2017年11月25日 (土)

5時から頑張る日本人-日本人は労働時間短縮が可能か?

日本で労働時間短縮は可能か?
「5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人」(熊谷徹著SB新書)を読みました。

https://www.amazon.co.jp/dp/B00W4NB3IO/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
昔、日本でも「5時から男」って言葉があった(1988年流行語大賞・高田純次)。ただ、これは仕事が終わってから生き生きと遊びにいく日本人サラリーマンのこと。この本の「5時から頑張る」とは残業を頑張るという意味です。

著者は1959年生まれ。早大卒業後NHKに入局して記者として8年間働き、1990年からはドイツで27年生活し働いているジャーナリスト。ドイツの生活実感から日本の「働き方」を批判します。

ドイツ人は午後5時まで働き残業をしない。日本人は午後5時から頑張って残業する。ドイツは「時短先進国」で年労働時間1371時間。「長時間労働大国」日本は年労働時間1719時間である。

でも、ドイツ経済は現在絶好調であり、労働生産性は日本より46%も多い。2016年の1人当たりGDPを比べるとドイツ(4万2902ドル=約486万円)が日本(3万8917ドル=約451万円)を上回る。
ドイツでは有給休暇を100%消化することや2~3週間のまとまった長期休暇を取ることが、当然の権利として認められ、実行されている。
著者は過労自殺を生み出す電通を厳しく批判し、ドイツではあのような働き方はあり得ないと批判しています。NHKで働いていたころ、著者も日本流の長時間労働にあけくれ、締め切り間際に、不眠不休の長時間労働に従事したという。

最近、NHK女性記者が過労死したことが報道された。ドイツでは「原稿より健康」と言われて、テレビ放送局でも一日最長10時間の規制は守られているという。また、就業時間以外に仕事のメールを部下に送るのは禁止されており、これは休暇中も同様だという。有給休暇とは別に病気欠勤制度が区別され、ドイツでは有給の病気休暇制度が用意されている。

日本とは、まったくの「別世界」です。


ドイツとは「国民性」も「文化」も違うのだから、「日本では無理だとあきらめる」のが多くの日本人でしょう。しかし、ドイツに住む著者は「違う」
と言います。日本でも本当の「働き方改革」を行えば、労働時間短縮は実現できると。


ドイツでは、1日10時間を超える労働が法律で厳格に禁止されていることが大きい。ドイツの労働時間法は「1日8時間・週48時間」で「6ヶ月平均日8時間となること条件に1日最長10時間までしか働けない」制度です。
10時間を超えて働くことは、日本と違ってけっして許されない(適用除外の職種はありますが)。

ドイツでは、国が厳しく企業を監視します。この法律は厳格に適用されます。10時間を超えて労働者を働かせた場合、事業所監督局から最高1万5000ユーロ(約180万円)の罰金が会社に課せられます(場合によっては管理職にも適用)。これが建前だけでなく、実際に多くの企業が摘発されているそうです(病院など)。

さらに、ドイツは産業別労働組合の力が強く、法律よりさらに短い労働時間を定める労働協約が締結されています。例えば、金属産業であれば週35労働時間となっている。


日本では、「1日8時間しか働かないと言って、顧客からの注文を断ることはできない。断れば、競争会社に顧客を取られてしまう。」「年次有給休暇で長期間休むなんて。同僚に迷惑かけるので無理。」と考えるのが普通ですね。しかも、日本の労働組合は力が弱いし、頼りにならない。


でも、だからこそ日本では法律による横並びの規制が絶対必要です。
1日上限10時間とすることがは絶対必要です。10時間超えて働いたら企業や上司は必ず罰金を払うこととすれば、顧客が文句をいってきても法律だから仕方が無いと断れるでしょう。他の競争会社も厳格に同じ法律が適用されるから、同じ条件となります。

普通の企業で、労働者は1日8時間(上限10時間労働)では本当に仕事が回らないのでしょうかね。もし回らないとしたら、それは労働者1人当たりの業務量が過多にすぎるからでしょう。

人口減少時代となり、多くの女性にも労働市場で働いてもらわなければならない。少子化解消のため、子どもを産み育て易い労働社会環境を実現するために「ワーク・ライフ・バランス」は必要不可欠です。男女ともに労働時間短縮の実現こそ、日本社会と経済の発展と維持のために必要です。
顧客や経営者・労働者の自発的な「意識改革」を待っていては、永遠に実現しないでしょう。

法律で1日8時間・週40時間を定めるだけでなく、ドイツのように1日の上限時間を10時間とすべきです。

ところが、今の「働き方改革」の労基法改正案では、

時間外労働の上限について、月45時間、年360時間を原則とし、臨時的な特別な事情がある場合でも年720時間、単月100時間未満(休日労働含む)、複数月平均80時間(休日労働含む)を限度に設定。

これでは何も変わりません。過労死ラインを超える80時間以上の労働を認めるなんて、あり得ないでしょう。

ドイツ人にできて、日本人にできないわけはありません。
ドイツ人も昔から労働時間が短かったわけではありません。1950年代は週50時間を超える労働時間だったそうです。1956年のメーデーでは、「土曜日のパパは僕のもの」というスローガン(「日曜日は神様のもの」ということで週休二日制の要求)が叫ばれました。ドイツの労働組合は週40時間労働時間を強く要求し続け、1984年に金属産業で7週間ものストライキという戦後最大の労働争議がおこり、産業別労働協約を獲得して、1995年には週35時間が実現されることとなったといいます。

労働組合の力が弱い日本では、法律による横並び規制しか道はありません。

労働時間の短縮は「国家」にとって、少子化という「国難」への対応、国力維持・経済発展のために必須であり、「国策」として推進すべき目標です。安部首相は国策や国難は得意なのに。


にもかかわらず、「働き方改革一括法案」の労働時間規制の水準は、悲しいかな「トホホ」の水準です。いつまでも変わらない、このままの日本で良いのか。

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2017年10月27日 (金)

私的「2017年選挙結果分析-誰が選挙結果を左右するのか」

朝日新聞の20171026日朝刊の小熊英二さん「論壇時評」の総選挙分析が鋭かった。興味のある方は必読ですね。

 

http://digital.asahi.com/articles/DA3S13198367.html?_requesturl=articles%2FDA3S13198367.html&rm=150

 

 

曰く、<安部首相周辺は、「日本人は右3割、左2割、中道5割だ」と言っている>とのこと。この左には、共産党や社民党だけでなく、民主党(民進党)も含まれる。

そして、自民党、公明党(以上、右)、民進党、社民党、共産党(以上、広義の左)も基本はコアな支持層を持っているが、右と左が、中道5割の国民(多くは棄権する人たち)の支持をいかに集めるのかによって、政権は決まるということです。

 

でもって、仕事がたまっているにもかかわらず、2009年から2017年の衆議院比例区の選挙結果(投票率、各党別の得票数、得票率、議席)を整理してみました。

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
 


 
(投票率)

 
 

20098

 

衆院比例
  (69.27%)

 
 

201212

 

衆院比例
  (59.32%)

 
 

201412

 

衆院比例
  (52.66%)

 
 

201710

 

衆院比例
  (53.68%)

 
 

主要政党

 
 

得票率(%)

 
 

得票数

 
 

議席

 
 

得票率(%)

 
 

得票数

 
 

議席

 
 

得票率(%)

 
 

得票数

 
 

議席

 
 

得票率(%)

 
 

得票数

 
 

議席

 
 

自民党

 
 

26.7

 
 

1,888

 
 

55

 
 

27.6

 
 

1,662

 
 

57

 
 

33.1

 
 

1,765

 
 

68

 
 

33.3

 
 

1,855

 
 

66

 
 

公明党

 
 

11.5

 
 

805

 
 

21

 
 

11.8

 
 

711

 
 

22

 
 

13.7

 
 

731

 
 

26

 
 

12.5

 
 

697

 
 

21

 
 

みんなの党

 
 

4.3

 
 

300

 
 

3

 
 

8.7

 
 

524

 
 

14

 
 

-

 
 

 
 

 
 

-

 
 

 
 

 
 

維新系

 
 

 

 
 

 

 
 

 

 
 

20.4

 
 

1,226

 
 

40

 
 

15.7

 
 

832

 
 

30

 
 

6.1

 
 

338

 
 

8

 
 

希望の党

 
 

-

 
 

 
 

 
 

-

 
 

 
 

 
 

-

 
 

 
 

 
 

17.4

 
 

967

 
 

32

 
 

民主党

 
 

42.4

 
 

2,984

 
 

87

 
 

16.0

 
 

962

 
 

30

 
 

18.3

 
 

977

 
 

35

 
 

-

 
 

 
 

 
 

立憲民主党

 
 

-

 
 

 
 

 
 

-

 
 

 
 

 
 

-

 
 

 
 

 
 

19.9

 
 

1,108

 
 

37

 
 

社民党

 
 

4.3

 
 

300

 
 

4

 
 

2.4

 
 

142

 
 

1

 
 

2.5

 
 

131

 
 

1

 
 

1.7

 
 

94

 
 

1

 
 

共産党

 
 

7.0

 
 

494

 
 

9

 
 

6.1

 
 

368

 
 

8

 
 

11.4

 
 

606

 
 

20

 
 

7.9

 
 

440

 
 

11

 

 

 

この表を見ると、自民党は1888万人から1662万人で常に1800万人前後の固定支持層がいます。公明党は800万人から697万人で固定支持層は700万人共産党の固定支持層は400万人前後社民党は現状では100万人くらいでしょうか。民進党(旧民主党)は、固定支持層は900万人くらい(民主党の2009年の獲得票数は例外で後述します)。

 

これらに比較して、みんなの党、維新系は固定支持層が見えず、そのときの風次第のようです。希望の党もこちらのグループでしょう

 

今回、立憲民主党が1109万人を獲得して、民主党の前回997万人から上積みしました。希望の党も967万人を獲得していますから、民進党(旧民進党)は分裂したけど大幅に得票数を伸ばしているように思われます。

 

しかし、表をよく見ると、立憲民主党の1100万の票は、民進党(旧民主党)のコアな支持票に、共産党や社民党から流れた票を上積みしたもののようです。また、選挙全体の投票率が高くないので、立憲民主党への「支持政党無し」(中道5割)からの支持はあまりないと言うべきでしょう。ですから、立憲民主党は「躍進だ」と言って喜んでいられる状況ではないことがわかります。

 

他方、希望の党は、967万の票を獲得していますが、投票率が低く支持政党無しの多くは棄権しているのだと考えると、希望の党も、維新系からの票を多く獲得しただけではないのでしょうか。維新の激減が、これを裏付けているように思います。


みんなの党や維新系や希望の党に投票する人々は、時の「風」によって投票先を変える傾向(支持政党なし層だから)があるのでしょう。

 

つまり、政権の命運を決めるのは、いつもは選挙にいかず、支持政党を持っていない「中道」の多数派の国民であることが如実にわかります。

 

例えば、2009年に民主党が勝利したのは、投票率が69%と高いことから見ると、支持政党無しの「中道」の2000万人が民主党に投票したのです。驚くべきことに、自民党も、公明党も、共産党も獲得票(固定支持票)自体は変わっていませんから。

 

その意味で、自民党も安泰ではないことは十分に認識していることでしょう。何か情勢(「風」を生み出す客観条件)が変わって、いつもは選挙にいかない支持政党なしの多くの国民が動き出すか、どう投票するかで、すべてが決まるのですから。

 

さて、安部首相の悲願である憲法9条改正の国民投票では、この層がどう動くか予測できないところがあります。そうであるからこそ、改憲派にとっては、北朝鮮情勢が緊迫している今こそ、「千載一遇」のチャンスなのでしょう。

 

 

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2017年10月 9日 (月)

「リベラル」と「保守」、そして「左派」の違い

民進党が分裂して、立憲民主党が結成されました。立憲民主党はリベラル政党を自称し、共産党や社民党は、これと選挙協力をすすめています。「リベラル」と「左派」って何か。私の考えを整理します。

 

「保守」と「革新」

 

私は1959年生まれで、私の若い頃の理解では日本政治の対立構図は「保守」対「革新」でした。1955年~1980年代後半までは、この構図で政治的対立が描かれていました。

 

日本の「保守」はもちろん自由民主党(自民党)です。自民党という政党は、自由主義と民主主義を党名に掲げながら、政治的・市民的な自由や民主主義を真面目に尊重しません。
その証に、自民党は、基本的人権の尊重と民主主義をわが国で初めて宣言した日本国憲法を敵視し、自主憲法制定を党是とする大日本帝国憲法に親近感をもつ復古主義的・民族主義的な色彩の強い「保守」です。少なくとも、自民党は、自己の見解と異なる意見を持つ人々の政治的・市民的な自由を尊重する姿勢に乏しい存在です。ですから、日本における「保守」は、欧米とは異なり、政治的・市民的な自由主義を軽視する姿勢が強く、右派(右翼)の色彩が強いのが特徴です(
注1)。

 

これに対して、日本社会党が社会主義(ないし社会民主主義注2)を標榜して「保守」に対峙しました。もっとも、日本社会党も、真面目に社会主義を尊重したわけでなく、実際には「護憲」(基本的人権、国民主権、平和主義)を標榜する政党でした。支持した多くの国民も社会主義(ないし社会民主主義)を支持したわけではなく、あくまで「護憲」(基本的人権尊重、国民主権、平和主義)を支持したわけです。
この日本社会党と日本共産党を加えた勢力が「革新」でした。これはまぎれもなく左派(左翼)です(
注3)。

 

「リベラル」と「保守」

 

1991年ソ連崩壊、ソ連・東欧社会主義体制が終焉したことにより、日本では左派(左翼)は衰退し、日本社会党は社会民主党へ、さらに民主党へと変貌し、もはや社会主義や左翼を連想させる「革新」という言葉を使用しなくなりました。日本共産党のみが「革新」という言葉を使用します。

 

この頃、「革新」や「左翼」との関係を絶つために、もっぱら民主党や社会民主党が、「リベラル」という用語を使用するようになったように思います。

 

リベラルを教科書的に言えば、自由主義(リベラリズム)と同一であり、経済的には個人的所有を基本とした資本主義を意味し、政治的には政治的市民的自由が保障された議会制民主主義を意味します。ですから、自由主義を党名とする自民党も本来は、リベラルのはずです。

 

ところが、前記のとおり、自民党は経済的な自由主義(資本主義)ですが、政治的・市民的な自由主義に対して冷淡です。政治的・市民的な自由の尊重とは、多様な政治的言論の自由、思想や宗教の自由を尊重するものです。何よりも少数派の政治的・市民的自由の尊重こそがリベラルの要諦です。多数派の政治的・市民的自由のみを尊重しても、それは自由主義的(リベラル)とはけっして言いません。
その点で、自民党は、何かと言えば、「非国民」「反日」「在日」という言葉を投げつける方々と同じ心理的傾向をもっており、自らをけっしてリベラル政党とは規定しないでしょう。

 

以上、日本では、「保守」と「リベラル」は、資本主義を是とする立場は共通ですが、政治的・市民的な自由を尊重するか否か、つまり、日本国憲法の価値を擁護するか否かで大きな対立があるわけです(ただし、リベラルの中でも平和・安保については非武装中立から、専守防衛や集団的自衛権容認までの幅があります)。

 

「リベラル」と「左派」

 

上記のとおり、リベラルとは、経済的には個人所有権に基づく資本主義の立場にたち、政治的・市民的自由を尊重し、多様な価値観に寛容で、議会制民主主義を信奉する人々です。

 

左派は、資本主義の欠陥を指摘し、社会主義経済を指向しますから、資本主義経済を擁護するリベラルとは対立します。

 

しかし、両方からの相互接近があります。

 

左派からリベラルへの接近

 

現代の左派(日本だけでなく、ヨーロッパも)は、ソ連のスターリニズムや中国の共産党独裁の反省から、政治的・市民的な自由と権力分立などの立憲主義を尊重するようになりました(昔は「ブルジョア民主主義」と非難していた)。
また、暴力革命によって社会主義革命を遂行するという革命論から、議会制民主主義を通じての革命という社会民主主義的路線をとるようになりました。
さらに、社会主義計画経済の失敗により、市場経済の活用が必要との認識が左派でも共通となりました。今は、左派がリベラル化しました(ただし、左派の中も平和主義については非武装中立から専守防衛・自衛中立まで幅があります)。

 

リベラルから左派への接近

 

現代米国のリベラルは、①個人所有に基づく経済的な自由(資本主義)、②政治的・市民的自由の尊重を原則としつつ、三つ目③として、①と②の諸自由を社会全員が活用できるように、その物質的手段(生活保障、教育や医療等の福祉手段)の保障を求めるようになりました。この代表的な論者は、ジョン・ロールズです。
この③の要素は、古典的な自由主義(リベラリズム)とは異なるもので、ヨーロッパや日本で言えば、社会民主主義的な要素です。ですから、リベラル左派などとも呼ばれます。これが日本のリベラルに近いものです。

 

なお、米国では、リバタリアン(自由至上主義)という立場があり、③の政府の社会福祉施策を社会主義的だとして強く反対しています(例えば、「オバマ・ケア」廃止論)。

 

■リベラルと左派の違い

 

現代日本の「リベラル」と「左派」の理念的な違いは、経済的な自由主義(資本主義)に対する姿勢、つまり社会主義的要素を肯定するか否かの違いです。
ただ、現在の具体的な政策としては、企業活動に対してどの程度の公的規制を図るのかという程度問題に帰着します。例えば、長時間労働規制とか、非正規労働者の格差是正とか、法人税等の課税強化などです。実際には、それほど大きな違いはありません。

 

日本や米国のリベラルと「ヨーロッパのリベラル」との違い

 

ヨーロッパから見ると、社会福祉や社会的公正を取り込んだ現代米国のリベラル(リベラル左派)や日本のリベラルは、社会民主主義と見えることでしょう。
ヨーロッパの「リベラル」とは、より経済的な自由を強調する党派を意味しています(フランスのマクロン大統領などがこれにあたります)

 

以上のとおり、日本の「リベラル」と「左派」には理念的な共通性が基盤にあり、両者が協力することは不思議ではありません。

 

注1:自民党にも、旧自由党(吉田茂)系のリベラル派がいました。いわゆる宏池会です。このようなグループを保守リベラルと言います。

 

注2:社会主義と社会民主主義の理念的な違いはややこしい。ざっくり言えば、「最初は一緒のもので、途中で別れたが、今や実際上の違いはなくなった」のでしょう。

 

注3:左翼と右翼の違いは

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2012/11/post-54da.html

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2017年10月 8日 (日)

前原誠司さんを批判する「信なくば立たず」

■前原さんのツイッター


前原誠司さんは、民進党の「希望の党」への事実上の合流について、ツイッターで説明しています。
http://blogos.com/article/250906/

前原さんは、<憲法改正に積極的に取り組み、北朝鮮問題を踏まえた現実的な外交・安全保障政策を打ち出す。共産党や社民党との協力という「左傾化」に反発し、希望の党に合流し、日米同盟基軸の保守政党として安倍自民党政権を打倒する>と述べられています。 


私は、この前原さんの「政治思想と方針」を是としたとしても、この間の前原さんの政治行動と決断は、「一国のリーダー」となる資質を欠くことを自ら証明してしまったと思います。


■全て想定内

10月3日、前原さんは、民進党議員の一部が小池百合子代表から排除され、結果的に民進党が希望の党と立憲民主党に分裂したことについて、「全てが想定内だ」と明言しています
(時事通信
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017100301055&g=pol)」。

 

つまり、前原さんは、当初から民進党の全員が希望の党へ合流することは不可能であり、一部の者が排除されることを承知していたことを自ら認めました。(※注1)

 

ところがそれ以前、前原さんは、9月28日の民進党両院議員総会では次のように発言していたのです。

■誰かを排除しない

「もう一度二大政党制にするためだ。誰かを排除することじゃない。もう一度政権交代を実現する、安倍政権を終わらせる、理想の社会を実現するためだ。」
(毎日新聞
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20170928/mog/00m/010/001000c

 

そう、前原さんは「誰かを排除するためではない」と明言していたのです。民進党議員全員の希望の党への合流をさせるとも述べていました。民進党議員は、不安な気持ちながら、代表の前原さんが「そこまで言うのであれば」と前原さんの代表としての提案を了承したというわけです。

 

ところが、実際の経緯は、ご承知のとおり、民進党は事実上解体し、「立憲民進党」と「希望の党」に分裂してしまいました。

 

前原さんは、安倍政権を打倒するためには、これしかないと強調されます。それはそうかもしれません。しかし、それでは何故、両院議員総会にて、自ら思ってもいない、「誰かを排除することではない」「全員を合流させる」などと発言したのでしょうか。

 

前原さんは、堂々と、民進党両院議員総会にて、ツイッターで語った自らの「信念」と「決断」を述べ、合流を提案をすれば良かったのです。そして、反対派がいるなら分党すれば良かったのです。

■政治は非情-ニヒリストたち 

こんなことを言うと、「青臭い書生論だ」、「政治は権力闘争であり、選挙直前ではああでもしなければ希望の党への合流などは決められない」、「騙されるほうが無能」、「反対派を切り捨てるため、だまし討ちもやむを得ない。それが政治の世界だ」と政治玄人(ニヒリスト)から嘲られるでしょう。

前原さんは、あの戦国武将・真田昌幸ばりの「表裏卑怯の者」(表裏比興の者)であり、老獪な策士
なのであると。(※注2)

しかし、果たしてそうでしょうか。

■一国のリーダーたる資質

古今東西の歴史を見れば、中国の三国志や日本の戦国時代、生き残りをかけた権力闘争では、権謀術策、裏切りとだまし討ちにあふれています。所詮、「勝てば官軍」です。これは企業間の経済競争も同じでしょう。

 

確かに、企業や軍隊(部隊)が生き残るために、異論を言う者や足手まといになる者を、非情に切り捨てる方が合理的かつ効率的です。政党も、それが合理的なのかもしれません(短期的には)。

 

内田樹さんが「企業が無能な者を切り捨てるのは競争に勝ち抜くために効率的で合理的だが、その手法で国を運営して良いのか。」と指摘されていました(「株式会社化する日本」)。一国のリーダーである政治家は、企業のCEOや軍隊のコマンダーのように非情で効率優先であってはならない。なぜなら、国民は国が気にくわなかったからといって別の国に移るわけにはいきません。国と国民は一蓮托生の「共同体」なのです。

 

したがって、一国のリーダーたる者は、「登山隊のリーダー」のような資質が求められます。登山隊のリーダーは、メンバー全員の安全を確保し遭難を回避することが使命です。一国のリーダーにとって、メンバーとは全国民です。企業のCEOや軍隊のコマンダーのように、国の維持発展のために足手まといな国民を切り捨てるという人物では、一国のリーダーとしては成り立たないわけです。国民にそう思われたらおしまいです。 

まさに「民信なくば立たず」 

前原さんは、自らを優秀な企業のCEOや軍隊のコマンダーであることを証明されました。しかし、チームのメンバーの無事を使命とする登山隊のリーダーの資質がないことも国民の前に明らかにされたのです。これが前原さんが政治家として失格だと私が思う理由です。

今後、誰が前原さんの言葉を信用するのでしょうか?


※注1:前原さんは、単に小池百合子さんに騙されただけで、希望の党との合流にあたって、政策面や合流の条件などを詰めて文書化することを怠っただけの、ただのバカという説もあります。ただのバカより、稀代の悪人(「表裏卑怯の者」)のほうが格好良いので前原さんは開き直っただけとの説もあります。京都人から見ると、前原さんは典型的な「ええかっこしい」らしいです。


※注2:今回の
衆議院選挙は、所詮、野党の分裂、希望の党の失速により、結局は、自民・公明の勝利となる可能性が高そうです。そして、「自民+公明+維新+希望の党の一部」による連立政権となりそうで、安倍総理は続きそうです。

 

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2017年9月18日 (月)

日本郵便事件(労契法20条)東京地裁判決

■東京地裁平成29年9月14日判決

 東京地裁民事第19部(春名茂裁判長)は、2017年9月14日、日本郵便(株)に対して、有期契約社員3名が労働条件の格差の是正を訴えていた訴訟にて、労働条件の格差の一部(手当)を労働契約法20条違反として、それぞれ4万、30万、50万円の損害賠償を会社に命じました。


■事案の概要


 原告3名は、有期契約社員(期間6ヶ月で契約更新されてきた時給制契約社員)で、2名は外務業務(通常郵便や小包を配達)に従事しており、1名は内務業務(夜間内務勤務)に従事しています。


 日本郵便(株)は、正社員20万人、有期契約社員19万人を雇用しており、原告らの同じ時給制契約社員は16万人います。


 正社員には支給されている手当が、有期契約社員には支給されていないものがあります。また、正社員には許される夏期冬期休暇や病気休暇(私傷病の場合でも有給で90日等)は契約社員は取得できません。これらの労働条件の格差を労契法20条違反であるとして訴えた裁判です。


■労契法20条の内容


 労働契約法20条は、有期労働契約による不合理な労働条件の格差を禁止した規定です。この規定は、正社員と有期契約社員との間に有期労働契約による労働条件の相違がある場合、①職務の内容、②職務の内容及び配置の変更の範囲、③その他の事情を考慮して、その相違が不合理であってはならいないとするものです。2013年4月1日に施行されています。

 ②の「職務の内容及び配置の変更の範囲」とは、わかりやすくいえば、人事異動の範囲という意味です。


■判決の特徴1(比較対象の正社員のとらえ方)


 本判決の第1の特徴は、比較対象となる正社員を、正社員全体ではなく、担当業務や異動の範囲が類似してる正社員と限定したことです。

 本件では、正社員の一般職(いわゆる平社員。「旧一般職」)は、主任や課長代理や課長に昇任すると就業規則上は定められていました。平成26年4月から導入された「新一般職」は、主任等に昇任することが予定されず転居を伴う配置転換もないコースとなりました。本判決は、比較対象の正社員を、平成26年3月以前は「旧一般職」、平成26年4月以降は「新一般職」としました。


■判決の特徴2(個別の労働条件ごとの不合理性の判断)


 第2の特徴は、個別の労働条件ごとに不合理性を判断したことです。
 年賀状の準備配達の繁忙期に仕事をすることの対価として支払われる年末年始勤務手当については、平成26年3月以前の旧一般職時代から不合理な労働条件の相違であるとして労契法20条違反としました。健康を保持するという趣旨である夏期冬期休暇及び病気休暇についても、同じく旧一般職時代から違法であるとしました。

 他方、住宅手当については、新一般職との比較、すなわち平成26年4月以降、転居を伴う配置転換がない新一般職のコース制が導入された後に労契法20条違反となるとしています。


■特徴3(割合的な損害認定)


 第3の特徴としては、年末年始勤務手当と住居手当について、正社員に対して長期雇用への動機付けの趣旨もあるので、その差額全額が損害になるわけではないとして、各8割、6割の支払を命じたています。

 実際には会社は人手不足を背景に「できるだけ長く働いてほしい」と契約社員に対しても奨励しており、このことを理由に損害額を減額することは納得がいきません。しかし、職務内容等の違いに応じて割合的損害を認定すること自体は積極的に評価できます。判決は、相違があること自体が不合理な場合には全損害の賠償を命じるが、労働条件の質や量による相違の大きさや程度により違法になる場合には割合的な損害を認定するといっています。


■特徴4(休暇制度などの制度の適用の不合理性)


 第4の特徴としては、夏期冬期休暇制度や病気休暇制度について、お盆や正月の国民意識や慣習、健康保持の観点からは正社員と差をもうけること自体が不合理だとして、新一般職導入前から不合理な相違であるとして違法とした点も大きな特徴です。


■判決の問題点と今後の課題


 判決の問題点としては、判決は、「賞与」については、労使交渉で合意していること、正社員に長期雇用への動機付けをして、将来の会社の中枢を担う役割を期待して手厚く遇することは人事施策上、合理的であること、また契約社員に一部とはいえ「臨時手当」を支給しているから、不合理ではないと判断しています。


 しかし、「期待する役割」という抽象的な理由で、労働条件の格差を合理化するのは安易すぎるでしょう。
 会社は控訴したようです。労働者側も敗訴部分を控訴する予定であり、東京高裁で不十分な点を克服することを目指します。


■郵政産業労働者ユニオンの成果


 本件は、有期契約社員を含めて組織している郵政産業労働者ユニオンの組合員が原告となって提訴した事件です。正社員との賃金体系や格差の実態を裁判所で主張立証するためには労働組合の取り組みが必要不可欠です。正社員と非正社員が共同してたたかった労働運動の成果です。

 労組が取り組む西日本訴訟が大阪地裁で係属しており、9月下旬には結審します。年末から年明けには判決が言い渡されるでしょう。この西日本訴訟では家族手当等も問題となっており、大阪地裁の判決が注目されます。

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2017年6月22日 (木)

賃金債権の時効と民法(債権法)改正

民法の債権法改正が2017年5月26日に成立(同年6月2日公布)し、公布日から3年以内に施行されます。施行日は未定ですが、おそらく2020年1月1日か同年4月1日あたりが施行日になるのでしょう。

■改正債権法の消滅時効

改正によって旧民法の短期消滅時効が廃止されて、「給料の時効が1年」という定めが廃止されました。同時に、民法の消滅時効も、旧法では「権利を行使できるときから10年」だった消滅時効期間が、改正民法166条では、①「権利を行使することができることを知った時から5年」(主観的時効)又は②「権利を行使することができる時から10年間」(客観的時効)と改正されました。

■労働基準法115条の消滅時効は賃金2年
ところで、労基法115条は消滅時効については、「賃金2年」、「退職手当5年」と定めています。

労基法で賃金の消滅時効が2年と定められたのは、それまでは賃金(給料)については旧民法では1年の短期消滅時効があったため、労働者にとって短すぎるということで、労働者保護の観点から、賃金については旧民法1年の短期消滅時効を労基法で2年に延長したのです。

昭和62年以前の労基法は、賃金について時効を2年とのみ規定して、退職手当を5年とは定められていませんでした。昭和48年に大分地方裁判所が退職手当は賃金にあたらず労基法115条の適用はないと判断しました。しかし、この事件で最高裁判所が「退職金も賃金にあたり労基法115条が適用され、消滅時効は2年だ」との判決を出しました(昭和49年11月8日判例時報764号92頁)。

この最高裁判決の後、昭和62年に、退職金が2年で消滅時効するのは労働者にとって酷であること、中小企業退職金共済制度や厚生年金制度による給付金の消滅時効が5年であることなどから、労基法115条が改正されて、退職手当については5年と改正されて、現行労基法115条となったのです。

■労基法と改正民法の逆転現象という矛盾
改正民法の消滅時効では、債権の消滅時効が5年(主観的時効)又は10年(客観的時
効)となるのに、労働者保護の目的とする労基法115条が賃金について2年と短くなり、労基法が労働者の権利を民法の水準から引き下げることになっります(逆転現象)。これは労基法115条の目的から見て矛盾(背理)です。

■法制審での審議では
この賃金債権の逆転現象については、法制審においても議論されています。
法制審では、委員である中井康之弁護士が「果たして労基法という基本的に労働者保護のための法体系において、特別法で短くすることができるのか。それは基本的にはできないという理解で検討を進めなければいけない」と指摘されています。
幹事である山川隆司教授(労働法)は、「基本的には労働政策審議会等で決めるべきことであろうと思います」と述べた上で、「時効期間の側面」と「起算点の側面」があり、時効期間の問題は中井委員が指摘されるとおりだが、「起算点については、賃金債権以外も含めて考え方をどうするか」が問題となると指摘しています。賃金債権以外というのは、労基法115条は年次有給休暇請求権などを意味します。
また、山川教授は、「一つ考慮するとしたら、労働関係では大量処理の必要と言いますか、賃金その他を含めて多数の債権・債務の管理が必要になる。その辺りは検討する必要」があると指摘されています。

■国会での審議

2017年4月25日の参議院法務委員会で、民進党の小川敏夫議員がこの労基法115条の問題について質問をしています。堀内詔子厚生労働大臣政務官は、「労働政策審議会において、専門家を含めた場において多面的に検証した上で更に議論を深める」旨を答弁しています。

同年5月9日の参議院法務委員会でも、共産党の仁比聡平議員が同様の質問をしており、土屋喜久厚生労働大臣官房審議官は、「今後、検討を行うに当たりましては、この国会における民法の改正案の御議論を踏まえつつ、その動向を踏まえつつ、あるいは施行期日等を踏まえながら、しっかりと検討してまいりたいというふうに考えております。」としています。

要するに、労働政策審議会において、改正民法施行前に労基法115条も改正する予定という趣旨でしょう。

■今後の労働政策審議会での議論でどうなるか

一番、簡単なのは、改正民法と同じく、賃金債権についても、主観的時効5年、客観的時効5年と労基法115条を改正することです。

ただし、検討すべき論点としては、賃金・退職金の未払いは労基法24条違反となり罰則(労基法120条1号)が適用される点をどう考えるかです。

消滅時効が完成するか否かは、刑罰の有無に直接に関係してきます。主観的時効の起算点が「権利を行使できることを知った時から」という主観的で不安定な時点ですから、使用者に罰則が課されるかどうかが「知った時」という主観的な事情によって左右されることになります。これは「刑罰規定の明確性」(罪刑法定主義・憲法31条)との関係で問題になります。そうすると、客観的起算点一本が適切ではないかとの考えも生じます。


客観的時効1本で10年だと長すぎるという問題も生じます。でも、客観的時効5年では民法との逆転現象は解消されない。
主観的時効を維持した場合では、例えば、管理監督職や裁量労働みなし時間制が争点となり、これを争う訴訟を3年~5年かけて最高裁判決で勝訴確定し、残業代未払いが違法とされる事件がよくあります。この場合には、その訴訟の原告以外の従業員は、判決が出てから初めて「権利行使ができるこを知った」ことになり、そこから裁判を提訴することができることになります。

早期の権利関係確定をさせる要請と改正民法と労基法が矛盾せず権利者を保護するバランスをとる労基法改正は結構、難しい論点がありそうです。
ただ賃金の消滅時効2年は改正されて、長期化することは不可避でしょう。賃金の消滅時効が5年に延長されても影響は絶大です。

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2017年5月 3日 (水)

アニメ「風立ちぬ」は宮崎駿の自伝だった?

▪️岡田斗司夫の評論に目からウロコ

宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」は2013年公開された映画です。正直にいって、非常に困惑したアニメ映画でした。

主人公として描かれている堀越二郎の映画としてみると、日本の侵略戦争に対する宮崎駿の歴史観や政治的スタンスと矛盾しているように感じざるを得ません。ゾルゲを彷彿する人物を出したり、ドイツでの反ナチスの活動家を出したりして、戦争に批判的なテイストを入れていますが、中途半端でしかありません。

アニメの表面的な主題だけを追ってみると、美しい日本というテーマになってしまってつまらない駄作にしか思えませんでした。

ところが、岡田斗司夫氏の評論「『風立ちぬ』を語る~宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来」(光文社 電子増補版)を読んでまさに目からウロコが落ちました。このアニメ「風立ちぬ」は宮崎駿の自伝的アニメだというのです。

このアニメを堀越二郎に仮託した宮崎駿自身の自伝なんだと思うと、すべて納得がいくアニメ映画になります。

▪️宮崎駿の生い立ちが最初から反映されている

宮崎駿は、戦前の飛行機製作会社(宮崎航空興学) の一族として生まれ育ったそうだ。飛行機、特に戦闘機に特別の興味関心があることは自ら隠そうともしていない。

このアニメの出だしは、飛行機のパイロットになりたいが、近眼でその夢が叶わず、墜落するシーンからはじまる。

▪️庶民の働く女性(女性労働者)が繰り返し美しく描かれる

工場で働く女工から声援を送られる御曹司というシーンも、きっと宮崎駿の子供のころの記憶が反映しているのだろう。そして、岡田斗司夫も同書で指摘しているが、関東大震災で奈緒子と女中おきぬを助けるが、主人公の心に残っていたのは、まだ子供の奈緒子ではなく、美しい女中のおきぬの方であったという描写がある。

宮崎駿が若いころ東映での労働運動に参加するようになることは有名だが、ルーツとして幼少時代に自分の父親が経営する飛行機工場での女子労働者たちへの何らかの同情心があったことを示唆しているように思える。

千と千尋でももののけ姫でも、紅の豚でも、働く庶民の女性を圧倒的に美化して描いているのが宮崎アニメの特徴といえる。

▪️妻の生命よりも仕事を優先する二郎の非情さ

二郎の描きかたは、妻の病状や健康には無頓着で、美しい飛行機さえ作れれば良い。そのためには結核になった妻の健康より、戦闘機(人殺し飛行機)づくりを優先するという非情な男というストーリーと言える。

男は崇高な天職(仕事)に邁進し、病身の妻は常に美しくい、夫を支えて足出まといにならないよう生きて行くという「儒教的夫婦関係」への賛美と見える。しかし、この男の声優をあえて素人である庵野秀明に演じさせている。庵野秀明の声優は単なる棒読みで、感動的な儒教的夫婦愛にふさわしくない(と岡田斗司夫は指摘する)。庵野秀明の二郎は、ただの木偶の坊(棒読み)にしか聞こえず、この儒教的夫婦愛への感動を観客に誘わないのである。

主人公の男は、戦闘機作りに邁進する非人間的な非情な「ただの専門バカ」にしか見えない。

▪️宮崎駿の女性観

映画の中では、二郎の妹かよ(「不美人な専門職(医師)」である女性)が出てきて、奈緒子の健康を無視して仕事しかしない兄(二郎)を痛烈に批判する。

宮崎駿氏のこの女性観(母性感含む)は全作品を通じての通奏低音として響いており、「風立ちぬ」にも色濃くでている。宮崎駿の女性観は結構保守的である。ラナ、クラリス、ナウシカもシータもすべて自立しながらも、古典的な良妻賢母的な人格。同時に庶民的な働き者の女性も大好き。

ただ、この点、宮崎駿は自覚的であり、現代の女性から自分の女性観が厳しく批判されるものであることを意識しているようである。これは上述した妹からの批判を描く点にあらわれている。(これも岡田斗司夫氏も指摘している)

さらに、岡田斗司夫は、家庭を犠牲にしてアニメにのめり込んだ宮崎駿の夫婦関係の反映であると指摘している(他人の家庭のことまで踏み込んでいいのか?)。宮崎駿の妻は、息子である宮崎吾郎に対して「あなただけはアニメの道に入らないで、あんな家族を犠牲にする仕事の鬼のような父親にならないで」と懇願していたそうだ(結果的に、息子もアニメの世界に入った。)

▪️本庄は高畑勲だな

主人公の同僚で本庄という設計者が描かれている。実在の人物であるようだが、主人公の堀越二郎のライバルであり親友である。彼は、非常に論理的に物事を見て批判的に考える人物。例えば、堀越二郎が貧しい庶民の子に、シベリアをあげようとする。しかし、子供らはこれを拒絶する。これに対して、本庄は、「偽善だ。お前のつくっている飛行機の部品でその子らの一家は二ヶ月くらい食べていける」と。また、「戦争があるから、俺たちはかってに飛行機をつくってる」という自虐的なことも言ったりする。

この本 庄は、高畑勲のことだと思う。

▪️軽井沢に出没するのはゾルゲだな

あの時代に対する批判的場面としては、アニメの中で、軽井沢で塔尾上するドイツ人がいる。このドイツ人は「このままではドイツも日本も爆発する。戦争を防がねば」と二郎に言う。最後は特攻に追われて軽井沢から消える。

彼はリヒャルト・ゾルゲであろう。
ゾルゲは、ドイツ共産党員であり、コミンテルンから送り込まれたソ連赤軍諜報員だ。

またドイツに訪問した二郎や本庄の前で、反ナチスの活動をする若者らが一瞬登場する。二郎はそういう局面に出会うが、やはり美しい理想の飛行機=戦闘機製作を続ける。

これらのエピソードは、反戦運動に共感しながら、そちらの方向には進まないという点を強調しているように読める。

これは宮崎駿や高畑勲は一時、東映動画の労働運動の中心人物だったが、その後、労働運動から離れて、あくまでアニメ作りに邁進したことの反映ではないかと思える。

▪️モノづくりとアニメづくり

三菱重工での二郎のチームは、多数の技術者をかかえて製作や設計の会議では集団で討議してわきあいあいの楽しそうなシーンがなんども描かれている。きっとアニメづくりのシーンもこういう楽しさがあるのだろう。

▪️最後のシーンについて

アニメでは、奈緒子も一人、山奥の療養所で死に二郎はゼロ戦を完成させるが敗戦。二郎は「一機ももどってこなかった」とつぶやく。そして、夢の中で、死んだ奈緒子から、「あなた生きて」と言われてエンディングとなる。

この最後の言葉は、宮崎あてでなく、モデルになった堀越二郎あてのリスペクトをこめたセリフだろう。宮崎駿の自伝としては恥ずかしすぎる。

彼の自伝の最後は、草原でカプロー二と良いワインを飲んで青空を見上げるだけでよいはずだから。

宮崎駿としては、堀越二郎に託して自分の人生を描いてしまったわけである。恥ずかしいから、これで引退すると言わざるを得なかったのではないでしょうか。

▪️今後について

以上、岡田斗司夫氏の評論に触発されて勝手な推測を書きました。

ついでに、宮崎駿氏には、ナウシカ漫画本の最後のおさまりが今ひとつなので、後日譚を短編で描くことと、「シュナの旅」という自作の漫画をアニメ化してほしいだけです。ちょっと欲張りすぎの注文というはわかっていますが、スタジオ・ジブリを今後、残すためにもがんばってほしい。

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2017年4月30日 (日)

北朝鮮「危機」に思う

■今、そこにある危機

 トランプ大統領は、オバマ政権の戦略的忍耐路線を転換して、北朝鮮が核実験・ICBM弾道ミサイル実験を実施したときには、核・ミサイル関連施設の攻撃を辞さないことを警告しました。
 日本では、俄然、緊張感が高まっています。鉄道会社の一部が北朝鮮のミサイル発射の情報で一時的に列車を全線ストップさせたり、一部自治体は生徒にミサイルが飛来したときの対応について文書を配布しているとのニュースもあります。今年9月1日の「防災の日」には、全国各地で北朝鮮ミサイル攻撃も想定した、防災訓練が実施されることになるでしょう。

 現代に桐生悠々がいれば、また嗤うかもしれませんが(注*)。

■合理的に考えればこの局面で戦争は起きない


 冷静に考えると、この局面で先制攻撃が実施される可能性は少ない 米軍が北朝鮮の核関連施設・ミサイル施設を先制攻撃したときには、北朝鮮は当然これに反撃して、韓国と日本を攻撃することになるでしょう その場合に、もっとも被害をうけるのは韓国です。全面戦争になれば、数千、数万、数十万人の甚大な犠牲が生じるでしょう。もし北朝鮮が核兵器を使用すれば、トランプ大統領は躊躇なく北朝鮮に核攻撃をするでしょう。どうころんでも、米軍と韓国軍が勝利することは間違いない。

  しかし、米軍が韓国(韓国民)の承諾なく北朝鮮に先制攻撃を仕掛けた場合、結果的に米軍と韓国軍が北朝鮮に軍事的に勝利しても、甚大な犠牲を被った韓国は、けっしてアメリカを赦すことはないでしょう。おそらく、戦後の韓国には「反米政権」が成立することになるでしょう。

  つまり、米国は、北朝鮮に軍事的勝利をおさめても、政治的には朝鮮半島の親米政権を長期的に失うことになり、政治的には大きな敗北となります。
 
  したがって、トランプ大統領といえども、5月の大統領選挙後に成立する韓国政府の承諾ないまま、北朝鮮に対して先制攻撃を行うということはまず考えられません。
  現在のトランプ大統領の軍事的な警告は中国向けであり、中国の責任にて北朝鮮の核ミサイル開発を中止させろという圧力にほかならず、この局面での米軍の軍事力行使はありえないと考えるのが素人でもわかる道理です。

■2人のマッドマン

 ただし、当然、北朝鮮も上記のように考えているでしょうから、金正恩は、「どうせ脅しだ」と考えてミサイル発射実験や核実験の挑発を行う危険性があります。
 この挑発が行われた場合、ツイッター的な反応を得意とするトランプ大統領が「どうせ金正恩は戦争すれば負けるとわかっているから反撃してこない」と考えて、先制攻撃を指示する危険性があります。
 つまり、合理的に考えれば、この局面で軍事衝突は起こるわけがないのですが、「瀬戸際外交」をお家芸とする金正恩と「瞬間湯沸かし器的頭脳」のトランプ大統領との間では、偶発的に戦争が勃発する可能性があるということになります。
 マッドマン・セオリーというのがあるそうです。
 交渉において、通常の合理的な行動をする相手と思わせるのではなく、相手は常軌を逸して何をするかわからないと思わせて相手から大きな譲歩を引き出すという戦略だそうです。ニクソンは意図的にマッドマン・セオリーで外交交渉を行ったそうです。トランプ大統領は、このマッドマン・セオリーの信奉者という評価があります。

  ただし、マッドマン・セオリーが通用するのは、相手が合理的な人間の場合です。ところが、金正恩も「マッドマン」のようです。このマッドマンの二乗となるセオリーは、予測しがたい結果を生むかも知れません。
 このように偶発的に戦争が勃発した場合には、韓国は未曾有の被害が発生し、日本も大きな被害を生じる危険があります(核ミサイルが到達する可能性は低いですが、化学兵器や原発への奇襲はありえる)。


■軍事的緊張緩和

 合理的に考えれば、この局面での戦争勃発は、双方に何らのメリットもない以上、この局面での戦争回避、特に偶発的な戦争を回避するための措置がもっとも望まれる政策となります。

 そうである以上、日本政府としては、いたずらに軍事的緊張を高める措置を米国にも北朝鮮に対しても諫めるという方針をとるべきです。安倍内閣は、逆に煽っているように見えて危険です。


■一番悪いのは中国だ

 北朝鮮が核武装し、ICBMまで開発する段階までに至った最大の責任は中国にあります。オバマ政権が戦略的忍耐という姿勢をとったときには中国は腰をあげなかった。

 トランプ大統領になり、軍事的警告を発するようになって、漸く中国は石炭や石油の北朝鮮輸出規制などを行うようになり、政府系新聞を通じて、北朝鮮に警告を発するようになりました。 その意味では、シリアへの空爆などの軍事的な警告を発したトランプ大統領の方が、北朝鮮問題について中国を動かしたということになります。

■落着点は 中国仲介による米朝会談しかないか


 最終的には、米朝2国間の話し合いを中国が仲介することで、北朝鮮危機を回避するしかないように思います。
 この場合、①北朝鮮の核開発の放棄、他方で、②米国・韓国及び北朝鮮が相互に軍事侵攻しないことの確約(米韓朝の平和条約締結)、③北朝鮮の現体制の容認(北朝鮮体制転覆の米韓の取組みの放棄)、④米国の経済援助という枠組みになるしかないのではないか。
 そして、おそらくこの枠組みでは日本は関係国から排除されることになろう(米・中・韓にとって、日本はロシアとともに北朝鮮問題では攪乱要因と位置づけられちゃう)。
 その上で、北朝鮮の民主化・自由化、そして将来の朝鮮統一は、朝鮮半島の韓国人・朝鮮人 同じ民族同士の平和的な話し合いに委ねるというコンセンサスをつくることが最善でしょう。

(注*)
 戦前のジャーナリスト 桐生悠々は、1933年(昭和8年)8月に軍が実施した防空演習に対して、信濃毎日新聞の社説で「関東防空大演習を嗤う」として、「如何に冷静になれ、沈着になれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることを能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を発し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈する」と指摘しています。
 もっとも桐生は、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我が軍の敗北そのものである。この危険以前に於いて、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落とすか、またはこれを撃退しなければならない」と主張するものです。

 現代で言えば、ミサイル防衛システムで北朝鮮のミサイルを迎撃せよということになります。しかし、この程度の合理的批判でさえ、陸軍に睨まれて、桐生は信濃毎日新聞社を退社しなければならなくなりました。

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2017年3月20日 (月)

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」と小田原市生活保護行政

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映画のあらすじ

 

ケン・ローチ監督の映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見てきました。興味のある方は一見を。



40年間、大工として働いてきたダニエルが、心臓の病気で大工仕事ができなくなった。英国の福祉センターに赴き社会保障を受けようとするのだが、医者は就労できないと診断しているにもかかわらず、英国の労働年金大臣が委託している保険会社が就労可能と判断して、休業支援金申請を拒否する。これに対する不服申し立ては、オンラインしか受け付けないが、ダニエルはPCを持っていないし操作がわからない。

 

当座をしのぐために、ダニエルは失業手当申請をすることにする。そのためには、週35時間の求職活動が義務付けられて福祉センターにて求職活動をしているか否かの審査を毎週受けなければならない。そのため、働けないのに求職活動をかたちだけすることを、他人からは「不正受給申請だ」と非難をうける。

 

福祉センターでは細かな執拗な質問を受け、まるで社会の厄介者扱いをうける。ダニエルは「まるで拷問だ」とつぶやく。他方、シングルマザーで二人の小さな子供を育てる女性が、面接時間に遅れたというだけで給付を取り消されるのを目撃し放っておけず、ダニエルは福祉センターに猛抗議して追い出さる。

 

ダニエルは、妻を2年前に病で亡くし、子供もおらず、孤独で口うるさいが、実直で気のよいおっさん(59歳)だ。彼は困っている隣人には手をかすが、自分のことは自分でなんとかする意地っ張り。ちょっと怪しい移民の若者とも仲良くしている。しかし、そんな彼らが英国の社会保障からはじき出されて、追い込まれていく。

 

過去には英国は「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家だったが、1980年代以降、サッチャー首相の「新自由主義改革」「保守革命」により緊縮財政で社会保障は大きく掘り崩された。

感想

 

ケン・ローチ監督は、英国の社会保障の実態が人間の尊厳を奪うシステムになっていると厳しく告発している。題名の”I, Daniel Blake”は、人は単なる社会保険番号ではなく、尊厳をもったひとりの人間だということを意味しているのでしょう。いかにも、ケン・ローチ監督らしい。80歳をすぎても社会批判の情熱と創作意欲が衰えることはない。

なお、この映画の最後に、社会保障の異議申し立てをして行政委員会に出廷するダニエルを励ます代理人が出てくる。英語は聞き取れなかったが、字幕では「代理人」となっていた。おそらくソリシター(事務弁護士)なのだろう。そういう貧困層のために働く英国弁護士も多いと聞いたことがある。



日本の生活保護行政を思う


この映画を見て感じたのは、英国だけではなく日本も同じだということです。

 

小田原市の生活保護の担当者が、「生活保護なめんなよ」「不正受給は厳しく摘発する」などのジャンパーを着用して執務をしていたことを思い出した。確かに、不正受給の問題もあるのだろうが、それは全体のごく一部でしかないことも明らか。にもかかわらず、小田原市の公務員はなぜあのような子供じみたふるまいをするのだろうか・・・

 

井出英策教授の立論

 

井出英策教授(慶應大)という気鋭の財政社会学者がいる。一般向けに財政と社会保障の本を出している(「18歳からの格差論」、「日本財政 転換の指針」、「分断社会を終わらせる」)。井出教授の面白い点は、私が乱暴に要約すると次のようになる。

 

「社会的弱者だけを救済するというのでは、中所得者の人たちの抵抗が強い。そのため社会的弱者バッシングがおこるし、制度的にも就労可能か求職活動をしているかなどの審査が過度に厳しく行われる。バラマキ批判を超えて、低所得者も中高所得者も受益を実感できる社会保障をつくるべき。消費税増税も社会福祉の民主的合意があれば可能だ。そのためには教育と少子化対策という必要なものに財源を投入するべきだ」

 

ケン・ローチ監督について

 

ケン・ローチ監督は、英国の労働者階級やアイルランド独立戦争を描く社会派映画を撮り続けてきた(庶民の厳しい生活と少年を描いた「ケス」、アイルランド独立戦争を描いた「麦の穂をゆらす風」、「ジミー、野をかける伝説」、スペイン市民戦争を描いた「大地と自由」)。日本で言えば、山田洋次の硬派みたいな感じかな。

 

2013年、サッチャー元首相が死亡したとき、「さあ鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」と英国らしいきつい批判が高まる中、ケン・ローチ監督も「彼女の葬儀は民営化して、一番やすい業者がとりおこなうべきだ。それこそ彼女が望んでいたことだ」とコメントしたそうです。ケン・ローチ本人といえば、オックスフォー大学で法律を学んで、BBCに就職して映画監督になったエリートだ。

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2017年2月28日 (火)

労働者派遣法 鎌田耕一・諏訪康男編著 三省堂

鎌田耕一教授から、「労働者派遣法」を送ってもらいました。
鎌田先生ありがとうございます。立法過程に関与された労働法学者の著書は大変に参考になります。他の著者は、編者のほか、山川隆一教授、橋本陽子教授、竹内(奥野)寿教授です。

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同書の第6編、第5章にて、「派遣労働契約の無期転換後の労働条件について」が論じられています。

労働契約法18条により、派遣社員の派遣元との労働契約が通算5年を超える場合に、派遣社員は無期転換を申し込めます。派遣元はこれに承諾したとみなされますから、無期派遣労働契約が成立することになります。そのとき(労契法施行後5年の2018年4月)が迫っています。

この点については、実はいろいろな見解が示されていますが、

本書(鎌田教授執筆)では、

①無期転換になったときには、従前の有期派遣労働契約と同一ですから、そのときの派遣先の労働条件と同一になる。

②しかし、無期転換の当時、派遣先との労働者派遣契約が終了して更新されなかった場合にどうなるか。これについては、派遣労働契約は終了することなく、派遣元会社は、他の派遣先を紹介することなどにより雇用を継続する義務を負う。単に従前の派遣先との労働者派遣契約が終了したというだけでは解雇できない

と解釈されています。

②については、派遣労働契約も終了するという使用者側弁護士の書いた本も読んだことがあります。しかし、派遣労働契約は継続するという著者の解釈は当然です。立法過程に関与した著者の解釈は重みがあるとおもいます。

ただ、②については、無期転換の契約が成立した時点で、労働者派遣契約が成立しても、成立した無期労働契約の労働条件(特に賃金)は、従前の派遣労働契約の賃金が契約内容になるかどうかという問題もあります。

私は、新たな派遣先が見つかるまでは、従前の有期派遣労働契約の賃金が保障されると解釈すべきだと思います。

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2017年2月12日 (日)

平等に貧乏になる日本  上野千鶴子氏の中日新聞の意見に思う

上野千鶴子氏の意見が物議を醸しているようだ。

東京新聞でこの意見を読んだが、わたしの見方と半分は一致している。この上野千鶴子氏の事実としての予測(少子化・人口減少はもはやとめられないということ、移民を日本に大量に受けいれたときに社会的混乱が生じるということ)は現状での事実予測としては当然でしょう。

少子化は、もはやどうしても止めることはできない。仮に、今の30歳以下の女性が明日全員子供を産んでも、日本の人口減少はとめられないそうだ。その理由は、もはやその年代の女性の数が劇的に減少しているから。

ちなみに、結婚した夫婦は現在でも平均すれば、基本的に2人弱の子供を産んでいるそうです。少子化・人口減少の原因はマクロ的に見れば、結婚した夫婦が子供をつくらなくなっているのではなく、若い男女の晩婚化であり、もっといえば非婚化(法律婚であろうと、事実婚であろうと関係なく子供を産むというカップルにならない)という事実であることが、統計分析が教えるところだそうです。だから、保育園をつくっても少子化が解決するわけでないことも厳然とした事実だそうだ。

保育園は、少子化対策ではなく、女性の社会進出を図るための重要な施策です。人口減少社会では、女性が働くことは、女性の自己実現だけではなく、社会的にも必要不可欠なのですから。

結局、日本の少子化・人口減少は不可避で、その結果、近い将来、日本の国民経済、国家財政と社会保障システム(年金等)は破綻することが避けられない現実なのだそうです。(じゃあどうすれば良いか?・・・、私にはわかりません。)

このような日本経済が下降線をたどるときに、大量の移民を入れれば、外国人・移民と職をめぐって競争となり、そうなれば日本人お得意の「右ばね」が働き、日本社会での「人種差別」が横行し、欧州のような「右翼民族主義勢力」が台頭することは不可避でしょう。

もちろん、これとたたかうリベラル派や社会民主主義勢力も必ずいますが、これがけっして日本では多数派にならないことは、明治維新以後の現代までの歴史を見れば明らかです。

今後、今の若い日本人が、自由と平等、平和と民主主義を愛して、外国人に対する人種差別を憎み、右翼とたたかう自立した「市民」に変貌するなんてことはありえないでしょう。逆に右翼の先頭にたちそうだし。

このあたりまで、まったく上野千鶴子氏と同じ予想。違うのは、そのあとです。

「政府」と「経営者層」は、必ず、外国人移民を大量に日本にいれるでしょう。そうしなければ、国力と経済力を維持できないからです。国内に排外主義がはびこっても、国力(財政)と経済(儲け)を維持するために外国人や外資導入は必須です。そのため、右翼民族主義が発生しても、それを利用して政権を奪取し、維持しようとする政治勢力(政治家)が日本の主流となるでしょう。そして、治安維持のため警察権力を強化し(盗聴と共謀罪のセット)、大量の移民と外資導入を活用して国力と経済を維持するということに必ずなると思います。でもって、憲法改正という結果になりなねない。

みんなそろって政策的に平等に貧乏になるなんて、上野千鶴子氏の予測するような綺麗事では絶対すまないでしょう。「貧乏」になるときは、社会の混乱と人々の不幸せが大量に起こる時代なんだよね。

我ながら、絶望的だな。

上野千鶴子氏は、実は私と同じように絶望的に考えているんだけど、それでは救いがいないと思って、「平等に貧乏になる日本」って言っているだけなのかもしれない。

 きょうは、建国記念の日。二十世紀終盤、司馬遼太郎は著書『この国のかたち』で「日本、そして日本人とは何か」を問い続けた。
CHUNICHI.CO.JP

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2016年12月30日 (金)

映画「この世界の片隅に」-韓国からの批判に思う

■「この世界の片隅に」

一回観て、その後、原作マンガ本を読んで二回目を若い友人たちと一緒に観にいきました。良い映画だと思いました。反戦プロパガンダ映画ではなく、テーマをストレートに主張はしないが、その分、いまの日本人にも受け入れられやすく、先の戦争の意味を深く考えるきっかけになるアニメ映画だと思いました。
今後、10年、30年に残る名作だと思います。


■日本の侵略性を描かない「この世界の片隅に」という批判

ところで、韓国の人から「この世界の片隅に」については、日本の侵略と加害責任を描かず、侵略を支えた側にいるヒロインの「すず」を被害者としてのみ描くのはおかしいとの批判がなされているようです。
確かに、この映画は、日本の加害責任を直接的に描いていないために、当初から中国や韓国では受け入れられないだろう指摘する日本人もいました。


■ 「はだしのゲン」との比較
衆目の一致する反戦漫画「はだしのゲン」(私はアニメは観ていない)も、当初、中国・韓国から<被爆者の被害者性だけを延々を描いて、軍都でもあった広島の侵略と加害の責任を描いていない>と批判されたという。
そこで、途中から侵略・加害の責任を強調するように描いた。これは原作者の中沢氏がイ
ンタビューで「批判に答えて修正した」と述べていたのを読んだ覚えがある。
ゲンの場合は、父親が反戦思想をもった人だったから、そういうストーリーになるが、当時の一般的な人はまったく異なっている。学校に行かず18歳で嫁に行く「すず」に反戦思想を持て、といっても無理があるように思います。ただ、監督は、あとに指摘するように、側面からそれを描いています。


■ 「火垂るの墓」との比較


もう一つ、代表的な反戦アニメといわれる高畑勲の映画「火垂るの墓」(野坂昭如の原作本は読んでいない)に対して、宮崎駿が「嘘つき映画だ」と痛烈に批判していました。


なぜなら、主人公の兄妹の父親が映画では駆逐艦の艦長という設定だった。艦長なら海軍兵学校出のエリート海軍士官で、その家族を「海兵」の同期が放っておくはずはない、生き残った子供が路頭にまよって餓死することなんかありえないと、宮崎は指摘する。宮崎駿の実家は、飛行機軍需工場だったから戦前日本の軍人をよく知っているから、これあありえない設定だと言っていた。
この「火垂るの墓」も、まったく日本の侵略と加害の責任を語っていない映画だった。しかも、宮崎駿が指摘するような「うそっぱち」を含んだアニメでもある。にもかかわらず、これが反戦映画(右派から見ると、「はだしのゲン」と同じく「反日」映画だそうだ。)として通用している。
だが、韓国や中国の人々から見れば、この高畑勲のアニメも、大日本帝國海軍士官(艦長)の子供らの被害者性のみを強調する映画であり、加害と侵略の責任をうやむやにする映画であると批判することだろう。確かに、被害者としては、このように批判するのは、けだし当然である。そこは素直に認めるべきであろう。

■ 「この世界の片隅に」での「太極旗」が描かれる意味

他方、「この世界の片隅で」は、『火垂るの墓』とちがって、朝鮮半島への侵略を指摘しているアニメです。それは。映画の中で、玉音放送後に、『太極旗』(朝鮮独立の旗)が呉市内に掲げられて、たなびくからです。そのとき、すずは「なんで暴力に屈するのか、まだまだ戦える」と言いながら、「そうか、日本は暴力で従えとっただけか。それがうちらの国の正体かえ。」と独白する。ここでは、日本が朝鮮半島を暴力的に支配してきたことが示唆されています。
でも、韓国や中国の人々にとっては、この程度のあやふやな、あいまいな描き方では不十分であり、加害責任をぼやかしていると思うのでしょう。
現に、日本人でも、この場面に気づいても、その意味がわかる人間が少ないらしい。なかには「朝鮮」進駐軍が呉市内を占領して暴虐を尽くしたことに対する抗議の意味だと誤解(曲解)するトンデモ日本人までいるんだそうだ(ほとんど「妄想」の部類)。
ただ、このあたりは韓国との文化の違いという側面もあると思う。ストレートに伝えないのが日本映画の作風だから、韓国や中国の人には理解が困難で、あいまいでうやむやにしていると思うのかもしれない。
例えば、映画中で、「すず」が妊娠したと思ったが、間違いだったというエピソードがある。妊娠は間違いということが間接的で瞬間的にしか描かれない。それなので、今時の日本の若者は理解できずに、映画の最後に出てくる女の子は、すずの子供かって、誤解する人もいるらしい。

■ 日本の侵略と、アジア諸国民の被害と、日本人の被害


被爆の悲惨な状況は、二例が描かれるだけ(救護所のわきに座り込む黒い被爆者、ガラスの破片が刺さり右腕を失った母親につれられた女の子。その母親はうじがわいて死亡)。
また、すずの妹は、二次被爆して寝込んでいる。彼女の腕に「あざ」ができているが、これは原爆症で死亡することを示唆しているが、はっきり描かれないから、今の若者は解説がないと理解できないらしい(「夕凪の街、桜の国」はまさに、このストーリー)。
これらの悲惨な被害実態も、抑制的に描かれているが、それでも侵略と加害の責任を明示的に懺悔してからではないと、韓国人や中国人からは「被害者ヅラをして」と批判を免れないことになるようだ。


■ 両国の庶民レベルの和解は可能か


周恩来は、戦争責任について、戦争指導部の軍人や政治家と、日本の一般人民を区別し、後者は、前者の軍国主義者の犠牲者でもあると述べた。周恩来の高い道徳性と政治家としてのふところの深さには感銘をうける。
しかし、このような情理を踏まえた理性的な考えが多数派になることはないようだ。

日本の侵略性の指摘とその認識が甘いとの批判は当然だとしても、どのような場面でも、誰であろうと、同じパターンでそれを繰り返すのは、両者の和解のハードルを高くすることになるおそれがある。日本の侵略性を認める日本人でさえ、「またか」って思ってしまう。
また、批判の仕方としても、もうすこし工夫があっても良いだろう。

日本の庶民の被害を、(加害者だと先に非難しないて)、国がちがっても同じ庶民として戦争の被害の痛みに共感しつつ、さらにひどい被害が朝鮮半島やアジア諸国でもあったことを、同じ「この世界の片隅み」の出来事なんだと指摘する手法のほうが日本人の共感も呼び、将来の和解に繋がるように思うのだが。

すずも軍人も一緒くたにして、加害者側とストレートに批判することで、その批判者が得るものはなんだろう。ストレートに日本を批判したという自己満足なのだろうか、韓国内に対する、厳しく日本の加害責任を追及しているという自己証明(あるいは、アピール)なのだろうか。

■ 日本の侵略と加害と日本人の被害について


日本の「侵略と加害の責任」と日本の一般人の「戦争被害」と、アジア諸国の被害を、全体的に、統一的に描くことは映画でも小説でも極めて難しい。大岡昇平が「レイテ戦記」で試みたが、日本人に広く伝わったとも思えない。
唯一成功したのは、『人間の條件』(五味川純平原作)という古い白黒長編映画だと私は思うが、この作品もきっと韓国人や中国人からすれば、主人公である「梶」という日本人を理想化・英雄化しすぎているとか、梶の妻が日本敗戦後に中国人の暴徒に乱暴されるような描写があることが非難されるかもしれない。また映画として、韓国人からは『容共』的、中国からは『親ソ』的だと政治的な非難を受けるかもしれない。
日本の「侵略・加害」と「日本人の戦争被害」の理解を深め、その上で、アジア諸国との「和解」に繋がることはまだまだ難しい。情理に基づく、理性的な和解はもはや困難なのでしょうか。今後、100年、200年の時の経過をまつしかないのでしょうか。
もはや、現時点では、外交や安全保障体制の駆け引きの「カード」として使われるという不幸な事態になってしまった。

やはり、昭和天皇の在位中、戦争を知る世代が、アジア諸国に謝罪し、和解を果たすべきだったのでしょう。それをしなかった戦中派の罪は重いと思います。

私は、英米をはじめとした欧米諸国とは日本は五分と五分の帝国主義戦争を行ったのであり、道徳的には五分五分(欧米も日本も双方「悪」)なのですから、先発帝国主義である欧米が自らの帝国主義征服戦争と植民地支配を「悪」と認めて謝罪しない以上、日本が一方的に欧米に謝罪する必要はないと思います。

しかし、アジアに対しては、日本は100%の侵略をしたのであり(帝国主義戦争と植民地支配)、アジア諸国民に対して真摯に謝罪することは当然だと思っています。


【追記 2017年1月3日】
原作と映画の違いですが、うろ覚えで記載ましたが、実際は次ぎのとおりだと下記ブログで指摘されています。

http://ichigan411.hatenablog.com/entry/2016/11/16/235307
【原作】こうの史代著

 

(玉音放送を聞き終わって)

 

「最後のひとりまでたたかうんじゃなかったんかね」

「いまここへまだ五人も居るのに」

「まだ左手も両足も残っとるのに」

「うちはこんなん納得出来ん!!」

 

「‥晴美‥晴美‥。」(義姉が死んだ娘の名を呼び泣いている)

 

(ここで太極旗が翻る)『 』は、すずの独白

 

『暴力で従えとったという事か』

『じゃけん暴力に屈するいう事かね』

『それがこの国の正体かね』

『うちも知らんまま死にたかったなあ‥』

 

(すず 慟哭)

【映画】シナリオ本から

すずの独白部分を、次のとおり変更。

『海の向こうから来たお米、‥ 大豆、そんなそんでできとるじゃろうなあ、うちは。』

じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね』


この改変は、監督によれば、すずの日常のリアリティを追求した結果の自然な言葉だそうだ。この独白の変更の監督の「意図」をさぐるのも興味深いです。


それはさておき
、上記の変更でも、上記した私のブログの趣旨を変更する必要はないと思います。被害者側から見たら、加害責任があいまいだという批判は、批判として正当だからです。ただ批判の仕方を間違えると、「和解」が遠のくのではないかというのが趣旨ですから。


もっとも、被害者の最初の心情は、「和解」を望んでおらず、加害者が厳しく罰せられることを望むのが普通です。その心情自体は、常に自然な感情です。私が弁護士として、被疑者・被告人の弁護人として、被害者への謝罪や示談をする際に必ず直面する事態です。ですから、そのような心情を責めることはできません。

こういう韓国からの批判も考えられるという意味でも、このアニメ映画は名作だといえます。

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2016年11月20日 (日)

「同一労働同一賃金の原則」について思う

 最近は、「同一労働同一賃金」について講演や学習会を頼まれることが増えています。これは、安倍総理が「働き方改革」として「同一労働同一賃金の原則」を実現すると表明したから俄然、関心が高まったということがあります。

■「同一労働同一賃金の原則」は男女差別を是正する法理

 私は、「同一労働同一賃金の原則」は男女差別是正の法理であって、非正規の労働条件の格差を是正する法理としては、「均等・均衡待遇の原則」と呼ぶ方が良いと思います。こういうと結構、質問、反論があります。例えば、「均衡」の考え方が不明確であるというふうに。


■「均等」と「均衡」

 私は、「均等」と「均衡」を相互対立的・排斥的な関係ととらえる必然性はないと思います。語義的には、「均衡」とは「釣り合いのとれていること」を意味します。また、「均等」は「複数の物事が互いに平等であること」という意味です。
 語感的には、「均衡」の方が広い概念と思われます。つまり、「均等」とは、ある物事について「釣り合い」をとるには「平等」でなければならない場合があるという意味に考えられるからです。
 「均衡」と言うと、あたかも「軟弱だ」とか「敵」であるかのように非難する論者もいます。昔、私が「均衡も均等も本質的な違いはないのではないか」と言ったら、「均等でなければならず、均衡で良いと言うのはおかしい」と非難されました。当時、丸子警報器事件の長野地裁上田支部判決が出されましたが、支部判決に対しても「均等と言いながら、2割の格差を認めた判決はおかしい」と非難していました。


■日本の法律は「均衡・均等」

 労働契約法3条2項が「職務の均衡を考慮」すること、パート労働法1条も「均衡のとれた待遇」と定め、労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策の推進に関する法律6条は、派遣労働者について「均等な待遇及び均衡のとれた待遇の実現を図る」と定めています。

 日本の労働法には、「同一労働同一賃金の原則」という「文言」は規定されていません(ILO第100号条約のことは後述します。)。だから日本の実定法解釈としては、出発点は「均衡」及び「均等」の理念だというべきでしょう。こう言うと、すぐまた「そもそもその実定法が怪しからんのだ」という人がいます。でも、それを言っても仕方がありません。現に存在している法律をどう解釈するのかが、実務家の仕事なんですから。(もちろん、立法の問題点と限界を指摘することが重要なのは認めますが。)


■非正規労働者の格差是正


 現時点の実定法の解釈としては、雇用形態が異なる非正規労働者の労働条件の改善・是正のための趣旨は、均衡及び均等の待遇確保を理念とすべきでしょう。これを定めた実定法は、労働契約法20条の有期契約による不合理な労働条件の禁止、そして、パート法8条のパート労働を理由とする不合理な労働条件の禁止と同法9条の通常の労働者と同視できる場合の差別的取り扱いの禁止などがあります。

 ただし、労働契約法20条の「不合理」の内容及び判断基準は明確ではありません。例えば、長澤運輸事件の東京地裁判決は、①職務の内容、②職務の内容及び配置の変更の範囲が同一の場合には特段の事情がない限り不合理となるとしました。他方で、同事件東京高裁判決は、③その他の事情も含めて幅広く考慮して不合理であるかどうかを決めるべきとしました。

 私は、「不合理」であるかどうかを判断する指針を「均等・均衡待遇の理念」とし、これは「およそ人は、その労働に対して等しく報われなければならない」という「人格の価値を平等とみる市民法の普遍的理念である」を根拠にすると考えればよいと思います(丸子警報器長野地裁上田支部判決)。「職務」が同一で、「職務内容及び配置の変更の範囲」が同一であれば、労働条件の格差を正当化する事情がない限り、原則は均等に取り扱われるべきでしょう。

 しかし、例えば定年再雇用という事情、あるいは産休代替の一年間だけの限定した有期契約という事情などがあれば、必ずしも正社員と100%同一でなければならないとはいえないでしょう。ただ、どの程度の相違であれば許容されるのかが問題です。


■「同一労働同一賃金の原則」と男女差別是正法理

 「同一労働同一賃金の原則」は、ILO第100号条約の「同一価値労働同一報酬の原則」のことです。これは、男女の賃金格差(差別)を是正する法理です。日本もこれを批准しています。しかし、これは男性労働者と女性労働者を比較して、同一価値労働の場合には同一報酬とするという原則であって、これを超えて、性別にかかわりなく同一価値労働をしていれば同一報酬であるという一般的な規範ではないと言わざるを得ないでしょう。

 なお、「同一価値労働」というのは、同一の労働(職務)でなくとも、同一価値労働であれば良いという意味です。例えば、看護師と検査技師の職務は同一ではありませんが、同一価値であるかどうか比較できるということです。

 この「同一価値労働同一報酬の原則」(「同一労働同一賃金の原則」)は、実際には、主として雇用形態が同じくする男女間の賃金について差別であるか否かの規範となるものでしょう。つまり、正社員同士の「総合職」と「一般職」との格差をどうするかという問題に主として適用されることになります。

 例えば、男性は全員が「総合職」となるが、女性は極一部だけが「総合職」となり、大多数の女性が「一般職」という企業の場合、男性「総合職」といっても、ほとんど総合職らしい仕事をせず、女性一般職と同様な労働をしていること多いでしょう。形式的には「総合職」には配置転換があるとされているが、普通の男性「総合職」は実際には配置転換はない(優秀な一部の男性正社員のみが配転や昇進していく)。にもかかわらず、優秀な女性一般職は、レベルの低い普通の男性「総合職」よりも賃金が少なく昇進もできない。

 これを是正するために、「同一価値労働同一報酬の原則」が基準となり、具体的には労基法4条や雇用機会均等の解釈適用の問題となります。
 これに対して、非正規労働者の格差是正の法理は、労契法20条やパート法8条・9条であり、これらは「均衡・均等の待遇の理念」として区別して整理するのがわかりやすいと思います。
  これを「同一労働同一賃金の原則」と呼ぶと、上記の男女差別是正法理と混同されてしまいます。ただし、雇用形態による格差是正の法理を確立させることは、男女差別是正にとっても良い効果があります。

 今時、女性だから差別しているんだと自認する使用者はいません。実際には、「雇用形態が違うから」ということで、女性が多い比率の非正規労働者の労働条件が低くされているわけです。女性労働者の約56%が非正規であることが如実にその事実をあらわしています(男性の非正規は25%程度)。だから非正規の労働条件の是正をすることは、女性労働者の格差是正に直接につながるのです。


■そもそも、日本で「同一労働同一賃金の原則」が労働契約の基本になるのか


 「均等・均衡待遇の理念」を批判して、「同一労働同一賃金の原則」を正面から労働契約法の原則として、効力規定を定めるべきとする論者もいます。
 その狙いは、正社員についても「同一労働同一賃金の原則」をあてはめるべきという考え方です。なお、この論者は、「同一労働同一賃金の原則」を「修正」して理解をしています。すなわち、「同一労働同一賃金」とは、同一労働であっても、年齢や勤続年数が異なれば必ずしも同一賃金でなくても良いとするのです。
 しかし、これを「同一労働同一賃金の原則」と呼ぶのは据わりが悪いように思います。「同一労働」(同一職務)であると「要件事実」を主張立証すれば、「同一賃金」(同一報酬)という「法律効果」が発生するというのが、「同一労働同一賃金」という規範からの帰結でしょう。
 「同一労働」を主張立証しても、それだけでは「同一賃金」の効果が発生しないというのであれば、「同一労働同一賃金の原則」を、どのような文言で表示されるのでしょうか。結局、不合理な労働条件の禁止と実質的に異ならない文言になるしかないように思います。それではもはや「同一労働同一賃金の原則」とは言えないのではないでしょうか。

 また、こんなふうに「同一労働」の原則を修正(緩和)してしまったら、男女差別を是正する法理としては役に立たなくなってしまうと思います。


■正社員の賃金の原則も「同一労働同一賃金」で良いのか


 正社員も含めて「同一(価値)労働同一賃金の原則」を法的効力のある実体法とした場合には、日本の雇用社会に「革命的」な影響を与えることになります。
 例えば、25歳と50歳の労働者が担当している職務が大して違わないことは多くあります。ところが、日本企業では年功的な運用がなされて、50歳の労働者の方が賃金が高くなっています。これが許されなくなります。
 また、ホワイトカラー職種では、IT技術を使いこなす若手のほうが効率的かつ質の高い労働力を提供しているものです。中高年の賃金のほうが高いのはおかしい。
 のみならず、同一労働同一賃金の原則からいけば、労働者が担当している職務が変われば、当然、給料も変わることになります。一般的な事務労働と専門的知識経験を必要とする労働では当然、賃金は変わります。
 日本では、労働者の配転には使用者に広い裁量が認められます。同一労働同一賃金の原則を貫けば、使用者の一方的な配転によって労働者の賃金はそのたびに変わることになります。それは、いままで戦後30年、50年を経て形成されてきた日本の賃金制度の前提と大きく異なり矛盾します。


■欧米の「職務給」や労使の力関係の相違点
 
 欧米社会では「職務給」が定着しており、職務の配転を使用者が裁量で行うことはできません。しかも、「職務」ごとの給料は、産業別労働組合が使用者団体と労働協約を締結して、いわば社会的に決まっています

 日本には、このような強力な産業別労働組合は存在しないし、近い将来にそのような産別労組が強化されることはありえないでしょう。

 したがって、正社員の賃金も含めて、日本において労働契約の原則として、同一労働同一賃金の原則を法定化することは、欧米との社会的実態が異なり、日本で導入することには慎重にしなければならないと思います。
 新自由主義の立場にたつ労働経済学者や経営者は、同一労働同一賃金の原則の日本での導入に積極的です。また、配転による賃金減額を争う裁判では、使用者代理人の弁護士が配転による賃金減額の正当性を主張するために「同一労働同一賃金の原則」を主張します。
 社会モデルとして、ヨーロッパ型の職務給と企業横断的な産別賃金協定は魅力的ですが、日本では、そのような基盤はありません。


 日本の労働組合は、長年にわたり生活給思想で賃金を要求してきました。
 そうである以上、今、いきなり法律によって、正社員も含めた「同一労働同一賃金の原則」を法律に定めるということは賛成できません。

 確かに、中長期的には、日本も「職務給」の方向に賃金がかわっていくように思いますが、それは徐々に、労働争議をともなう激しい労使交渉を経て実現していくものなのでしょう。賃金を法律ですべて決めることは土台無理なように思います。



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2016年11月 8日 (火)

長澤運輸事件東京高裁判決

 東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)は、平成28年5月13日、長澤運輸という一般貨物自動車の正社員運転手が定年後継続雇用として有期雇用で再雇用(嘱託社員)されたが、賃金が減額されたことが、労働契約法20条違反であるとして、正社員当時と同じ賃金を支払えとの判決を言い渡した。

 その控訴審東京高裁第12民事部(杉原則彦裁判長)は、平成28年11月2日、東京地裁の判決を取消して労働者側を逆転敗訴の判決を言い渡した。

■事案の概要
  会社(長澤運輸)は一般貨物自動車運送事業者で、セメント、液化ガス、食品の輸送事業を営んでおり、従業員は66名いる。定年は60歳であり、嘱託社員就業規則では、定年後1年期の有期雇用契約をして継続雇用し、賞与・退職金を支給しない旨を定めていた。
 原告らは3名。うち原告X1は、平成26年3月31日に定年退職し、同年4月1日以降も乗務員として勤務している。正社員(無期契約労働者)と嘱託社員(有期契約労働者)の労働条件(賃金)は次のように差があった。

正社員当時⇒嘱託社員
基本給 11万2700円~12万1500円⇒ 12万5000円
職務給 8万552円~8万2952円 ⇒なし
歩合給  3.1%~3.7% ⇒10~12%
役付手当  組長1500円⇒なし
精勤手当  5000円  なし
住宅手当  1万円  なし
家族手当  5000円  なし
賞   与  5ヶ月分 ⇒なし
 
 労働契約法20条は、有期による労働条件の相違(正社員との労働条件の相違)について、①職務の内容、②職務の内容及び配置の変更の範囲、③その他の事情を考慮して不合理であってはならないと定めている。
 そこで、原告ら3名は、定年後の労働条件の相違(格差)が労契法20条に違反するとして会社に差額賃金(予備的に損害賠償)を請求して裁判を提起した。

■東京裁判決の内容
争点Ⅰ<定年後の有期再雇用に労契法20条の適用があるか>
 被告会社は、賃金を下げたのは有期が理由ではなく、定年後再雇用であるから賃金を切り下げたのだから、労契法20条は適用されないと主張した。しかし、東京地裁判決は、「労働条件の相違が、期間の定めの有無に関連して生じたものである」ことで足りるとして、労契法20条の適用があるとした。

争点Ⅱ<本件賃金の相違は不合理となるか>

(1)「上記①(職務の内容)と②(職務の内容及び配置の変更の範囲)を明示していることに照らせば、同条がこれらを特に重要な要素と位置づけていること」は明らかであるとして、(上記①及び②が同一である本件の場合には)「労働者にとって重要な労働条件である賃金の額について、有期契約労働者と無期契約労働者との間に相違を設けることは、その相違の程度にかかわらず、これを正当と解すべき特段の事情がない限り、不合理であるとの評価を免れない」とする。

(2) 他方で、「賃金コストの無制限な増大を回避しつつ定年到達者の雇用を確保するため、定年後継続雇用者の賃金を定年前から引き下げることそれ自体は合理性が認められる」としつつ、「しかしながら、(①及び②)が全く変わらないまま賃金だけを引き下げることが広く行われているとか、そのような慣行が社会通念上も相当なものとして広く受け入れられているといった事実は認められない」とした。

(3) そして、「原告らに対する賃金の切り下げは、超勤手当を考慮しなくとも、年間64万6000円を大幅に上回る規模である」と認定し、「これらの事情に鑑みれば、…定年退職者を再雇用して正社員と同じ業務に従事させるほうが、新規に正社員を雇用するよりも賃金コストを抑えることができるということになるから、被告における定年後再雇用制度は、賃金コスト圧縮の手段としてのい側面を有していると評価できる」。

 しかし、「被告において上記のような賃金コスト圧縮を行わなければならないような財務状況ないし経営状況に置かれていたことを認めるべき証拠はなく」、「被告の再雇用制度が年金と雇用の接続という点において合理性を有していたいものであったとしても、そのことから直ちに、嘱託社員を正社員と同じ業務に従事させながらその賃金水準だけを引き下げることに合理性があるということにはならない。」

■東京高裁判決
 争点Ⅰについては、東京地裁とまったく同じ解釈をして、定年後の有期再雇用の場合でも労契法20条が適用があるとした。

 争点Ⅱについては、①及び②の要件を地裁のように重視せず、「その他の事情」を含めて「幅広く総合的に考慮して判断する」とした。

(1)「定年後継続雇用者の賃金を定年時より引き下げることそれ自体が不合理であるということはできない」とする。その理由は、高年齢者雇用安定法により「全事業者」について「定年到達者の雇用を義務付けられてきたことによる賃金コストの無制限の増大を回避して、定年到達者の雇用のみならず、若年層を含めた労働者全体の安定的雇用を実現する必要がある」ことをあげる。

(2) 独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)の平成26年調査結果によれば、定年到達時と同じ仕事をしている割合(運輸業)は87.5%であり、継続雇用者の年間給与の水準の平均値が68.3%、中央値が70%で、従業員数50~100人未満は平均値70.4%であるとしている。

(3) 一審原告らの賃金減額は、超勤手当を考慮しなくとも年間64万6000円であるが、年間X1が24%、X2が22%。X3が20%であり、上記JILPTの調査による平均の減額率をかなり下回っている。このことと「本業の運輸業については、収支が大幅な赤字となっていると推認できること」から、「年収ベースで2割前後賃金が減額になっていることが直ちに不合理であるとは認められない」とした。

(4) その他、正社員の能率給に対応するものとして、歩合給を設けて支給割合を高めたこと、無事故手当を増額したこと、老齢厚生年金が支給されない期間について調整給支払ったこと、組合との間で一定程度の協議が行われ、一定の労働条件の改善を実施したことを考慮して、労契法20条違反ではないとした。


■コメント

 東京地裁判決も、東京高裁判決と同様、定年後再雇用の場合に、賃金を切り下げること自体を不合理とはいっていない。しかし、東京地裁判決は、同じ職務内容かつ職務内容及び配置の変更の範囲も同一の場合に2割強の減額が合理的というためには、特段の事情が必要であるとした。①と②の要件を重視する東京地裁判決のほうが自然な解釈であろう。

 他方、東京高裁判決は、JILPTの調査結果から、3割くらいの減額は社会的に許容されているとして、長澤運輸では2割強にとどまっているから合理性があるとしたものである。

 ただ、実際の減額は超勤手当も考慮しての賃金差額(原告3名の平均)は、定年前1年間の年収が527万円だったものが、定年後再雇用1年間の年収が374万円と29%の減収となっている。高裁が2割強と認定したが、これは超勤手当をのぞいた月額給与の差額と思われる。

 しかし、JILPTの調査結果が実態だとしても、労働契約法20条の施行前の実態を基準にすることは、有期雇用の労働条件を改善しようという労契法改正の趣旨に反するのではないだろうか。

 なお、東京高裁判決も「2割強の減額は直ちに不合理とはいえない」としたまでで、3割を超える減額まで合理的だとは言っていない。私が担当している定年後再雇用の賃金減額事件は、正社員当時の基本給から39%も減額された事案であり、その他の手当も含めれば月額で45%も減額された事案である。このような場合にまで合理性があるとするわけではないだろう。

 また、東京地裁も東京高裁も、個々の労働条件ごとに合理性を判断していないことが両判決ともオール・オアナッシング、「白か黒か」の硬直的な結論につながったように思う。


 貨物自動車のトン数や種類ごとに支給される職務給を、同じ仕事(同じ貨物自動車の運転・荷下ろし)をしているのに、有期社員に支給しないことが果たして合理的であろうか。この職務給が、貨物自動車に乗務する運転士の労働負荷に対応して支払われる労務対価であれば、同じ仕事に従事する有期社員に一切支給しないことは不合理であろう。


 賞与についても、正社員に支給される5ヶ月分賞与が給料の後払い的な性格が強いものであれば、正社員と全く同一水準であるかどうかはともかく、一切支給しないということが果たして合理的なのか否かを検討すべきではないだろうか。

 長澤運輸事件は最高裁に上告された。大阪高裁のハマキョウレックス事件判決(定年後再雇用ではない有期社員の運転士と正社員運転士との労働条件の相違が問題となった事件)も、最高裁に係属している。

 おそらくあと一年くらいで、両事件についての最高裁判決が出されるだろう。

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2016年9月18日 (日)

読書日記 『テロ』フェルディナント・フォン・シーラッハ著

2016年7月東京創元社出版
2016年9月読了

朝日新聞の書評欄に掲載されていました。著者は、ドイツ人の刑事弁護士だそうだ。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12565099.html

■少数を犠牲にした少佐は有罪か

 法廷に立った被告人は、ドイツ連邦空軍のラース・コッホ少佐。戦闘機パイロットの彼は、ドイツ上空でテロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜し、乗客164人を死なせた罪に問われた。だが、テロリストは、旅客機を7万人収容のサッカースタジアムに墜落させようとしていた。7万人を救うために164人を犠牲にする判断だった。
 撃墜命令が出ていないのに個人の判断で撃墜した少佐の行為は有罪か無罪か。この戯曲の読者、劇の観客が結審後にどちらかを決める体裁で、二通りの判決文が用意されている。

■ドイツ刑法の特色

この本(戯曲)の展開の前提が二つあります。特に、日本刑法のような緊急避難条項(刑法37条)がドイツ刑法にはないことが重要です。

第1点は、ドイツでは航空安全法にて、ハイジャックされた民間飛行機がテロの道具とされた場合にはドイツ国防大臣の命令によって乗客が乗っていても飛行機を撃墜しても良いと改正された。しかし、ドイツ憲法裁判所は、この航空安全法の規定を、無辜の人を救うためとはいえ他の無辜の人を殺す規定であり、ドイツ基本法(憲法)が定める「人間の尊厳」に反して違憲と判断したこと。


第2点は、ドイツ刑法の違法性阻却規定は、「正当防衛」と「緊急救助」しかなく、ドイツの「緊急救助」とは、自己又は親族のために行う緊急避難しか認めないということです。

ですから、戦闘機パイロットは、ドイツ刑法では、自己の親族のために旅客機を撃墜すれば処罰されないが、第三者のために撃墜した場合には、ドイツの緊急救助規定は適用されない。

そこで、ドイツでは、戦闘機パイロットの撃墜行為が乗客乗員164人に対する殺人罪に該当するのか、超法規的違法性阻却事由が認められるかが法的に問題になるわけです。

有罪を訴える検察官は、
皆のモラルや良心は揺れ動くものであり、個人のモラルや良心によるのではなく、憲法を優先して判断すべきであると弁論します。「憲法が『人間の尊厳は不可侵である』と定めている以上、人間の生命を道具や手段として扱ってはいけない。乗客や乗員の努力でハイジャック犯を倒せた可能性も否定できない。何人も無辜の生命を一方的に決定して奪うことは許されない。国防大臣の命に反して旅客機を撃墜する行為は,殺人罪であると。


■無罪を訴える弁護人は、


憲法裁判所はテロリストに負けた」と批判します。この撃墜行為が許されないとなれば、テロリストは旅客機をハイジャックしてテロを実行することになる。ドイツの警察や軍隊は手も足も出ないわけであるから。有罪とすれば我々の生命を脅威にさらすことになる。より大きな悪を防ぐためにより小さな悪を選択すべきだ。確かに、乗客の尊厳を損なうかもしれない。しかし、私たちが選んだわけではないが、私たちは戦時下にいるのだ。戦争には犠牲がつきものなのだ。


■日本の緊急避難(刑法37条)によれば、
日本の刑法37条1項本文は、次のように定めています。


「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」

これを上記事案に適用すれば、他人の生命、身体の現在の危難を避けるために、やむを得ずした行為(撃墜行為)は、164人の生命を犠牲にしたが、7万人の生命を助けるためだから処罰されないことになります。

日本の刑法を適用すれば、ドイツの戦闘機パイロットの行為は、違法性が阻却されて、無罪となります。

日本では、ドイツのような法哲学的かつ憲法学的な法的論点は生じない。日本の刑法37条は、英米法的な功利主義に立脚しているのようだ。ドイツ的なカント道徳論とはだいぶ異なる。
 

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2016年9月14日 (水)

「シン・ゴジラ」と「平成ガメラ」

 安倍首相が、「シン・ゴジラ」で「自衛隊の活躍が描かれている」と嬉しそうにコメントしたそうです。


 他方、「シン・ゴジラ」は、「自衛隊礼賛映画で、憲法改正して緊急事態条項導入しようとする勢力の露払いである」との左派からの批判もあるようです。

  ところで、1995年に公開された「ガメラ 大怪獣空中決戦」(金子修介監督)という映画があります。私は、映画関係の労働組合の活動家から「子どもだましの怪獣映画と思うだろうけど、騙されたと思って観てくれ。」と言われて、レンタル・ビデオ屋で借りて観ました。

  この「平成ガメラ」は面白かった。着ぐるみの「ガメラ」なんだけど、ガメラとギャオスとの戦いは素晴らしくエキサイティングだった。また、自衛隊は、ガメラと対ギャオス駆除の共同戦線(集団的自衛権?)を展開するのも面白かった。その後、「ガメラ2レギオン襲来」も公開され、この平成ガメラ・シリーズは自衛隊全面協力の映画となりました。金子監督の「ガメラ」には、官房長官が自衛隊に防衛出動を発令するシーンもありました。この点では「シン・ゴジラ」の原型です。

 「平成ガメラ」の公開当時、「自衛隊の礼賛の映画だ」と左翼陣営から批判がおこりました。

 ところが、面白いことに金子修介監督(1955年生まれ)の父親はベトナム反戦のために十数年間にわたり、「ベトナムに平和を」というゼッケンを着けて通勤し社内でもゼッケンをつけた反戦活動家だったそうです。これは金子監督ご本人も語っておられ、ご両親は「左翼一家」だったとのことです。また、金子監督自身、山本薩夫監督を尊敬していると語っておられるので、まあ「左派」のはずです。

 このような「左派」の監督でも、ガメラが日本に現れたらと想定したら、やはり自衛隊を描かざる得ないのです。お子ちゃま向け映画では、ウルトラ警備隊や地球防衛軍という設定がありえるのですが、それでは「お子ちゃま映画」から脱せないわけです。

 では、金子監督は自衛隊を礼賛映画をつくったのでしょうか。そうではないですね。
 SFとはサイエンス・フィクションですが、ファンタジーではありません(私見)。あくまでSFはフィクションなのですが、どこかサイエンス(疑似サイエンスでも)な裏付けがなければ面白くないわけです。それがないと完全な「ファンタジー」となり、男にはつまらないのです。

 現実に「ゴジラ」や「ガメラ」が現れたとすれば、日本人と日本社会がどう反応するのかを考えるときに、自衛隊や政府・官僚の動きを想定しなければ、面白いものにならないのです。それは「自衛隊礼賛」とか、そうでないとかという政治的思惑とはまったく関係がない話です。

 「シン・ゴジラ」が愛国映画だとか、自衛隊礼賛だとか、という評価論争(?)があるようです。でも、そんな政治メッセージ(政治プロパガンダ)からは超越しているのでしょう。まあ、そういう評価論争を映画宣伝の一環に利用しているとも言えますが。

 庵野秀明監督(1960年生まれ)は、アニメの「エヴァンゲリオン」や実写映画の「式日」、「ラブ&ポップ」をつくってきました。これらを私も観ていますが、何を考えているのかよく掴めない監督です。が、彼のつくる映像のかっこよさはとびきりです。「ラブ&ポップ」のラストの「あの素晴らしい愛をもういちど」の歌をバックに、「どぶ川」(渋谷川)を行進する女子高生のシーンは秀逸でした。


 庵野監督は宮崎駿や高畑勲とも仕事をしているので、「物語」をつくるにあたって、政治的な脈略も理解して作っているはずです。高畑・宮崎は、「映画を描くには、作品の背後の社会的・政治的背景をもった世界を構想しなければならない。映画で描くのはそのうちの2割だ。でも、そういう構想をもたないと映画のリアリティや世界観は出せない」と語っていました。庵野監督もこういう考えのはずです。

 しかし、このような政治的背景を前面に出すことは、映画作品としては「掟破り」(ダサい政治的メッセージ)であることも熟知しているはずです。でも、そういう「味付け」が社会的な注目を浴びる手段であることもわかっている。映画という社会的作品は、多様な解釈を許容する広がりと深さをどれだけ持つか、多面的な存在だからこそ、商業的な価値も含めて「価値」が高まることをよく庵野監督は知っているはずです。

 その意味では、「シン・ゴジラ」も「平成ガメラ」も、政治的メッセージなどは持っておらず、脚本家と監督が映画を極めたいと思った結果でしかないでしょう。そこにどのようなメッセージを読むかは観客に委ねられることになります。

 私は、「シン・ゴジラ」で自衛隊が活躍しても、「日の丸」ははためかないことに意味を読みこみます。また、日本人には、超人的なヒーローは出現せず、チームプレイに徹するしかない。日本ラグビーや陸上400メートル・リレーのように。これも私の勝手な解釈です。

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2016年8月 7日 (日)

映画評「シン・ゴジラ」

庵野秀明監督・脚本の「シン・ゴジラ」を観ました。


お見事!

 
というしかない。

同年代(50~60歳台)のオヤジ世代には、是非、大画面の映画館でごらんになることをお勧めします。

詳しいストーリーは省略、以下ネタバレの感想です。映画未見の方は読む前に映画館でご覧ください。

***ネタバレ感想*********************
この映画で、何よりも面白い点は「福島第一原発事故」の実際の展開を踏まえて展開するという点です。


一種の「政治的パロディ 怪獣映画」です。

けっして、「怪獣」(ゴジラ)が主役ではなく、ゴジラは想定外で未曾有の危機の象徴であり、それが出現したとき、現実の今生きている日本人(政府や官僚や国民)がどのように対応するかという局面こそ庵野監督が描きたかった物語でしょう。

まさに、ゴジラは「荒ぶる神」であり、「荒ぶる原発」の象徴です。

原発事故の対応に追われる首相や官邸サイドの動き、御用学者の発言、政治家や官僚組織の右往左往、自衛隊や消防隊、現場の協力業者などの動きをもとにして、本作で描いているとしか思えません。

だから、ゴジラが通過した後の被災映像はすべて既視感があります。船を巻き込みながら川を遡上する津波、がれきだらけになった街中。

このような映画シーンは、津波被災と福島第一原発事故被災をうつしたテレビ映像そのままです。首相や閣僚が着ている各省の防災服、対策本部での会議室の様子も、福島第一原発事故の様子そのままです。

ゴジラ対策を練る閣僚会議や政府高官の会議、官僚の会議がパロディとなって、その日本的な風景に苦笑(爆笑)せざるをえない。官僚組織の動き方など、福島第一原発事故の事態どおりであり、まさにそうだったなあと思わせます。

自衛隊の対ゴジラ出動も、「治安出動なのか、防衛出動になるのか」を官僚と閣僚が法律に基づき議論します。結局、「有害動物駆除」として総理大臣が「防衛出動」を命じるなんてストーリーが面白い。いかにも日本的な「官僚内閣制」です。

自衛隊が出動してゴジラ攻撃を実行するシーンでは、初回ゴジラ作品と同じ「ゴジラのテーマ音楽」が流れるのも良い。
ちなみに、初回ゴジラは1954年放映だが、同じく1954年に自衛隊が設立されている(それまでは、警察予備隊、保安隊)。自衛隊の戦車や戦闘機がゴジラを攻撃していた。シン・ゴジラでも、自衛隊が最新鋭部隊がゴジラを攻撃するが、当然、通常兵器ではまったく効果なし。

「想定外なんで、よくあることだ。」「ゴジラが上陸するのなんて絶対あり得ない。」と発言をしていた首相をはじめとした古手の閣僚が乗ったヘリコプターが、ゴジラに一瞬で破壊され、あっけなく全員死亡。

さらにシン・ゴジラで面白かったのは、ゴジラ対策に米国・米軍が介入してくる点です。

福島第一原発事故の際に、メルトダウンし4つの原発がすべてコントロールできなくなった場合には、米軍が介入するという話が現実にあった。米国は官邸に米軍を常駐させるように要請し、これを菅総理は断っている。東京全避難になっていたら、米国人・米大使館保護のため在日米軍の介入は必至だった(菅総理談)。
ということで、映画では、ゴジラへの自衛隊の攻撃が失敗し、米軍が東京の核攻撃を決定し、国連安保理も承認し、対ゴジラ多国籍軍が編成される。日本政府は、米国には逆らえないって承諾してしまう。

さて、東京は、日本はどうなる?

 
首相ら主要閣僚が死亡した後、「昼行灯」のような老政治家が、やむなく総理大臣を押しつけられ、アメリカにもたてつけない。


彼は「まあ がんばってね。しょせんわしが責任とらされるから」って言うかのように若手の政治家や官僚にあとの対策を委ねる。


その若手らが民間企業と協力しながら活躍。エンタテイメント映画としての壺もおさえています。

最後は、福島第一原発事故の「使用済み燃料プール」への放水場面そのままのような、自衛隊と民間業者の共同作戦が最大のヤマ場。超速いテンポでの場面展開で、ついてけない人もいそうです。

完璧なエンターテイメント映画です。見終わった後に隣に座っていた若い男の観客が「まるでエヴァだなあ」とつぶやいていました。確かに映像が庵野監督のアニメ「エヴァンゲリオン」に似ているという評も多いようですが、それはどうでもよいように思います(映像としてはゴジラは素晴らしくかっこいい)。

何より本映画の特徴は、ゴジラのような想定外の物事が起こったとき、右往左往する日本政府(と日本人)に対する諦観と痛烈なパロディでもあり、それでも日本人は日本人のままなんとかするしかないし、なんとかできるという楽天的なメッセージもあります。そうしないとエンターテイメントになりませんから。

この映画は、福島第一意原発事故をふまえて、日本人の政府や組織の会議や対応をリアルに描いています。ですから、子どもや外国人には、この映画の面白さはおそらく理解し難いでしょう。他方、組織に属する日本のオヤジたちは思い当たる点が、多々あり微苦笑できます。

最後に、ネタバレついでに言えば、ニコリともしない常にクールな「理系女」の環境省女性技官のラストの表情が印象深いです。

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2016年8月 6日 (土)

ヘイト本と出版の自由-出版労連シンポジウム

 さる7月30日に、出版労連が主催したヘイト本を考えるシンポジウムにパネラーとして参加しました。

http://www.labornetjp.org/news/2016/1469979721323left

ヘイトスピーチ出版、いわゆる「ヘイト本」(例えば「そうだ難民しよう! 」はすみとしこ著・青林堂)について出版人の良心を問うという企画でした。

私は法律家として、コメントするという立場で参加。

あらためてヘイトスピーチの国際人権法について諸岡康子弁護士の「ヘイトスピートとは何か」(岩波新書)を読みなおしました。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1312/sin_k743.html

■ヘイトスピーチ解消推進法の成立

 正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」と言います。具体的な規制は盛り込まていない「理念法」ですが、外国人に
対する不当な差別的言動の定義を次のように定めます。

「①差別的意識を助長し又は誘発する目的で、②外国の出身であることを理由として、③公然と、④生命などに危害を加える旨を告知し又は著しく侮蔑するなど、地域社会か
ら排除することを扇動するもの」

 問題を抱える法律とはいえ、ヘイトスピーチ解消推進法が成立したことは最初の大きな一歩前進です。

 この法律も次の国際条約をもとにしたものです。

●国際自由権規約第20条2項
 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」
この国際自由権規約を日本は、1979年に日本は批准してます。

●人種差別撤廃条約
第1条1項
 
 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをい
う。

第4条
 締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。


  (a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪
であることを宣言すること。

  (b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

  (c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。

 この人種差別撤廃条約については、日本は、1995年に第4条(a) (b)を留保した上で批准しています。留保とは、上記(a)(b)処罰規定については排除又は変更するという留保条項です。

■人種差別条約ではなく、人種「的/等」差別条約

 人種差別撤廃条約の第1条の定義だと、「人種」だけでなく、世系、民族的、種族的出身も含まれるので、本来は人種的ないし人種等差別条約と訳したほうが良いです。日本人と韓国・朝鮮人は人種は一種ですが、民族的には異なるので、同条約が適用されます。

■ヘイトスピーチの定義が不明確かつ広範囲

 人種差別は、けっして許されないが、すべて処罰することは表現の自由を侵害するのではないか。これが問題です。「ヘイトスピーチ」、「人種差別的表現」、「人種的憎悪をあおる宣伝」、「民衆扇動をして人間の尊厳を侵害する表現」とか言っても、あやふやな定義でしかありません。

 中国や北朝鮮の軍事的膨張主義、あるは米国の帝国主義的軍事介入主義を批判することが、人種的差別表現として規制されるかもしれません。

 笑い事ではなく、諸岡康子弁護士の岩波新書では、このような濫用的事例が報告されてます。


■ドイツの濫用事例



 ドイツでは、ドイツ刑法130条1項にて「公共の平穏を乱す態様で憎悪をかき立てるなど他人の人間の尊厳を攻撃する行為」を禁止してます(民集煽動罪)。
 1991年、ドイツの平和運動家が、湾岸戦争へのドイツ軍派兵反対運動として、「兵士は人殺しだ」というステッカーを貼った行為が、民集煽動罪で起訴されたという。

 1994年、ドイツ連邦通常裁判所で被告人は無罪となった。ただ、ドイツの裁判所の判断は「ドイツ連邦軍兵士は人殺しだとの表現は130条1項該当するが、兵士は人殺しとの
表現は該当しない。」とうものであった。


■トルコの濫用事例


 クルド人女性弁護士が軍によるクルド人女性へのトルコの蹂躙を批判したところ、その発言が「人種的憎悪の扇動を禁止する法律」違反するとして有罪とされた。

■ヘイトスピーチは表現の自由か

 そもそもヘイトスピーチは表現の自由に含まれないという立論をする人がいます。しかし、あまりに単細胞の発想です。ドイツやトルコの濫用事例を見れば一目瞭然でしょう。日本でも、共産党が自衛隊予算を「人殺し予算」と発言しました。ドイツでは、この発言が民集煽動罪で有罪になりかねないということになります。日本で、この規定があれば、自民党政府はよろんごで共産党の発言者を刑事訴追したことでしょう。

 ですから、ヘイトスピーチに対する規制は必要ですが、その規制方法と程度は慎重に検討しなければなりません。
 
■法律家としては

 立憲主義を尊重する法律家としては、ヘイトスピーチ規制の目的は」正当であり、今や日本ではその必要があると考えますが、その規制手段と規制の程度は慎重に検討しな
ければならないと思います

 国連の人種差別撤廃委員会も、すべてのヘイトスピーチに処罰規定を設けろと言ってるのではなく、次の三段階に分けています。
 最悪レベルは「犯罪として処罰」(刑事規制)、悪質レベルは、「民事・行政的規制」、法違反ではないが「憂慮すべき表現」として社会的に非難するレベルです(ヘイト スピーチに関する一般的勧告35・2013年、ラバト行動計画・2013年 上記諸岡康子著書)。
 出版については、外国人などに暴力によって危害を加えるよう扇動する以外には、どんな内容でも法的な出版禁止などは設けるべきではないでしょう。やhり言論には言論にて対抗するのが原則です。


 こういうと、「お前は被害者の心の傷をわからないのか」とか「ヘイトの被害者には表現の自由がない」とか「いまだにヘイトスピーチを表現の自由に含まれるというお前はレベルが低い」とかのお叱りを受けます。


http://www.magazine9.jp/article/biboroku/29674/

 弁護士は、刑事事件の被告人を弁護するときには、「被害者の人権を否定するのか」とか、「被害者の気持ちを考えろ」とか非難されます。でも、法律家としては、加害者がどんなにひどい悪辣非道な犯罪者であっても、適正手続や表現の自由を保障する「法の支配」を否定することはできません。バランスが必要です。

■ヘイト規制を声高に言う人は政治権力を信頼しているのか

 ヘイトを刑事規制をしろと声高に言う人はおそらく政治権力や司法や捜査機関を信頼しているのでしょう。

 しかし、私は、日本の政治権力や捜査機関を、長年の弁護士経験からして、まったく信用していません。唯一信用できるのは、司法手続が公開されて世論の批判をうけるシステムがあることだけです。裁判官を信用してるわけではありませんが、司法手続と判決や決定が公開されていることは、表現の自由が保障されている限りまだ信用できると思います。
 
 何よりも日本は、戦前支配層の流れをくむ保守政治が長く続いてきています。

 中には未だに、「国民主権、基本的人権保障、平和主義を捨てなければ日本は独立国家になれない」とか「日本は天皇を中心とした神の国だ」とかを唱える自民党政治家や日本会議のトップの元最高裁長官がいます。彼ら彼女らが、これを本当に信じているなら、まさに民族主義の狂信主義といってもよいでしょう。欧米的な基準からすれば、小池百合子氏も、稲田朋美氏もネオナチばりの歴史修正主義者であり、右翼民族主義者にほかなりません。しかも核武装論者です。


 そんな日本に、ヘイトスピーチの刑事処罰法を導入すれば、捜査機関を使って政府の気にくわない言論をヘイトスピーチとして弾圧を加えるあらたな方策を政治権力に与えるだけです。

 なぜ、リベラルと言われる人たちがヘイトスピーチ刑事処罰法を導入しよとしているのか、私は理解に苦しみます。

 これからの将来、共産党独裁の中国の台頭や混乱、日本の経済的地位低下を考えれば、日本人が右傾化していくのは不可避で、それは歴史的必然でしょう(古今東西の歴史が人間とはそういう傾向があることを証明している)。このような情勢の中で、リベラル派がヘイトスピーチ刑事規制を求めることは、敵に塩を送り、自らの首をしめるようなものでしょう。

■ではどうするか

 私は、政府や行政から独立した「人種的差別撤廃委員会」を設置して、行政的規制(ヘイトスピーチへの警告、勧告、違反者への公表。例えば、大阪市条例のような法律)、そして、被害者に代わって裁判所に事前差し止めや損害賠償を訴える権限を付与するようにしたらよいと思います。労働委員会のような委員会ですね。

 どうしても、刑事規制をするとしたら、公務員(議員、候補者、自治体首長を含む)の不当な人種差別的言動を処罰する犯罪類型を設けること、また、人種的差別を目的とする傷害、殺人、威力業務妨害について刑罰加重規定を設けることは検討にすべきだと思います。


参照:日弁連の人種差別撤廃に向けた取り組みの意見書
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150507_2.pdf

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2016年4月10日 (日)

ガルブレイス -「労働組合是認論」(あるいは解雇規制)の経済学的根拠

読書日記 「ガルブレイス-アメリカ資本主義との格闘」伊東光晴著 岩波書店
2016年3月 第1刷発行
2016年3月 読了
■定点観測-面白し
 10年、20年30年、同じ学者の本を読むことを、私は「定点観測」していると思っています。この人と思ったらずっと読む(小説もそうだけど)。ずっと同じ学者の書いたものを時代を超えて、10年20年30年読むと「面白し」です。
 「面白し」とは、暗闇のなかで見えなかった顔が、だんだん見えてくるということを意味するそうです(高校の古文で習った)。学者の顔が見えてくるだけでなく、時代の顔も、自分の顔も見えてくるのかも。


■定点-伊東光晴教授


 伊東光晴教授(京都大学名誉教授)の最新著作です。伊東教授は、1927(昭和2)年生まれですから、今や89歳。
 大学生時代から雑誌「世界」に掲載された伊東先生の論文や、一般向けの経済書を、気がつけば必ず読んできました。いわば定点観測対象です。他方の極点の定点観測は野口悠紀雄教授や八代尚弘教授です。
 伊東教授は、30年前から常に「ファクト・ファインディングこそ大切」と強調されてきました。伊東先生は、昭和2年生まれの日本人です。私の死んだ親父と同い年です。昭和の「恐慌」、「農村の困窮」、「失業」、「戦争」のすべてを知って、経済学者になった人でしょう。親父と同い年ということでなんとなく想像できます。
 伊東教授は、いわゆる「近経」の経済学者ですが、マルクス主義経済学者との交流も多く佐藤金三郎の「マルクス遺稿物語」の後半を伊東教授がまとめた。伊東教授の著作を読むと、伊東先生の「人物」の大きさがわかります(八代教授や竹中教授とは「格」がちがう、と思うのは私が昭和生まれだからでしょうか)。
 旧制高等学校の伝統を持つ、良き教養主義の教師。情熱と品格、まさに「クールヘッド&ジェントルマインド」なる「人物」の典型でしょう。


■著者自身の「アメリカ資本主義ないしアメリカ経済学との格闘」
 この本は、ガルブレイスの生涯と彼の経済学の紹介ですが、それにとどまらず、著者自身の「アメリカ資本主義との格闘」といえます。
 伊東教授は、現代のアメリカ資本主義は、「市場原理主義」というイデオロギーによって営まれる市場経済であり、その「アメリカ自由主義」は、「個人の自由」・「自己責任」の絶対視と適者生存の「社会ダーヴィニズム」(イデオロギーとしての自由主義)に支配されているとして、次の言葉を引用します。
 「大企業の発達は適者生存にほかならない。」 「アメリカンビューティー種のバラがつくられて、見る人の喝采を博するのは、そのまわりにできた若芽を犠牲にしてしてはじめてできることなのだ」。スタンダート石油会社もバラと同様である。「それは自然の法則と神の法則にほかならない」と。by 石油王ロックフェラー



■アメリカ自由主義と社会ダーヴィニズムのイデオロギー
 このような社会ダーヴィニズムの考え方は、今でもアメリカでは社会に浸透しており、共和党右派のティーパーティの思想でもあり、アメリカ経済学に入り込んでいる。リバタリアンの思想と共通している。
 「経済学のテキストブックを見れば、必ず消費者が、もっとも特なように行動をした結果としての需要曲線と、同じように企業が自ら望むように行動した結果としての供給曲線が引かれ、その交点で、価格が決まるという図が書かれている。その交点での価格と需給の量が望ましいのであり、それをもたらすのは競争である。
 これを乱す政策は悪である。農産物支持価格、家賃規制、最低賃金制、そして労働組合の活動は、この最適状態を乱す「反社会的行動」であるとしている。市場原理主義者と結びついた需要・供給・価格決定理論は、こうして社会ダーヴィニズムの支持理論となり、市場競争で敗れた者や貧困者は、自ら招いた結果にほかならないのである、ということを意味している。」(100頁)
 上に付け加えれば、アメリカ的市場原理主義者は、「使用者の解雇を規制することは、労働市場の最適状態を乱す反社会的行為であり、社会全体の雇用量を減少させて、失業者を増加させるだけだ」とも主張しています(八代尚弘教授、竹中平蔵教授ら)
  このようなアメリカ人の「格差容認」「貧困は自己責任」という価値観が強いのは、ヨーロッパのような伝統的な村落共同体の中での相互扶助の歴史がなく、そこから新天地アメリカに移住し、広大な土地に点在して、自らの努力のみで土地を切り開いたという社会的土壌があるからと指摘します。(なお、これに加えて、アメリカ原住民を殺戮し、アフリカ人奴隷を使ったという「暴力」の土壌があったと私は思います)。今や、この考えは日本でも主流となっています。
 ガルブレイスは、競争モデルに対して、拮抗力(対抗力)が必要と主張した。
「個々の労働者は比較的流動性(新しい職を見出し移ること)に乏しいため、長いあいだ私的な経済的支配力にたいしてきわめて弱体であった」。それゆえに労働組合に結集し、対抗し、労働時間の短縮や、賃金の引き上げを求めてきた、と。

■労働供給曲線、労働需要曲線
 伊東教授は、ケンブリッジ大学のマーシャルの「経済学原理」の労働供給曲線のことを述べます。 

 現代の経済学教科書は、当然のことながら「労働供給曲線」は「右上がり」です。賃金率が上がれば労働供給量は増し、賃金が下がれば労働供給量は減る。で、労働需要曲線は「右下がり」です。この両者の曲線の交点が均衡賃金、均衡雇用量です。
 ところが、マーシャルは、個々の労働供給曲線は、「右下がり」になると考えた。もし賃金率がW1からW”に切り下げられたとしよう。一時間があたり賃金が下がった。生活するためには、いままで通りの収入額がほしい。そこで、もっと長時間働こうという誘因が労働者に働く。賃金率の切り下げは、労働供給量を増加させる。
 つまり、労働市場は自己調整メカニズムを持たない。もし労働供給が過剰で賃金が下がれば、労働供給量が増え、さらに労働供給が過剰になり、賃金が下がる。‥‥ それが止まるのは労働者の生活の崩壊によってである。
  こうした賃金低下が一層の賃金低下を招くという悪循環を食い止めるためには、労働者が団結して自らを守る労働組合が必要であるというのがマーシャルの考えである。労働組合是認論の経済学的根拠は、この労働曲線の形であり、労働市場は自己調整能力を持たないという考え方である。(160頁)


■現代における労働組合衰退の経済学的根拠と労働者階級への葬送曲
 上記のマーシャルの考え方はマルクスと共通しています。
 しかし、ガルブレイスは、現代の資本主義での労働組合の役割の低下を次のように述べているそうです。
 インダストリー(生産の経済が社会を引っ張る時代はもはやすぎた。大企業体制の中で、価値を創造するのは、もはや「労働者」ではなく、「テクノストラクチャア」(工学・経済学・経営学・金融工学の技術者)ですから、大企業内で、組合は労働者にとってそれほど必要なものではななくなっている。

 さらに、伊東教授は次のように述べます。
私はこれに付け加えたい。マルクスが見た資本主義企業の下で生産を支えているのは、苦しい労働を続ける労働者であった。マルクスの言う生産力は彼らが担っていた。だが、大企業体制の中で、技術を進歩させ、労働者を搾取することなくより多くの利潤を生み出す体制をつくり出す生産力の体制をつくり出す生産力の上昇は、テクノスクラクチュアたちの努力である。技術者たちの総合力が生産力の担い手になったのである。労働者はその成果の享受するものになっていく。受益者が、マルクスの考かたような変革の主体になり得るのかどうかは疑わしい。
 この点は、おそらくそうなんでしょう。もはや先進資本主義国での労働者階級に、「世界史的な使命」などは存在しない。労働組合は、単なる「正当なプレッシャグループ」にしかすぎないでしょう。だからこそ、正当なプレッシャグループとしての役割を発揮してほしいものと私は思います。

■マルクスは労働者が可哀想だから味方したのか?
 マルクスとエンゲルスは、格差で苦しめられている労働者階級が可哀想だから味方したのではけっしてない。
 マルクスとエンゲルスは、労働者階級こそ「生産力の担い手」であり、労働者たちが団結して「自由な独立した生産者」として、経済計画をたてることで、皆の「アソシエーション」による「自由の王国」を打ち立てることを夢見た。そして、その経済学的根拠は、労働者こそが「生産力」を担い、生産力を飛躍的に高めることができるからという点にあった。
 ところが、ファクトファインディンスすると、現代の資本主義では労働者が生産力発展を担うということは、もはや否定されてしまった。労働者は単純生産の機械の歯車にすぎず、生産力を高める役割を担えるような能力はない。これからは人工知能とロボットに置き換えられる存在にしかすぎない。世界史を発展させる階級としての駆動力はもはやないと言わざるを得ない。
 今や、大企業体制の中で「テクノクラート=テクノストラクチャア=技術者」たちこそ、生産力発展の担い手であり、かれらこそ「株主」らから自立した「経営者階級」として、新しいグローバル資本主義を担う勢力(新しい支配階級)になるのでしょう。ブルジョア階級と技術者階級の合体としての「ブル=テクノ階級」ですな。

■経済二分論
 現代資本主義は、経済的に見て二つの領域に分かれているというのがガルブレイスのファクト・ファインディングの結論。
 
 第一は大企業によって、支配されている部門である。。正確に言えば少数大企業からなる寡占市場と、その巨大企業に部品その他を供給する企業集団を含めたものである。第二は各地に分散している個人企業、農業、サービス業-彼の言葉で言えば市場に従属している部門-である。
 上記の二つの部門では、経済的稼働の基準がまったく異なる。前者の経済部門では、競争モデルは妥当しないし、独占(寡占)企業の消費者の欲望を支配している。労働者には専制君主として力を行使しているもの。後者の部門では、自己努力や自己責任というプレッシャーの中で、「自己搾取」が行われている。

  
この企業の行動基準が大企業とそれ以外の二つに分かれるというのは、日本でも労働裁判をしていて私も感じるところです。日本では、究極的な自己搾取は、「過労死」として現れている。
 
伊東教授曰く、
 ガルブレイスが経済学の知的遺産に加えたものは何か。
 経済学を、現実との格闘に引き戻し、少数の巨大企業、他方で、その外縁にある多数の個人企業と農業のそれぞれの”行動様式”と”市場”について「実証的解明」をしたことである。それは個人の合理的行動の上に演繹理論をつくりあげていく既存のミクロ理論の否定である。それによって、プログラマティズムに基づく有意な政策を示すことで、適者生存の社会ダーヴィニズムのイデオロギーを葬ることでもある。


■最後に
 この著作を読むとロールズの正義論や格差原理がやはり頭に浮かびます。
 アメリカ民主党のサンダース大統領候補が、このガルブレイスやロールズの流れの中で登場したのかと思えます。いまだに生きているガルブレイスということか。たまたまであろうが、時期を得た著作です。

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2016年3月21日 (月)

ベトナム労働法 印象記

■ベトナム労働法調査

 今年3月中旬に、ハノイのベトナム労働総同盟(ベトナムの労働組合中央団体)、ベトナム商工会議所(ベトナムの国営企業や民間企業、外資系企業が入会している使用者団体)、現地の法律事務所、ジェトロのハノイ事務所などを訪問して、短時間ですが説明を受けました。  現地の方の説明を私が誤解している可能性もあると思います。正確性に問題はありますが、ベトナム労働法事情の印象を簡単に記します。

■ベトナムについて  

 ベトナム社会主義共和国は、社会主義国ですが社会主義的市場経済を推進するという、ドイモイ路線を1986年から 進めており、労働市場も市場機能を重視しています。企業も、国営企業だけでなく、一般の民間企業、外資系企業があります。  労働組合も企業レベル、地方レベル、中央レベルで存在しており、賃金も各企業体で決める建前になっています。ストライキも、法的に容認されて実際にストライキが実施されています。社会主義国としては珍しい部類です。

■ベトナムの基本的な情報  

 

総人口は約9100万人。国民の平均年齢は約29歳、と子どもと若者が多数を占める。  

 

労働力人口は約5370万人。うち、農業従事者は約48%、工業従事者は約52%。  

 GDP成長率は、ここ数年6%を超えているとのこと。 2016年も6%後半の成長率が見込まれています。失業率は2%台。ということで完全雇用状態ですね。

 しかし、ベトナムの1人当たりのGDPは、インドネシアやフィリピンよりも少なく工業化は進んでいない。

■労働組合のナショナルセンター  

ベトナム労働総同盟一つ。

労組員数は約900万人との説明でした。  

労働力人口の中で半分が工業労働者として、組合組織率を推計すると約3割。  

社会主義国なので、もっと組織率が高いと思ったのですが、意外に少ない。


■ベトナム労働法

 労働法典が2102年に大改正されています。ジェトロの仮訳があります。  
 無期労働契約と有期労働契約(1年から3年)があるが、有期労働契約は1回のみの更新で2回更新すると無期労働契約となる(22条2項)。  
 ベトナムの労使とも「ベトナムでは長期雇用を推奨するのが政府の政策であり、企業の方針だ」と強調していました。

 他方で、実際の日系企業の経営者の方や地元の人は、ベトナム労働者は転職が頻繁で流動化が進んでいるため、今は労働者の雇用を長期化して、労働力の質を高めるのが課題というのが実情ということを聞きました。  


使用者が労働者を解雇できる場合を法律が限定列挙しています(38条)。  
a 頻繁な労働契約に定めた業務の不履行  
b 労働者の病気・事故によって一定期間(無期12ヶ月、有期6ヶ月後も回復しない場合)治療後も回復しない場合  
c 天災、火災又は政府が規定するその他の不可抗力の理由によりやむを得ず生産規模縮小及び人員削減を行う場合

   
 使用者が不法な解雇をした場合には、原職復帰(労働者の就労請求権)と労働者が復職を望まない場合の金銭解決の基準を法律で定めています(42条)。  
1 使用者は、労働者の復職認めて、解雇期間の給与、社会保険、健康保険及び最低2ヶ月の給与を支払う。  

2 労働者が原職復帰を希望しない場合には、使用者は1項以外に解雇手当(勤続1年に付き半月分の賃金相当額)を支払う。  
 ベトナムでは裁判所訪問はしなかったので、司法統計はわかりませんでした。事前勉強で日本に留学しているベトナム人弁護士に聞いたところ、個人的労働紛争の訴訟件数は、2013年で4417件、2014年で4682件があるとのことでした。ただ、ベトナムの人民裁判所の判決は公開されておらず、詳細はわかりません。

■集団的労使紛争について  

 集団的労使紛争(スト)は2011年で978件で多かったが、2012年は500件程度、その後、300件程度に減少している。


 集団的労使紛争が発生するのは、外資系企業が多く、台湾や韓国系の企業が多いのが現状であり、これらに比較して日系企業は少ないといわれている。  

 ベトナムでは、集団的労使紛争が件数をみてもわかるとおり、特に深刻化しているわけではないようだ。ストは法律に定めた手続がなされていない「山猫スト」が多いようだが、労働調停員や労働仲裁機関によって解決されている。


■近年の最大の関心事-賃金上昇


 ベトナム政府は、2018年に最低賃金を400万ドンにさせる方針を持っており、最低賃金を上昇させているとのこと。

 2014年で前年比14.9%、2015年も同14.8%をアップしている。一番高いハノイやホーチミン市では、月額310万ドン(約140ドル)となった。 また、最低賃金にだけでなく、平均賃金の上昇率は、ここ数年の平均が10%となっており、賃金上昇が顕著。ただし、中国やインドネシアとの賃金との比較ではまだ低い水準と言われている。


■ベトナム人の仕事観  

 ベトナムは、労働者の転職が結構頻繁で、職場への定着率を高めるのが労使双方の課題になっているようです。
 また、労働者の仕事観は、技師やエンジニアであればその仕事のみを行い、他の一般業務は行わないというジョブ型の発送が強いとのことです。欧州型のジョブ型的な仕事観のようです。
 現地の日系企業の管理者の方は、ベトナムの労働者は、真面目で嘘をつくようなことはないと言っていました。


■ベトナムとTPP-外資導入  

 労働組合も商工会議所もTPPに期待をかけており、TPPの批准によって、外資導入をすすめたいという姿勢でした。労働法改正による整備も外資導入という側面が強いように感じました。労使関係の要請として2012年の労働法大改正がなされたという観じはしませんでした。  

 最近は、日本は大型のベトナム直接投資は少なくなっているとのこと。韓国など直接投資が目立っているそうです。9000万人を超える人口をかかえて、国民も子どもや若者が多く占めていますから、これからさらに発展するでしょう。

■司法事情
 裁判所(人民裁判所)の判決が公開されておらず、どのような運用がなされているのか、不透明だとの意見もあります。社会主義国ということもあって、権力集中が特徴であり、司法部は独立しておらず立法機関(国会)の解釈権眼のほうが重視されているそうです。
 実体法の整備は、労働法を含めてそれなりに進められているのですが、司法手続の透明化は遅れているようです。
 法曹養成としては、弁護士は、大学の法学部、その後、司法学院(ロースクールと呼ばれる)に進み、座学と実務研修をして試験に合格したら弁護士になるそうです。

 裁判官と検察官は、弁護士養成と別ルートで、裁判所と検察に採用されて養成されることになっています。
 戦前日本の司法官制度のようなものです。刑事法廷も、裁判官、検察官の席は床より高く、床に被告人と弁護士が座るという形だそうです。

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