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2006年6月20日 (火)

「ジェンダー」論争に思う

■ジェンダー・フリー
もうだいぶ古い話しになりましたが、都教委が「ジェンダー・フリー」という用語を学校や官庁では使用しないように通知したと報じられました。ジェンダーフリーは過激なフェミニズムだと保守派が反対運動をした結果です。
 ↓
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr040826.htm

都教委は日の丸・君が代や愛国心を権威と権力で押しつける一派です。彼らのジェンダー追放の意図は、女性差別の温存と容認にほかなりません。

■ジェンダー論
 ジェンダーの出発点は極めてまっとうで簡単な話だと思います。

(A)「今日、フェミニズムのなかでは『セックス』は『「生物学的性別』、『ジェンダー』は『社会的文化的性別』を指す用語として定着している」(「差異の政治学」3頁 上野千鶴子著)。

(B)「性差は解剖学的にも生理学的にも否定しようのないかたちでそこにある。だが、個々の人間が男または女として生きることを決定づけるのは、生物学的な性差(セックス)ではない。それは、社会的・文化的な性差(ジェンダー)である」(上記6頁)。

んでもって、さらに・・・
(C)「社会的文化的性差をなくせば、性差別を廃絶できる」

■論争点
(A)と(B)の点は、フェミニズムの論者だけでなく、(保守派は別として)多くの人の共通認識だと思います。論争となるのは(C)の点だと思います。

この(C)まで論理を推し進める人がジェンダー派には多いようです(ラディカル・フェミニズム?)。上野千鶴子氏がこのような意見であるかどうかは、私には判断しかねます(正直なところ、上野氏は、この点について、注意深くぼかしているように感じます。)。

しかし、(C)の点は私は疑問に思います。(・・・ちょっと「危険水域」に入ってしまったかなあ。女性から「女の敵」として袋だたきにあうかもしれませんね。オジサンの素朴な疑問としてご容赦下さい。)

■ジェンダー=男女差別?
<ジェンダー=性差別>として論理を展開しているフェミニズム論者もいるように思えます。

しかし、社会的文化的性差があることが、女性に対する不当な性差別に直結するわけではないと思います。縄文時代の社会にもジェンダーがあったでしょうが、女性が不当に劣位におかれていたのではないかもしれません(日本列島の縄文社会は、母系社会で家父長制のような抑圧はなかったと言う考古学者もいるようです)。

社会的文化的性差が許されないのではなく、社会的文化的性差を理由にした不当な性差別が許されないのではないでしょうか。

現代社会において、社会的文化的性差を理由にして、女性の就労機会を制限することは、基本的人権(これは男女ともに共通の価値規範です)の観点から許されないのです。共働きなのに妻だけが家事育児を負担するのは平等の観点から不合理であり、許されないのだと思います。性別分業意識の克服は、社会的文化的性差を廃止しなくてもできるのだと思うのです。

■民族差別をなくすには民族を廃止する?
「男女差別をなくすためには社会的文化的性差を廃止しなければならない」と言うことは、ちょうど「民族差別をなくすためには民族を廃止しなければならない」というスローーガンのように、おかしくはないでしょうかね。民族を廃止することは本末転倒でしょう。日本社会においても朝鮮民族やアイヌ民族のアイデンティティを持ちながら、差別が是正されるべきなのですから。

もっとも、「女は女らしく、男は男らしく」という常識によって「女は家事。男は仕事」という社会規範に縛られてきた女性がジェンダーに反発するのは無理からぬところがあることは認めますが…。

「社会的文化的性差」(ジェンダー)があることは、今までのあらゆる人間社会に共通しています(良いか悪いかの評価は別として)。数十万年前の狩猟採取段階の社会にも、数千年前からの農業生産段階の社会にも、150年前からの産業資本主義段階の社会にもそれぞれの社会にそれぞれのジェンダーがあった。古今東西を問わず、また宗教の別も問わず、それぞれの社会で固有のジェンダーが存在してきたのでしょう。中には男が女より美しく化粧することが当たり前の社会だってあるそうです。

社会的文化的性差(ジェンダー)は、生物学的性差(セックス)に根ざしつつ、親子、家族や社会の「基層」に深く根をはった「仕組み」なのではないでしょうか。

■問題は「男と女」ではなく、「父と母」をどう考えるかではないか
私は、「男と女の違い」は、「父と母の違い」を認めるかどうかということなのだと思っています。子どもと家庭(つまり、「生殖と子育て」)を基礎にして社会的文化的性差が生まれると思っています。フェミニズム論者は「母性」と「父性」の違いを否定するのでしょうね、きっと。「父」と「母」は社会的文化的性差(ジェンダー)にすぎないって。

でも、父と母の違いがない親子ってどんな関係なんだろう。それは生物として自然な状態なのでしょうか。私には想像がつきません。ここまで来ると、ジェンダー・バイアスの中で育ってきたオジサンは、ジェンダー・フリーや
フェミニズムにも、やはりついていけない部分もあります。勉強不足でスミマセンです。

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