日教組御用法学」として論難しているようですが。)

難波裁判長は,「子どもの思想・良心の自由を守らねばならないということは判った。しかし,本件職務命令は,子どもに立って歌えと言っているわけではない。教師に起立して斉唱せよと命じているだけだ。子どもの思想・良心の自由とどう関係しているのか?」という趣旨の質問を堀尾証人にしました。

つまり,裁判所から見れば,原告(教師)にとって,子どもの権利は,あくまで「第三者の権利」であって,原告(教師)が,第三者に対する権利侵害を援用して違憲性を主張できるのか訴訟適格上の問題が生じます西原説の「子ども中心主義」の立場から見れば,教師が第三者(子ども)の権利を主張するという関係になるのは当然の帰結のはずです。この場合に,西原氏は第三者の権利侵害を援用できるという解釈なのでしょうか。「教師中心主義」と,「子ども中心主義」を対立させる西原説では,論理的にも倫理的にも,教師が子どもの権利侵害を主張することは許されないということになるはずです。

また,これをクリアしたとしても,現実に子どもの権利が侵害されたという具体的事実を立証しなければならない。これが相当に高いハードルだということは法律家には判るはずです。そのように権利主張をして裁判に協力(証人で出て)くれる子どもと親を捜さないといけませんよね。それはほぼ不可能でしょう。(立証が著しく困難で,負けそうな理論をこねくりまわして,予防訴訟判決を批判して,どうする気かね? この西原論文は自ら「袋小路」に落ち込んでいるという印象です。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 9日 (月)

「労働市場改革専門調査会」第一次報告(案)を読んで

■「総論」のまともさ

4月6日に労働市場改革専門調査会の第一次報告(案)が公表されました。題して,「働き方を変える,日本を変える」-<ワークライフバランス憲章>の策定-です。

一読して,「総論」のあまりの「まともさ」(?)にびっくりしました。次の文章からはじまります。

日本の労働市場の現状を見ると,様々な働き方の間に大きな「壁」が存在している。類似の仕事内容であっても,正社員と非正社員,男性と女性,若年労働者と高齢者の間に処遇の格差が存在し,労働の評価の仕方に十分な合意がみられない。また,正社員と非正社員に関して全体の平均像を比較すると,正社員については雇用が保障される一方で,長時間労働や配置転換・転勤といった無限定な働き方が求められることにより,生活面の充実と就業との両立が困難になっている場合もみられる。他方,非正社員については,制約の少ない働き方が実現される一方,雇用が不安定で賃金が相対的に低く,質の高い教育職業訓練の機会が得られず,正社員への道も制約されている場合が多い。

政府の調査会が,よくここまで書いたなあというのが正直な感想です。内閣は,一時は「格差」の存在自体を認めない発言を繰り返していたのですから。

■数値目標

労働時間について,10年後の数値目標を次のように掲げます。

完全週休二日制の100%実施,年次有給休暇の100%取得,残業時間の半減を通じてフルタイム労働者の年間労働時間を1割短縮することを目標に働き方の効率化を図る。

「そんなことに,10年もかけるのか」という批判はともかく,政府が数値目標を据えたこと自体が大きな進歩です。

 しかも,就業率の向上を年代ごとに数値目標をかかげています。若年者の就業率を15~34歳の男性については4%,同じく未婚女性については3%,25~44歳の既婚女性については14%に引き上げるとしています。

     日本型雇用システムからの脱却

「日本型雇用システム」(報告は,「新卒一括採用・終身雇用制と年功型賃金体系を組み合わせた『高度成長補完型雇用システム』であった」としています)は,経済環境の変化によって維持できなくなったと断定します。その上で,女性や若者にとっては桎梏であることを次のように指摘しています。

「さらに慢性的な長時間労働や頻繁な転勤等の労働慣行は,多くの女性に就業と家事・子育てとの両立を断念させる結果となる。このように,若年労働者数の供給源と女性労働者比率の高まりは,従来の長時間労働を前提とした働き方との矛盾を顕在化・拡大させている。」

日本の長時間労働が非関税障壁だと国際的に非難された当時,政府と経営者団体が,「日本経済の成功の秘訣は『ハードワーク・スピリット』だ。」とILOで開き直っていたと聞いたことがあります。その頃から比べると,隔世の感がありますな。

でも,・・・

続きを読む "「労働市場改革専門調査会」第一次報告(案)を読んで"

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年4月 7日 (土)

労働契約法案に関する日弁連意見

■大山鳴動 労働契約法 骨皮すじ右衛門

ということで一時は盛んに,このブログでも取り上げた労働契約法です。でも,法案化された内容を見ると,確かに羊頭狗肉。骨格どころか大切な部分の骨も欠けているものです。(ちょっと取り上げる意欲が萎えそうな感じですが)
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/dl/166-9b.pdf

■日弁連の意見

日本弁護士連合会には労働法制委員会があります。2002年に設置された委員会です。弁護士会ですから,労働側の弁護士だけでなく,使用者側の弁護士も参加します。また,中労委や地労委で公益委員となっている弁護士も参加してます。

立場の違いはあるとしても,実務法律家としての見地から,労働法制に関して意見を述べてきています。これまで,労働審判法や平成15年の労基法改正の節目に日弁連としての意見をとりまとめてきました。

今回の労働契約法についても,労働法制委員会として意見をとりまとめ,最終的に理事会を通って日弁連の意見として発表されました。
  ↓
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/070315.html

日弁連意見の基本的スタンスは,「労働契約法は極めて重要な法案であること,今回の労働契約法はわずかな事項についてしか定められていないため,より望ましい労働契約法を制定するために国会の積極的審議を望む」ということです。玉虫色ですな。

要するに,そのココロは,「小さく産んで,大きく育ててね」ということでしょうね。

■就業規則法理について

とはいえ,就業規則法理については,労働法制委員会の中でも厳しい対立と議論がありました。それも,労働側弁護士同士の対立でした。(使用者側の弁護士は「なんで労働側が反対するの?」という感じ?)。結局,次のような文章に落ち着きました。

この法案は、使用者が一方的に変更する就業規則の効力に関して「就業規則の変更による労働条件の不利益変更」の判例法理を制定法で明示するという意義があるしかし、今まで実務で積み重ねられてきた判例法理が過不足なく立法化されているか否か、立法化によって現実の労使にどのような影響を与えるか、労働組合等との交渉について労働者側の実質的対等性を担保する方策の在り方や合意原則との整合性などについて十分な考察、検討が必要である。さらなる国会での充実した審議を望むものである。

…確かに,玉虫色の文章です。(「何が言いたいんじゃ!」と言われました。)

でもでも,労働組合が存在しない圧倒的多数の職場では就業規則の不利益変更法理さえ,まったく知られておらず,就業規則さえ無視して労働条件の不利益変更がまかり通っている,というのが私の基本的な認識です。

労働契約法に判例法理が盛り込まれることで,その改善に一歩でもつながるのではということで,「判例法理を制定法で明示するという意義がある」という表現になりました。

■反対意見

とはいえ,「法律に書き込まれれば改善につながると思うのは,人が良すぎる。逆に,使用者が就業規則を変更して労働条件を不利益に変更するというアナウンス効果がある」との強い批判もありました。

また,「労働契約の合意原則と最高裁の就業規則変更法理は矛盾しており,理論的に誤っている。誤った判例法理の固定化に手を貸すことになるので反対だ」という原則論もありました。

(…んなこと言ったて,現に労働条件の不利益変更の紛争が生じたら,我々弁護士としては判例法理を活用するしかないじゃん。)

続きを読む "労働契約法案に関する日弁連意見"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年4月 4日 (水)

さくら 桜 

05010020_r1 05010043_r1_1 

 

05010044

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »