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2006年8月21日 (月)

「判例」について

■判例主義者?
普通の通常民事事件では、判例を示して見通しを述べると依頼者に納得してもらえます。ところが、事件によっては、弁護士は「判例に拘泥しすぎている。」、「判例主義者」との批判を受ける場合も時々あります。

労働事件や人権か問題となる社会的事件では、社会的な力関係では厳しい局面にたたされている当事者が、後の手段として裁判に訴えるケースが多いのです。

社会的な力関係で劣勢にたっている当事者にとって、当然のことながら、判例も不利な場合が多い。ですから、そのような当事者は、判例(=裁判所)に対しては不信感を持ち、また判例を中心においた弁護士の法廷での主張立証活動に批判的になることがあります。

確かに、判例だけに矮小化した主張では、厳しい事件で勝訴することはできません。ただ、判例を【凌駕した高尚な理論】も度がすぎると、主観的価値観に偏った独りよがりの法廷活動となって、裁判官を説得するという原則から逸脱する危険性があります。「論旨は独自の見解に立つものにすぎず、採用できない」って切り捨てられるだけ。

判例を踏まえながら一歩踏み出した法律論を組み立て、これに関連づけた重要な事実を立証することが大切なのですが、これが難しいですね。また、「当事者の真摯さ、誠実さ、人間性」も勝つための重要な隠し味だと思います

■判例の機能
判例自体を、よく見極める必要があります。社会情勢が変化しt場合には、過去には微温的かつ保守的だと批判された判例が、現在においては重要な歯止めになっていることがあります。

■判例が歯止めになるケース
労働事件の判例は、その典型例だと思います。整理解雇の4要件、就業規則の不利益変更、使用者の範囲などなど。現実社会では「雇用流動化」や「リストラ」の爆走中です。その中で労働判例は個々の労働者の権利擁護の歯止めの機能を果たしています。(その判例群も、この10年間にわたって浸食されつつあります。その綱引きをしているのが現状の労働裁判という感じがします。)

また、教育基本法10条1項に関する最高裁旭川学力テスト大法廷判決があります。当時は「国民の教育権説」を否定した判決だとして非難されていましたが、現在においては教育行政の教育への「不当な支配」に対する「最後の防壁」となっています。(これも教育基本法の改正により風前の灯火ですが。)

■裁判官と判例
裁判官は「法律と良心」にのみ従って、当該事案に適用される裁判規範は何かを探索して判断します(当たり前か)。そして、「判例は法律(法源)ではない」と言われています。でも、裁判官にとっては判例、特に最高裁判決は絶対のようです。あと裁判官の中の多数説から外れたくないという意識も強い。

上訴で判決が取り消されたり、破棄されることがわかっているのに「判例」に真っ向からたてつくやり方は実務家としてはナイーブすぎる(要するに「子供」ということ)と評価されます。上級審でも維持できるような「良い」判決を書くことこそ、弁護士からも「プロの裁判官」として評価されます

■実務家と学者の違い
裁判官が、判例をそのまま適用したら結果が不当になると考えた場合には、事実認定で工夫をして既存の判例とは事案が違うとしたり、判例上の隙間をねらうしかないのでしょう。そこを見据えて、弁護士も主張と立証を工夫します。他方、法学者は法理論の整合性が命です。この点が学者と実務家の違う点だと思います。

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